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日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

『ガリレオX第198回「子どもとは何だろう?」』大人がガキになり、子どもは困っているだろう。

2019年06月09日 12時29分13秒 | 糞馬鹿文化系大学出が分からない世界

江戸末期から明治初頭に日本を訪れた外国人は「日本は子どもの天国である」と言ったというが、それは納得の行けるものだろう。ヨーロッパの宗教では、子どもはモノ扱いだったから。それはイスラム教でも同じであり、大人の宗教の面倒臭い決まりを押し付けられていた。
加えて、大人が欲望を満たす為だけに動いていたから、環境悪化、子育て放棄は、ヨーロッパでは当然だった。
江戸時代、大人が子どもを如何に注視していたか?それは守貞漫稿の第4巻を見れば明らかである。まぁ守貞の博覧強記と緻密な記録自身が常人のそれを遥かに超えており、日本には風俗を記録するにも図抜けた逸材がいたと言う事も然ることながら、それは入れ物であり、入れるものがなければ、それは膨大な空虚なものとなるだろう。
守貞漫稿に一杯に詰められた、子ども文化の山は、それが詰め込めるほど存在していた理由である。
童謡と言うか、昔からの子守唄や、その他の誰が作ったか分からない歌の多さに万葉集の国家であると思い知る。
そりゃぁクラシックは凄いだろう、だが、それは然程楽しいものなのか?と思う事が多い。クラシック音楽は過酷である。
何やら階級社会と言う点では日本も同じだろうが、階級を超えた繋がりは日本には存在しており、その幅の広さやおおらかさは、ヨーロッパとは比較にならないだろう。
ヨーロッパでは、高度技術と民集技術の間の隔絶があるが、日本では「手遊び(てすさび)」での製作が多く、それは金持ちが頼む事は出来ず、先ずは、それが評判となってお呼びがかかるものである。
それは上流の定まったコースがあるのではなく、下から積み上げていくのである。
何とはなれば、子どもは何でも遊びにする。木の棒でも人形と見立てるし、竹の切れっ端でも想像力を高めて使うものである。
それに対して不憫に思った親や大人の細工が、新しい民芸品を作ってゆくのである。
ブリブリやギッテウや竹馬など、子どもが勝手に色々工夫しているものも多い。
それもだが、寝物語の世界についてガリレオXでは扱っていなかった。
昔の長屋では、夜が長い冬の夜は子どもが集まって、寝物語をしたものである。
これが凄まじい文化的成長を広く日本中に及ぼし、三国志から始まり太平記、水滸伝は、人冬で終わってしまう。史記列伝や古典などの記憶を辿って伝えられる。興味のある事を、延々と3時間ぐらい毎夜行われるのである。
今の糞みたいな狂惨咒擬調教とは「文化のレベル」が比較にならんのだよ!
その中でもキラーコンテンツは「論語」だろう。何しろコイツにかかったら、寝ない子どもはいない。
この様な朝昼夜の時間を過ごした子供達の情操教育は比較にならないだろう。
今の子どもは、遊んでいるのか?遊ばれているのか?と思ってしまう。
私は「教育」とホザキたがる糞馬鹿文化系大学出の「狂惨咒擬調教」よりも「遊び・ゲーム」を楽しくする為の方法論としてのプログラムや理科教育が必要だと思っている。
だが困った事に、ITやコンピューター、数学、人工知能などどれも糞馬鹿文化系大学出の塊である憎狂阻(にっきょうそ)には全く理解不可能な領域である。
完全な馬鹿が、先ず子どもをダメにする訳だ。
何ともしがたい問題である。



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