origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

ムジャッディド派

2008-04-13 20:39:24 | Weblog
16世紀から逸脱を撲滅しようとする運動が起き始めた。始まりは16世紀のムガル帝国。アクバル大帝はインドを支配するときにヒンデュー教徒にも寛容な政策をとり、ジズヤを免除した。ムジャッディド派はアクバル帝の寛容な政策を批判し、アウランゼーブ帝によってジズヤがヒンデュー教に強制になった後も、イスラム教の逸脱を厳しく批判する一派として残存した。このムジャッディド派の影響により18世紀には『ハーディス』研究が盛んになり、イスラム教そのものの見直しが活発となる。そしてワリーユッラーとワッハーブという逸脱批判者が現れることとなる。

ワッハーブ派って

2008-04-13 20:11:05 | Weblog
キリスト教プロテスタントの原理主義に近いような気がする。法律の厳守、自由意志の否定、聖人の否定、神秘主義(スーフィズム)批判といった点で。
スンナ派の一派として登場し、19世紀オスマン帝国下においては滅ぼされかけたが、20世紀にはサワード王国の国教となり、サワード王国は周辺地域を征服し、サウジアラビアとなる。ワッハーブ派はイスラム原理主義や過激派となりやすいのが特徴で、ウーサマ・ビン・ラーディンもサウジアラビアのワッハーブ派の影響下にあった。

アル=アフガーニとアブドゥフ

2008-04-13 19:51:02 | Weblog
近代になって、イスラムは自身の神学を見直さざるを得なくなった。イスラムこそがユダヤ・キリスト教の誤りを正した宗教である。それなのにも関わらず、イスラムはキリスト教に後塵を拝することとなってしまった。西洋近代文明に向き合いつつ、イスラムを内部から変えていこうとする動きが出てきた。
アル=アフガーニは19世紀を代表するイスラム学者。元々は12イマーム派出身だが、スンナ派のように振る舞い、宗派を越えた「パン・イスラミズム」を説いた。イスラムは非科学的だと批判したエルネスト・ルナンに反論し、西洋近代科学とイスラムとの調和を図った。彼にとってはイスラムとは理性と調和の宗教であり、西洋近代科学の精神とイスラムの精神は一致しえるものだったのである。
アル=アフガーニの弟子がエジプト出身のムハンマド・アブドゥフである。彼はイギリスの占領当局と良好な関係を築き、真の西洋近代文明は決してイスラムとは矛盾しないと考えた。彼自身はイスラムが西洋近代文明よりも優位に立つことを信じていたようだが、彼の思想は結果的にイスラム教の世俗化への道を開いてしまったとも言える。それは西洋近代文明に矛盾しない「イスラム教」への道であった。
尚、アブドゥフはイスラム世界の女性の地位向上にも一役買った人物である。

中世のスンナ派

2008-04-13 17:40:32 | Weblog
第4代正統アリフがムアーウィァに乗っ取られた後、ムアーウィァを正統なカリフとして見なすスンナ派と、アリーこそが正統なカリフでありそれ以前のカリフもムアーウィァも正当ではないとするシーア派に分裂した。これまでのイスラム史の中で、スンナ派はシーア派やハワーリジュ派を異端とするために、ムアーウィァの正当性を神学的に証明しようと試みてきた。
10・11世紀のスンナ派を代表する学者としてアル=マーワルディという人物がいる。彼はカリフは正義の維持やシャリーアに従う刑罰と徴税の実施を職務とすべきだと主張し、スンナ派のカリフ論を確立した。彼の法学論においては、宗教と政治は乖離すべきでなく、カリフによって統一的に束ねられるべきものだった。
イブン・ジャマーアは一方で、政治的混乱をおそれて奴隷王朝であるマムルーク朝による支配を正当化する理論を打ち立てた。彼は、後の穏健派の学者たちに大きな影響を与えたが、しかし政治に従属するようなイスラム教を肯定してしまった彼の理論には批判されるべき余地があるだろう。13・14世紀のイブン・タイミーヤはジャマーアとは反対に、当時のウラマー(学者)やスーフィーを苛烈に批判し、度々投獄された学者である。しかしタイミーヤの思想は、革命ジハードに大きな影響を与えた。
政教分離を肯定し穏健に宗教者として生きるか、政教分離を否定し革命者として生きるか。スンナ派の宗教思想のルーツにはこの2つの潮流があった。