origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

森三樹三郎『老子・荘士』(講談社学術文庫)

2008-02-27 20:57:07 | Weblog
老子・荘子についての研究書。
老荘思想の研究、老子と荘子の伝記、書物としての『老子』『荘子』についての詳細なテキスト研究、老荘思想をもとにした道教の研究、老荘的な仏教の研究など、様々なパースペクティブの研究を含んだ書物である。
一気呵成に読むことは難しいので、じっくりと気楽に読んでいきたいと思う。老子と荘子のおおまかな違いについてだが、老子が政治的であったのに対して、荘子は宗教的で政治を超えた宇宙的な視野を持っていたという。老子は無為自然という思想を政治にも適用し、民を自然なままにしておく国こそが最も理想的な国だと論じている。老子は孔子的な仁義・道徳ではなく、自然を国家統治において重要なものとして考えた。一方で、荘子にはそのような政治的なヴィジョンというものはない。彼にあるのは、人間の認識や行いを全て相対化するような視点である。例えば、以下の文章は荘子の思想の魅力を端的に表現していると思う。
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無限の高さに達した大鵬の目からみれば、地上の人間の喜びや悲しみ、あるいは戦争と平和といったことでさえ、すべてその対立の意味を失い、青一色のうちに塗りつぶされてしまう。まさしく万物斉同の境地がそこにある。
(78)
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無差別・万物斉同というものはキリスト教の平等とは異なっている。そこには二項対立的なものはない。超越的な視点においては全ては同じであり、全てが肯定されるべきものである。人間と動物の差も存在しなくなってしまう。
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人間が天地のあいだに生きるのは、白馬が戸のすきまを走りすぎるのにも似て、つかのまのことにすぎない。
(85)
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無常。「生に死に冷たい目を投げかける。騎手よ、通り過ぎよ」と言ったイェイツは荘子から影響を受けているのだろうか。イェイツは一時期タオイズムに入れ込んでいたらしいし。
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自然は人為を排除するばかりではなく、神をも排除する。徹底した自然主義者、運命論者である荘子は、また同時に無神論者であった。
(89)
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荘子が重んじたのは自然と運命であり、人格的もしくは理性的な神ではなかった。最も天の運命に対しては信仰と呼べるほどのものを有していたらしく、厳密な意味での無神論と呼べるかどうかはわからない。少なくとも、荘子は唯物論的無神論とはかなり違う立場にある。
老壮思想は女性原理的だと言われることがある。二項対立を好まず、争いを好まず、論理にも拘泥せずに柔らかに剛を制する。アーシュラ・ル=グウィンも老壮思想を非ヨーロッパ的な女性原理として高く評価した。確かにこのような老荘思想は、ギリシア以来のヨーロッパの思想のオルタナティブとして新たに再評価されるべきものだと思う。
中国に仏教が土着化する際、老荘思想は大きな役割を果たしたと考えられる。中国的な仏教としては、以下の2つのものが挙げられる。
1老荘思想を通じて仏教を理解しようとするもの。
2仏教を輪廻の思想として受け入れるもの。仏教到来当時の中国には死後の世界という観念が薄く、寿命を延々と延ばす神仙説が流行していた。これまでの中国思想にはない死後の世界をもたらすものとして仏教を評価する。
1の方向では格義仏教と言われるものが4世紀に一時的に流行した。鳩摩羅什がこの格義仏教を克服した後には、禅や浄土といった老荘思想を通じた中国独自の仏教が登場し、人気を博すこととなる。禅や浄土の特徴としては、「不立文字」「以心伝心」がある。言葉というものは全てを伝えられるものではなく、本当に重要なものは言葉によって伝達することができないという、仏教本来が持っていた要素が、中国においては重要視されることとなった。著者は、これを中国人が(インド人と異なり)論理が苦手なためだ、と考えている。言葉による論理的な思考よりも、言葉にできない何ものかを重んじる。そこに禅や浄土といった中国仏教の特徴がある。
この不立文字の思想は荘子の思想にも通じる。
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荘子が言葉を否定するのは、ありのままの通路が、体験的直観のほかにないと信ずるからにほかならない。
(403)
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荘子にとって言葉とは不必要な二項対立を招いてしまう危険性のあるものだった。そして真理とはロゴス的なものではなく、ただ直感によって捉えられるものであった。

陶淵明

2008-02-27 20:11:25 | Weblog
4世紀東晋の陶淵明は荘子から影響を受けた詩人である。彼は山水を愛し、人生の無常を読み込んだ。
「人生は幻化に似たり、終に当に空無に帰すべし」
「人生は実に難し。死はこれを如何せんや」
「生あらば必ず死あり、早く終わるも命促きにあらず」
彼は李白と同じく、食事や酒を愛した。名誉や金に囚われず、人生の無常を意識し、自然を愛しながら、食事と酒を楽しむ。何ともまあ理想的な人生だなあと思う。

ジョルジュ・シムノン『メグレ間違う』(河出書房文庫)

2008-02-27 19:26:55 | Weblog
警察小説の金字塔であるメグレ警視シリーズの一作。
11月の寒い日、パリ17区のあるアパルトメントの一室で娼婦が殺害される。彼女の恋人が犯人だと疑われるが、メグレは娼婦に金を出していた医者やその妻らを捜査していく。
なかなか面白かった。24歳まで辛い生活を送り、ようやく豊かな生活が送れるようになったら、殺されてしまう。娼婦の人生は悲劇そのものであり、メグレは彼女の生に哀れみを覚える。はぐれ刑事純情派のようなプロット。もちろん、こちらが先だが。

谷川道雄『世界帝国の形成 新書東洋史2』(講談社現代新書)

2008-02-27 18:09:28 | Weblog
中国史の5巻構成のシリーズの中の2巻目である。
各巻の内容は
1~漢
2後漢~唐
3宋・元
4明・清
5中華民国~
となっている。
後漢によって古代世界が崩壊し、三国時代、五胡十六国、南北朝を経て、隋・唐という中世の世界的帝国に至るまでの中国の歴史を叙述した本。内藤湖南は五胡十六国から唐までを「中世」と区分しているらしいく、内藤の史学も言及されている。
三国~南北朝の時期は六朝文化が栄えたことでも有名である。六朝文化は『帰去来辞』で有名な詩人胸潜、詩人の謝霊運、画家の雇がい之、書道の王義之、王献之に代表される。宗教では仏教が流行し、北魏の冠謙之は道教を大成させた。また、隠者としての生活を送る「清談」が流行し、「竹林の七賢」を生み出した。後漢の時代から儒教的な生活に嫌気がさし、隠者となる人々が増えていったそうだが、この「清談」もその流れの中で捉えられるべきだろう。儒教を徹底的に批判した阮籍の思想は魅力的であり(「父だ母だのいっても所詮は性欲の産物さ」)、後に内外を問わず多くの追従者を出したというのもうなづける話である。「儒教からの自立」というのは南北朝期の特徴であり、これまでは『春秋』の解釈学に過ぎなかった史学が、儒教から独立することになったのもこの時代のことである。