転勤し師範とは秋の全日本で会う位だったが、仙台転勤でそれも無くなっていた。 東京へ戻って、OB会、学内戦の連絡をもらう、
同時にうれしくない知らせ、師範が倒れて体の自由が利かないと。。
学内戦当日、師範は会うなり、「おう、こんなんになってしまったよ。」 とおどけていたが、受けた衝撃は体を突き抜けていくようなものだった。 本当かよ。。 聞いていたから知っていた、しかし、目の前で見てはじめて実感したのだろう。
強い衝撃そのままに、試合に入っていった。 卒業して7年、道着を着る事数回、技も力も気力も無く、体は動くはずはなかったが、必死になって動かした。 しかし、当たらない、効かない、???? 。
最後まで負けはしなかったが、全く恥ずかしい、自分自身がショックを受けるような試合だった。
しかし、 最後、正面の師範の所に挨拶に行った時、耳を疑うような言葉を頂いた。
「がんばったな、お前は俺の宝だよ。。」 と。 俺にとっても宝の言葉。 追い込まれると必ず頭に浮かび勇気づけてくれる。
低レベルだが、数年ぶりのトーナメントをして、痛くて痛くて歩けない、散々だった。
その、2ヵ月後、自分が病になる。 激しい下痢が続き、潰瘍性大腸炎。
2年後、ストレスから解放されて病気を治そうと会社を辞めるが、全く治らず、数年間、知り合いに用意して頂いたマンションに篭りる日々が続いた。
大分よくなり、仕事をはじめ、新潟を訪れる機会があり、師範の居場所を聞き出して初めて施設を訪問した。
まだ、その時は会話が出来て元気だった、久しぶりの再会をとても喜んでくれた。
自分を施設から出せと、拳を握って殴るまねをする。 自分を新大、主将、とまわりに説明する。帰る時は、玄関まで送って下さり、ずっとこちらを見送ってくださってくれていた。 しかし、あまりのお変わり様に、自分の中では、最後になるかもしれないのか?という気持ちがあって、とても動揺していた。
その後も、会う時は、病院で、施設の、ベットの上でになった。
時には関川道場の先輩方と一緒に、お伺いした。
一時は、危篤状態になり、懸命の蘇生で助かった後のお見舞いの時もあった。
OB会前にみんなで伺った時は喜んでくれたと思う。
それから極真会館新潟支部関川道場は 本部直轄になり、また、師範と連絡が取れない状況になっていた。(動けば判っただろうが、動かなかった。)
大分健康を取り戻してきた矢先今度は 劇症心筋炎 で緊急搬送され4ヶ月入院。 入院中に自分に師範の居所を聞いてきていた人がおり、退院後 随分時間が経ってから連絡を入れると、逆に居場所を教えて頂く。
その方は、直ぐに金沢を訪問して来た。 自分は雪解けを待って4月になってしまったが、久しぶりに会いに行ってきた。
久しぶりの師範は元気で言葉も判ったが、やっぱり少し弱った感じがした。
その時は、前回までと違って、なんとなく久しぶりと言うより、ああ、又来たな。。と言う感じだった。
慣れというのか、関係が近くになったというか、 特別再会と言う感じがしなかった。
健康状態については気がもめたが、、家族の下に引き取られ養生しているので安心だった。
何回か来ているうちにご家族とも会うことが出来るだろう、これで一安心と思っていた 矢先
道場責任者の方から、訃報を頂いた。
何度も、何度も これが最後かも知れないという思いを頭の中に浮かべて師範の元を離れると言う事を繰り返し、 最後にお会いした時は、いつものように名残を惜しむ事も無く、「又来ます。」 「 じゃあな。」 と言う感じで軽く別れられた。 長い年月をかけて、ゆっくりお別れした事で感情が耐えられる程度に納まったのだと思う。
いきなりのショックだったら、、
一時は、師範に挨拶もせずに俺が先に行くのかと本気で思った事もある弱った心臓がたまったものではなかっただろう。
最後、ご子息、ご家族の下で療養され。
師範が入る前から、金沢ー新潟 片道4時間掛けて月に一度のお墓参りを欠かさない先祖供養を大切にするご子息、ご家族の守るお墓に入る。 本当によかった。
師範、20年間本当にお疲れ様でした。 安らかに、ゆっくりと お休みください。
微力ながら、ご冥福をお祈りいたします。
本当にお世話になりました。 ありがとうございました。
同時にうれしくない知らせ、師範が倒れて体の自由が利かないと。。
学内戦当日、師範は会うなり、「おう、こんなんになってしまったよ。」 とおどけていたが、受けた衝撃は体を突き抜けていくようなものだった。 本当かよ。。 聞いていたから知っていた、しかし、目の前で見てはじめて実感したのだろう。
強い衝撃そのままに、試合に入っていった。 卒業して7年、道着を着る事数回、技も力も気力も無く、体は動くはずはなかったが、必死になって動かした。 しかし、当たらない、効かない、???? 。
最後まで負けはしなかったが、全く恥ずかしい、自分自身がショックを受けるような試合だった。
しかし、 最後、正面の師範の所に挨拶に行った時、耳を疑うような言葉を頂いた。
「がんばったな、お前は俺の宝だよ。。」 と。 俺にとっても宝の言葉。 追い込まれると必ず頭に浮かび勇気づけてくれる。
低レベルだが、数年ぶりのトーナメントをして、痛くて痛くて歩けない、散々だった。
その、2ヵ月後、自分が病になる。 激しい下痢が続き、潰瘍性大腸炎。
2年後、ストレスから解放されて病気を治そうと会社を辞めるが、全く治らず、数年間、知り合いに用意して頂いたマンションに篭りる日々が続いた。
大分よくなり、仕事をはじめ、新潟を訪れる機会があり、師範の居場所を聞き出して初めて施設を訪問した。
まだ、その時は会話が出来て元気だった、久しぶりの再会をとても喜んでくれた。
自分を施設から出せと、拳を握って殴るまねをする。 自分を新大、主将、とまわりに説明する。帰る時は、玄関まで送って下さり、ずっとこちらを見送ってくださってくれていた。 しかし、あまりのお変わり様に、自分の中では、最後になるかもしれないのか?という気持ちがあって、とても動揺していた。
その後も、会う時は、病院で、施設の、ベットの上でになった。
時には関川道場の先輩方と一緒に、お伺いした。
一時は、危篤状態になり、懸命の蘇生で助かった後のお見舞いの時もあった。
OB会前にみんなで伺った時は喜んでくれたと思う。
それから極真会館新潟支部関川道場は 本部直轄になり、また、師範と連絡が取れない状況になっていた。(動けば判っただろうが、動かなかった。)
大分健康を取り戻してきた矢先今度は 劇症心筋炎 で緊急搬送され4ヶ月入院。 入院中に自分に師範の居所を聞いてきていた人がおり、退院後 随分時間が経ってから連絡を入れると、逆に居場所を教えて頂く。
その方は、直ぐに金沢を訪問して来た。 自分は雪解けを待って4月になってしまったが、久しぶりに会いに行ってきた。
久しぶりの師範は元気で言葉も判ったが、やっぱり少し弱った感じがした。
その時は、前回までと違って、なんとなく久しぶりと言うより、ああ、又来たな。。と言う感じだった。
慣れというのか、関係が近くになったというか、 特別再会と言う感じがしなかった。
健康状態については気がもめたが、、家族の下に引き取られ養生しているので安心だった。
何回か来ているうちにご家族とも会うことが出来るだろう、これで一安心と思っていた 矢先
道場責任者の方から、訃報を頂いた。
何度も、何度も これが最後かも知れないという思いを頭の中に浮かべて師範の元を離れると言う事を繰り返し、 最後にお会いした時は、いつものように名残を惜しむ事も無く、「又来ます。」 「 じゃあな。」 と言う感じで軽く別れられた。 長い年月をかけて、ゆっくりお別れした事で感情が耐えられる程度に納まったのだと思う。
いきなりのショックだったら、、
一時は、師範に挨拶もせずに俺が先に行くのかと本気で思った事もある弱った心臓がたまったものではなかっただろう。
最後、ご子息、ご家族の下で療養され。
師範が入る前から、金沢ー新潟 片道4時間掛けて月に一度のお墓参りを欠かさない先祖供養を大切にするご子息、ご家族の守るお墓に入る。 本当によかった。
師範、20年間本当にお疲れ様でした。 安らかに、ゆっくりと お休みください。
微力ながら、ご冥福をお祈りいたします。
本当にお世話になりました。 ありがとうございました。