これは虫獄でよくある愛欲の上の国政破壊の最たるものなのだが、楚の平王は、息子の后となる女を横取りした。
これは楊貴妃もそうだし、夏姫もそうだが、この横取りは、例外なく、国家を存亡の危機に追い込む。
この時、楚の重臣伍奢は、息子伍子胥と共に、王を諌めたが、王は両者を殺すよう命じられた。
伍子胥は生き残り、呉に渡り、呉王闔廬の為に賢明に働き、王位に付けた。
その報恩として、伍子胥の復讐、つまり楚を攻める事を許した。
伍子胥は当時当たる者敵なしと称される最強の軍団を有しており、知略兼ね備えた伍子胥の鬼気迫る武力の応酬に、楚は脆くも敗北した。
当時平王は死んでおり、墓を暴いて、その死体に鞭打って、伍子胥は恨みを晴らしたが、死体では足らず、楚を滅ぼさんとした。
これを見た伍子胥の幼なじみであり、楚の臣であった、申包胥は「嘗ての君主にあまりに酷いではないか!」と責めたが、伍子胥はこう答えた。
「日暮れて道遠し、最早、逆しまに向かい、逆しまに走るのみ」
つまり楚攻めを徹底的にやると言う事だった。
当時の国力で伍子胥に対抗できる国は殆ど無く、諸国に救援を求めたが無に帰した。
最後に大国秦へ向かい、当時の秦の哀公に直訴を重ねた。
だが、内政にしか関心のない哀公は、全く取り合わなかった。
進退に窮した申包胥は、ついに町のど真ん中で鳴き出したのである。
最初、直ぐに諦めるだろうと皆が言って、馬鹿にしていたのだが、それは7日に及んだ。
「この男は命をかけて泣いている」
命をかけて国を守ろうとする忠臣をこの様な形で死なせてはならない。
粗暴で田舎者の集まりと言われていた秦の哀公は、申包胥に向かい、次の詩を伝えた。
「豈(あ)に衣無しと曰(い)ひ,子(し)と袍(はう)を同じうせんや。
王于(ゆ)きて師(いくさ)を 興(おこ)こさば,我が戈矛(くゎぼう)を修め,
子(し)と仇(きう)を同じうせん。」
(何故衣が無いという事がありましょうか?貴方と同じ袍を着ましょう。
王である私が自ら出向いて、戦いを起こしましょう。その敵は貴方の国を攻める敵と同じ者です。)
そして秦の大群が急に出現し、伍子胥の率いる呉軍は、総崩れとなり撤退の已む無きを得た。
他にも、野人を味方に付けた繆公(穆公)の話も色々面白いが、蛮族と言われていた秦の公(きみ)が利害を抜きに(若干あるが)援軍を出した稀有な例である。
キングダムは、面白いが脚色が多すぎて、実態と大分異なる。
また蒙恬の末路などは、有名なのだが、それを知っていて見ると、実はとても切ない話である。
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