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日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

林修の正体、私の「林修のクソ番組を見て、こいつバカって思った。」のブログに対する反応をどうぞご覧ください。これは本当の林修です。

2018年11月17日 15時46分13秒 | 糞馬鹿文化系大学出が分からない世界

林修の正体、私の「林修のクソ番組を見て、こいつバカって思った。」のブログに対する反応をどうぞご覧ください。これは本当の林修です。

1 コメント

Unknown (Unknown)
    2018-11-09 08:33:58
    シーボルト云々の前に、自分の国語能力を鍛えろよwww
    お前、ほんとに日本人か?www
    みんなが知らないことを知った、んじゃなくて、まともな人間なら信じないデマを「真実だ!」と信じ込んでる哀れなおっさんだろwww

はい、林修くん「正真正銘の馬鹿」で「口汚いクズ」であると分かりました。
実は森永卓郎や狩野英孝もこうやって、口汚く罵って来ました。
国語能力を鍛えろ?何処を?何を?
おいヅラのおっさんよ。
見苦しいんだよ。
「まともな人間なら信じないデマを「真実だ!」と信じ込んでる哀れなおっさんだろwww」
はい、シーボルトから日本行きへの請願状はペリー記念館の資料として残っております。
また林修程度のスッカスカ野郎は「くずし字」を読めないでしょう。
それからすると英雄の決断のMCさんは凄いもので、あのオタクっぽく見える全員が武士の書面が読めます。
林修が読めるかは知りませんが?
だから彼らには敬意を表するけど、お前:林修は馬鹿のレベルだよ。

私に噛み付いてきた森永卓郎は、屁みたいな「江戸の金使い、髪型の銀使い」を吹聴していました。
同じ様な事は池上ハゲ嘘彰もホザイテイました。
まぁ良い加減馬鹿が続いており、その他のクイズ番組で路金(ろぎん:旅行費)を膨大なものと思い込んでいましたが、伊勢参り(伊勢講)は、多少余分な金を持っていましたが、15両ぐらい程です。
多分森永汚い卓郎は旅籠の費用を色々探っていたのでしょうが、お伊勢さん近くでは、実際宿に止まらざるを得ませんが、日本の街道には、弘法大師空海禅師が四国に作った札所の間をつなぐ「ご接待」の精神が通っており「善根宿」や「木賃宿」などがあり「善根宿」はほぼ無料ですが「心づて」として30文から100文を残す習慣がありました。
また金がなくなれば「六分」の様にお経を唱えるとお布施が貰えました。(場所に依る)
この様な事も知らず、森永卓郎や池上ハゲ嘘彰は嘘を流布していました。

また「江戸の金使い、髪型の銀使い」の真実を森永卓郎は知りません。
江戸には額面通貨と秤量通貨の2つがあり、後者には「甲州金銀」や「幕府銀座」の「割り銭銀貨」などがあります。
一方金貨には「相場」があり、小判の形や年代に依って価格が違います。
他方秤量通貨の場合「地金相場」があり、それ以外の要素(元禄小判や天保銭)などの発行プロデュースが下手な場合価値が下がりました。
だから目方で価値が安定的に決まる秤量銀が好まれたのです。
ただし、殆どが「大福帳」の上の数字の存在で、実際上は、金から銀への交換手数料を両替商に献上する愚かな行為でした。
ですが、江戸の後半になると、小判は銀を大量に含む事になり、銀貨を秤量で発行する事に無理がありました。
実際、田沼意次の時代には金:3割、銀:7割程度の比率となり、金は表面のメッキだけでした。
当時は、それを黄色の塗料で「化粧」させると言いましたが、そんな事をして見せていたので、小判を裸銭(つまり1両小判)を持つのは、表面の金や化粧が取れるので、控えられました。
その代わり、和紙で包み、表面に額面、裏面に裏書と言って、金座の責任者のサイン(花押)が書かれたものを専ら使いました。
これを金子と言います。
だから、店の主が、現金を持つ場合や他の店との取引は先ず、25、30両の金子単位で手付を付けて、その後、本払いを証文で行っていました。

以上が林修くんが「みんなが知らないことを知った、んじゃなくて、まともな人間なら信じないデマを「真実だ!」と信じ込んでる哀れなおっさんだろwww 」と吐き捨てた男の書いた正真正銘の事実です。

最後に下らない上に下手な国語の林修くんへ、君の知らないことをプラスしますね。

田沼意次は「世の中を甘く見る、林修のような糞野郎」でしたが、唯一立派な仕事をしたのが「南鐐2分銀」の発行でした。
これは政府が「銀の秤量通貨」制度を廃止して、銀も額面通貨として流通させるようになり、この後、銀が多く集められ、発行する小判が増えました。
何故、このようにしているかというと、幕府は開闢依頼、常に、宋王朝が「デフレ」で崩壊したのを危惧しており、三代将軍家光が鎖国した1番の理由は「金銀銅」の海外流出でした。
ですが、実は裏で金銀銅の流出は行われていました。
それは「西郷どん」でも分かるでしょうが「信長のシェフ」でも出て来た「砂糖」は天皇陛下と将軍しか食べられなかった「風邪の薬」だったのが江戸時代は近隣諸国で1番砂糖を使っていたのは日本でした。
そして、その多くは幕末頃には、海外の砂糖で埋められました。
これを差配したのが薩摩藩家老の調所広郷でした。

知っていたかな?口の汚い林修の糞馬鹿野郎!バカ面見せるな!
それとイケガMeTooの池上ハゲ嘘彰!クソ下衆野郎さっさと死ね!



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