唯のブログ。

病気の体験、療養生活や日々思いついた事などを書き留めているブログ。時々毒吐き。楽しめれば最高、無理なら受け流す。

リオ五輪。。。

2016-08-19 09:17:07 | インポート

 吉田沙織理 選手が 負けた。 

 吉田選手には申し訳ないが、、

  勝って4連覇するよりも負けて、さらに良いもの、深いものを見せられたように感じる。

   崩れ落ちる王者、 その中で本心をさらけ出す。
   負けてもインタビューに応じる姿。 表彰台では涙を流しながら勝者を称える。
   自分の為では無く、応援してくれる方へ捧げる為にメダルを取ろうとしていた事。
   金メダルは当たり前ではなく、取るのが難しい事を再認識させる。
  
 
 4連覇は前日の伊調選手が見せてくれた。
  
 吉田選手は負けた事で、別なものを、もっとたくさんの事を見せてくれた。 
 
 冬季オリンピックで、浅田真央が 銀メダルに敗れてインタビューで崩れた事。
 次のオリンピックではSP失敗、フリーで最高の演技をしてリンクの上で咆哮したシーンを思い出した。


   感謝して多くのことを感じ取らないといけない。

色々な事を経験し、さまざまなシーンを見て、たくさんの学びを得る。
 
   天の采配恐るべし。
 
 
 



リオ五輪。

2016-08-19 09:05:45 | インポート

バトミントンの金メダルペア、
 初めてコンビを組ませた高校時の先生は謙遜も含んでいるとは思うが、、、、
 「試合のために、余ったもの同士を組ませた。」 と、言っていた。


 組まされた選手の方は、
  「主力の選手と組むことになったので期待されているのだ、、がんばらなければいけない。」 と、思ったという。

 成り行きに素直に任せて自分の出来る努力をするということが成功に繋がるのだと思う。
  
 余り者同士とは、実は自然と最後に選ばれた者同士とも言える。 

  余り物には福がある。 来るべきしてきたものであり、天の采配。

 余計な事は考えずに、嫌とか好きとか己の我で物事を判断せずに、与えられたところで、一生懸命がんばる事が天の意思に沿う事。
    
 そういう生き方がいい結果を生まないはずはない。
 
 

 
 
 


理解されず。

2016-08-11 18:27:58 | インポート

 正月休み、 

 言葉や態度の端々に 
  「育ててやって、大学まで出してやったのだから、就職先は俺の満足するような会社じゃないと許さない。」 という事を感じさせる父親に 会社を辞めたいのだけれど、、、と切り出した。

 こちらは、一山もふた山も乗り越え、十分に会社の信用を得たと思っていたので 切り出したのだが、、

 何も知らない親父からは、
  「きついからと言って逃げ出しては、どこへ行っても同じだ、」
  「周りがそんなに優秀でついていけないのか?」  というような言葉ばかりで全く理解されなかった。

  悲しいかな、、こちらがいくら説明しても 自分が辛くて逃げ出すと思っていて、、全く信用されていなかった。
   状況を理解したり、自分の気持ちをわかってもらうような事はなかった。
 
 
 当時はまだ、「親に従順ないい子供」を心身ともに装っていたので、 

  親を納得させられない自分が悪いのだと自分を責めた。 

 親に納得してもらうまでがんばって認めさせよう、、、、などと考えていたのだから、、 自分もめでたい。


 


次の支店へ転勤して。

2016-08-11 17:36:00 | インポート

ベテラン社員が手に負えずに逃げ出すような担当先を、新人2年目の自分が上手くまわすことなど出来なかった。
  渉外課員として 初めての外回り、初めての土地で、初めての支店には知り合いもいない。
  書類の場所も判らず、今まで出来た事数少ない事でさえ何倍も時間がかかる。 だから周りはそんな事も出来無いのか?となる。

 取引先は大口ばかりで、こちらが集金に伺う事が通例になっていた。 
 毎日必ず午前中に集金に行く先だけで5社。 これに他の企業などからの集金依頼が来ればそれだけで忙殺されノルマのための工作などする時間が持てなかった。
 
 時間を作れずに、簡単な報告者や事務手続きが回らず、「仕事の出来ないやつ」というレッテルが貼られた。
  現物の管理が出来ない、郵便物が送れない、予定表が提出されない、、、、。
 
 毎日毎日、店内で罵倒され、業後は9時、10時から居酒屋へ連れて行かれて罵倒され続けるからますます時間が無くなり仕事が進まない。

 居酒屋で罵倒されている間は一口も手をつけない、ただただ下を向いて二時間位罵倒され続ける。
 毎日、毎日であるからたまらない。
 その後11時ごろ開放され、一人で飲みながら食事をすると寮への帰宅は毎日1時、2時だった。

 それから仕事をした。 日中時間が作れるように、作業を出来るだけこなしてから寝た。

 周りは全員敵で、毎日白い目で見られていた、たぶん人生で一番孤独だった時期は1年以上続いた。

 しかし、1年もすると仕事の要領をつかみ始めて、数字が挙がってくるようになる。
 支店内では相変わらず無口で、周りに愛想を振りまくようなことは無かったが、お客さんとの関係はすこぶる良くなっていた。
 お客さんが信用してくれるようになり、 何とか自分に花を持たせてあげたいというような気持ちを感じるようになって来ていた。
 
 集金先にお願いして、こちらの都合も聞いてもらうようにして時間を作った。
 自分でなく、パートさんが集金に行っても良いとの了承を得て自分の時間を作った。
 
 数字が挙がり、仕事がスムーズになってくると回りの対応は一変する。 期末になるとノルマ以上のものを求められ、支店の為と依頼され関係ないことまで協力する。
 飲みに誘われたり、 「呑みに誘ってくれない」とクレームがついたり。  酷い対応をした人間との親密な付き合いは避けた、本性知っているのに誘うはずはない。

 全員の本性を知ってしまっているのでその後どれだけ近づかれてもむなしかったが、 何人かは変わらず良くしてくれる人がいてその人たちだけは信じていた。
 
 
 今に思えば、仕事の厳しさを体感し、誰にも頼らず、自分で切り開いていった 楽しい思い出というところか。
 
  転勤直後には外訪中に交通事故になり入院したり、 周りは誰も口を聞いてくれなかったり、 毎日毎日罵倒されたり、 飲み屋で下向きながら説教され続けたり、

 一山もふた山も越えて 落ち着いて来たころ 

  その会社で働き続ける事にもう既に誇りを感じなくなっていた。
 
 というより、

 その会社で働く事を恥ずかしくさえ感じていた。 

 結局、客に好かれて色々やってもらっているが、全部搾取ではないのか?
 
 信用という都合の良いもを 利用した 詐欺(俺は必ず顧客に説明して納得してもらっていたが結果は詐欺まがいではある。) では無いのか?

 当時、日本で1.2を争うほどの収益を上げている企業が、、、、
 若いのに高給をもらう社員が、、、、、、、、、顧客にお願いして、結果的に損してもらってまで収益を追求するのである。 客に好かれていればいるほど実績は挙がる。 つまり、搾取が大きくなる。  

 
 馬鹿でしょう。。  自分さえ良ければそれでいいのか?  
 
 きついだけでつまらない仕事、過酷な労働条件への不満から出たところもあるだろうが、、  そういう感情に支配されながらの日々に嫌気がさして、遂に、 意を決した。


 
 
  
 
 


長岡花火。

2016-08-04 15:44:24 | インポート

 長岡花火を見に行ったのは、26年前。 初めて見て、あまりのスケールのでかさに軽いカルチャーショックを受けたのを覚えている。
 
 
 
 新潟支店で社会人としてのスタートを切り、2年目の夏、 

 突然、支店長に「長岡の花火を見に行こう」と、言われて、新幹線で新潟から長岡までいく事になった。

 面子は、総務の先輩女性社員と同期の女の子二人。 なぜ、そういう不自然な面子なのか全く理解が出来なかった。 他の女子社員はうらやましいな、とか、いいな、と言っていた。
 
 
  席も決まっていない川原に腰をおろし、上を見上げながら見る花火は想像以上にすばらしく言葉では言い表せないくらいの感動を覚えた。 間隔の長い間延びした花火大会しかしらない田舎者の自分は、視界に入りきらない花火など見た事なかった。

  川原一面が光で照らされる風景は、ベトナム戦争映画を髣髴させるような、リアルな臨場感を味あわせてくれて、なんとも心に響くものがあった。 今思えば、空襲の追悼の意もあるというからそういうものを自然に感じていたのかも知れない。
  思いがけずに花火に強い感動を覚え、余韻の残るまま焼肉を食べて、ビールを飲んで帰ってきた。

  業後に新幹線で花火を見に行くという今までにない経験をさせて頂き、社会人の遊びのスケール感の違いにも軽いショックをうけた。
  
  
 しかし、本当のショックは数日後にやってきた。
 
 なんと、いきなり転勤の辞令が出たのだ。 

  入行1年4ヶ月。 同期でもまだうわさも聞いたことがない転勤に自分がなったのである。
  銀行の転勤は事前の内示などは無く、辞令が来て、はんこを押して、10日後には引継ぎをすませて次の部署に出勤する。
    いきなり、新潟を10日後には出る事になったのだから驚いた。
  
 そして、当然支店長は移動の事をしている。

 長岡花火は、 長年住み慣れた新潟を離れる自分への支店長からのプレゼントだったのだ。
  あの一日は自分の人生にとって重要な一日となった。 今でも思い出すと当時の支店長には感謝します。
  
 
 転勤が決まると、送別会が入ってくる。 自分の場合は新入生としては異例で、連日連夜 空きはすべて埋まって、転勤当日まで土日を含めて空いた日が無かった。 引越しは全部業者に詰めてもらった。

 そんな中、支店長が辞令の後に一番先に予定を抑えてくれて、一日さしで飲むことになっていた。

 そこで、言われたのは、どうせ判る事だからとの前置きの後、
  「東京に転勤を出したかったけど、新入生を受け入れてくれる支店などない。 でも今回は、前任者が逃亡して行方知れずになっているので補充の話があって受け入れてくれる事になったのだ。 ものすごく大変な思いをすると思うけど乗り切ればそれだけ成長するし、そうできると思うから出すので、がんばれ。」 というもの。
 
 その後、支店長社宅へ呼ばれて仕事の話をされた。 
 (具体的で細かい指導を受けたが、残念ながらこちらは事の重大さがわかっていないので上の空だった。)

 
  ここまでは、いい話なのだが、、、、1年4ヶ月で次の支店に配属されれれば、どれだけ悲惨な事がまっているのか今は想像がつくが当時は全く危機意識が無かった。 社会人として自覚がなく、甘かったのだ。

 そんなアマちゃんに、とんでもない 人生最大といってもいい位のピンチがやってくることなど想像も出来なかった。