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山陰旅行(津和野・萩・錦帯橋・千光寺・鞆の浦)3日目

2018-07-07 18:52:45 | 旅行

少し天気が怪しくなったので、早めにホテルを出発する。

 

行き先は、尾道の千光寺

これまでの観光地は初めての場所でしたが、ここは2回目です。

同乗者は、一度行っていたㇼとまちまちですが

運転する友人の旦那様が、何処も初めてなので何故かホッとします。

「疲れたら代わるよ」なんていってましたが、全部運転してもらいました~

 

千光寺に到着。

寺伝によると大同元年(806)の開基といわれています。

朱塗りの本堂は赤堂と呼ばれ、除夜の鐘で有名な鐘楼と共に尾道の

シンボル的な存在となっています。

 

 

千光寺山の中腹は尾道を愛した文人のゆかりの地「文学のこみち」があり

頂上展望台は、ぐるっと尾道の大パノラマがひろがります。

ここから見える景色は絶景です。

 

さぁ、西から降ってくる雨に合わないように次に向かいましょう~

次の観光地、鞆の浦ですがここも2回目です。

カーナビ案内で走行しているのですが、鞆の浦近くになると

何故か?地元の狭い路地を案内する…

地元の込みいった場所で停車。

近くのお店の方が親切に「ここに車停めていてもいいよ」と

親切に言ってくださいました。

徒歩で鞆のシンボル常夜燈に向かう。

昔ながらの港町のたたずまいは、ゆっくりした時の流れを楽しめます。

 

時間はお昼の時刻。

常夜燈横の横に立つ、古い家をリフォームした

イタリア料理店で ランチ する。

 

 

背を低くして入口を入ると、店の中は現代風です…これが、お店の持ち味?

 

 

 

味は、保証付き

美味しかったよ~

 

 

 

おなかも満足したので、有名な福禅寺(對潮楼)を目指す。

 

 

 

この「対潮楼」は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、

新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。

つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったんですね。

1711(正徳元)年、従事官・李邦彦は、そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛。

のち1748(延享5)年には、正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。


ちなみに、この眺望写真、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち(山口百恵さんのカバー)」の

CDジャケットにも使われたんでって…

 

もう一度、UPします。

 クリックすると新しいウィンドウで開きます

 

車を停めていただいたお店で、お買い物。

雨に合わないうちにと、鞆の浦を後にします。

 

途中、山並みを走行する高速道路上、雨雲が近づいた時は

時々小雨がぱらついたりやんだり…

でも、大丈夫

雨の届かない場所へと車は走ります。

おっと

途中、カーナビの道路が消えたと…新しい道路が出来ているようで

兵庫県宝塚市玉瀬にある新名神高速道路サービスエリアの方に入ったようです。

走らせていると前方に建物が現れた。

 

 

「あっ!テレビで言っていたサービスエリアだ~」と友人。

宝塚北サービスエリア

 

 

 2018年(平成30年)3月18日 : 川西IC - 神戸JCT間開通に伴い、供用開始。

「宝塚モダン」をコンセプトに、宝塚市の「花のみち」周辺をイメージした南欧風イメージの建物が

高速道路に垂直方向に伸び、その中にフードコート、ショップ、ベビールーム、トイレが整備されている。

施設群は上下線集約型で、建物を挟んで西と東に上り線と下り線の駐車場が広がる。

店舗面積や駐車場台数は西日本最大規模。

 

 

 

そして、宝塚歌劇をイメージした豪華なトイレ。

広々としています。

 

 

 ベーカリー 「森のパン」


森の中のパン工房をイメージしたコンセプトベーカリーで、耳まで柔らかい食パンを購入。

    

フードコート

オムライスで有名な北極星・大阪のうどんで有名な今井・お寿司で有名な大起水産 等‥

SAの定番メニューから、レストランのような色々なものが食べられます。

私たちは、このフードコートで夕食をすませました。

思わぬ道へ紛れ込み、二度と行きそうにない「宝塚らしさ」あふれる

憩いの空間へ連れて行ってもらいました。

 

そして、一路大阪府の自宅へと・・・・・

雨にも免れ、ゆっくりと山陰の歴史街道を夫婦共々

旅行することが出来ました。

運転お疲れさまでした

 

長い紀行文に、お付き合いして頂きありがとうございます~


山陰旅行(津和野・萩・錦帯橋・千光寺・鞆の浦)2日目

2018-07-07 09:56:13 | 旅行

早朝、日の出を見ることが出来ました。

 

旅館駐車場に車を置いて、城下町を歩く。

旅館から頂いた焼物店兼喫茶店で、ゆっくりとコーヒーを味わいます。

水が綺麗なのか、特に美味しく感じました。

目の前に、壁一面埴輪のオブジェ…この中はスズメのお宿だそうです。

(下記写真)

焼物のお店なので、つい買い物をする (商売上手です)

 

まずは、近くの萩城跡へ…

萩の城下町を自転車で回れるのですが、自転車に心もとない人がいるので

徒歩になりました。

 

 

江戸時代を残した江戸屋横町の 小路を歩きながら

高杉晋作誕生地を訪問。こじんまりした家です。

 

 

次に、木戸孝允旧宅(養子にいったのでのちに桂小五郎)

この家で約20年間過ごしたそうです。

藩校明倫館で吉田松陰に学び、坂本龍馬仲介によって

薩摩の西郷隆盛らと倒幕の一大勢力となる薩長同盟を結びました。

版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くしたので

明治以後は西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれました。

 

 

菊屋家住宅

 菊屋家は摂津の国(大阪)住吉大社の、津守摂津守国量朝臣を祖とし、

中世期大内氏に随身して山口に住み、同氏滅亡後は武士を捨てて町人となった。

のちに菊屋家は代々大年寄格に任命され藩の御用達を勤めた。

 

 

 

 

城下町を歩いていると、あっちこっちに焼物店が目につく。

買わないつもりでも、やはり欲しくなりますね!

 

吉田松陰神社へ車を走らせる。

ここは、吉田松陰幽囚の旧宅のある場所。

 

 

松下村塾(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、

長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である。

 吉田松陰が同塾で指導した短い時期の塾生の中から、

幕末より明治期の日本を主導した人材を多く輩出したことで知られる。

 

 

父は萩藩士杉百合之助。山鹿流兵学師範であった吉田家の養子となる。

藩校明倫館を経て、諸国を遊学。佐久間象山のもとで砲術と蘭学を学ぶ。

安政元年(1854)海外密航を企て、下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとしたが、

拒絶され投獄。のち萩の野山獄に移されるが、翌年免獄となり実家杉家に幽閉の身となる。

その間松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文山県有朋ら約80人の門人を集め、

幕末から明治にかけて活躍した人材育成の場となった。

安政6年(1859)、安政の大獄により江戸で刑死した。

 

こうして忘れかけた歴史の勉強を、改めて学んだ旅行でした。

しかし、山口県は総理大臣が多いので有名。

 

首相経験者[編集]

 

       選挙区は東京7区(中選挙区制時代)→東京18区・比例東京ブロック)

  • 安倍晋三(第90代・第96代・第97代・第98代内閣総理大臣):長門市(本籍地。出生は東京都)

 

菅直人氏 山口生まれでも山口県出身総理大臣展から「除名」

  政界どころか、自身の生まれ故郷にとっても“忘れてしまいたい”人に

なってしまったのかもしれない。

 

 

国宝瑠璃光寺五重塔を見学

 この五重塔は、応永6年(1399)の応永の乱で命を落とした大内義弘の菩提を弔うために、

弟の盛見が建立を計画、嘉吉2年(1442)に完成したといわれています。


塔は、方三間で高さが31.2m、建築様式はおおむね和様式で一部に唐様式が見られます。


屋根は檜皮葺で、塔身部は上層部に向かって細くなっており、非常にすっきりとした印象です。


室町時代中期におけるすぐれた建築の一つであるとともに、大内文化の最高傑作であり、

日本三名塔の一つにも数えられています。

 

今日の最後の見学地は、錦帯橋です。

 

 

5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、

主要構造部は継手や仕口といった組木の技術によって釘は1本も使わずに造られている。

石積の橋脚に5連の太鼓橋がアーチ状に組まれた構造で、

世界的に見ても珍しい木造アーチ橋として知られる。

また美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて

初めて実現したものである。

杭州西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て1673年に創建された。

西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。

1950年(昭和25年)の台風で全て流失したため、

現在の橋は1953年(昭和28年)に建造当時のまま復元されたものである。

 

 

日も暮れてきました。

広島のホテルへと向かいます。