活発な梅雨前線による記録的な大雨は
西日本の各地に、土砂崩れや河川の氾濫などの被害を及ぼしている。
福岡の姉から電話があった。
一昨日は、電話で「雨が降り出しそう~」と言ってただけなのに
昨晩は学校に避難していたと…
近くにある筑後川の水が氾濫しそうで、避難指示が出たそうだ。
近畿地方の我が地域でも、避難指示・勧告がスマホに
頻繁に発信されてきた。
我が家は、高台で土砂崩れのない場所なので大雨の音を
聞きながらおとなしく自宅待機。
昨日は、近江おごとハーブガーデンに行く予定でしたが中止!
行ったことがなかったので残念ですが、
このような異常事態では仕方がないですね…
テレビでは、各地の被害の状況が継続で放映されていた。
たまたま梅雨前線の大雨の前の山陰旅行を楽しんできただけに
通過した場所はどうなんだろう?と気になる。
「錦帯橋や!」と主人の声。
駐車した場所はすっかり消えて、錦帯橋のぎりぎり迄
濁流が勢いよく流れている画像がテレビで映る。
錦帯橋 流失と再建の織り成す名勝の歴史
(画像はお借りしました)
現在の5連アーチ橋形式で初めて橋が作られたのは三代目領主・吉川広嘉の時代だ。
中国の絵にヒントを得た広嘉は、水の抵抗を減らすように尖らせた橋脚など、
いくつかの改良を施して橋を作らせた。そして延宝元年(1673)10月1日。
やっと待ち望んだ「錦帯橋」が完成するのだが、
なんと翌年(1674)5月28日の洪水で早くも流失してしまう。
しかし年内にすぐ再建され、石垣の技法や敷石の改善、捨て石の投入などの改良により、
この橋が昭和期まで存続することになる。
が、276年間流されることのなかったこの橋も、昭和25年(1950)9月13日の
キジア台風による濁流によってついに流失してしまう。
国や県の補助を受けて再建されることになったが、岩国市の「原型で再建したい」
という要望に反し、「近代的なコンクリート橋にすべし」との上からの声が強くなる。
が、市民の活動なども実り、昭和27年(1952)12月26日に架橋完了。
翌年(1953)1月15日に渡り初め式が行われた。
再建にあたっては、再度の流出を防ぐため、橋脚の基礎をコンクリートにすること、
高さを1メートル高くする、一部に鉄製部材を用いることなどの改良が施された。
平成13年(2001)からは3年がかりで「平成の架替」が行われ、
橋の木造部分すべてが交換された。
つまり現在の錦帯橋は橋脚が昭和時代、橋自体は平成時代のものということになる。
錦帯橋が重要文化財や史跡ではなく「名勝」指定であるという所以は
こういうところにあるのかもしれない。
一日違いで雨にも合わず山陰を廻っただけに、自然の残る歴史の広島や山口の
地域の方々の安否・被害が気になる所です。
各地被害でお亡くなられた皆様に、ご冥福をお祈りいたします。