あしの葉の上にいるかえるは、いぜんとして、大きな口をあけながら、言っている。
「空はなんのためにあるか。われわれかえるの背なかをかわかすためにあるのである。したがって、全大空はわれわれかえるのためにあるのではないか。すでに水も草木も、虫も土も空も太陽も、みなわれわれかえるのためにある。森羅万象がことごとくわれわれのためにあるという事実は、もはやなんらのうたがいをもいれる余地がない。自分はこの事実をきみたちの前に明白にするとともに、あわせて宇宙をわれわれのために創造した神に、心からの感謝をささげたいと思う。神の御名はほむべきかなである。」
芥川龍之介「蛙」より
空も水も木もただそこにあるだけで何ら意味はない。しかし、人間は空や水や木に物語性を見出すことができる。あの空は自分たちのためにある、あの水は自分たちのためにある、と。旧約聖書を読むと、預言者たちの物語性への強い意志を感じる。例えばイザヤ書。自分の身の回りに起こる出来事を神の意志によって起こったものだとして意味づけ物語(story)としてしまう。
しかし、一方で、そのような物語性を解いていくような思想もある。大乗仏教の仏教者たちはそのような物語性をできるだけ解くように思考する。例えば道元の「畢竟如何」。「結局これが何だというのだ」という問いである。そしてこの問いは「結局これは何でもない」という意味を含んでいる。私が身の回りに起こる数々の出来事。結局これは何でもないのだ。ただ、人間の認識が物語性を与えているに過ぎないわけで、出来事そのものには何ら物語性はない。
大正時代に知識人として生きた芥川は、このような「畢竟如何」な思考を学んでいたのだろう。そして、そのような思考のもとで、聖書を読んだ。個々の出来事を神の意志として解釈するような預言者たちの言動にはある種の違和感を覚えただろう。
芥川は晩年の谷崎との論争の中で、ルナールや志賀直哉の小説を最も優れた形式の小説だと論じた(「文芸的な、余りに文芸的な」)。小説は、物語を描きだす。しかし、そのような物語は結局人間の認識が勝手に意味づけしたものにしか過ぎない。英雄も悪魔も神も、人間の認識の中でのみただ存在する。認識を取り払ったとき、世界には何が残るか。おそらくただ茫漠とした意味のないものが残るだろう。そして、意味のない世界で淡々と生きる人間の姿を描いたものこそが、もっとも真に迫る小説である。そのような意識が芥川にはあったのではないか、と思う。
しかし、このような晩年の芥川の考えに私はある種の違和感を覚える。小説とは本来的には、物語を描くものであって、ドン・キホーテやサンチョ・パンサのような現実にはいそうもない戯画的な人物を必要とするものである。物語を否定したところに小説は成り立つのだろうか。そして、仮に日本仏教的な視点のもとで物語を排除したとき、それは小説として本当に価値を持つのだろうか。
芥川が死の直前に読んでいたのは聖書だったという。物語性を排除する日本仏教の思考。物語性をつくりだすユダヤ・キリスト教の思考。この狭間にいた芥川は、死の直前に何を見たのだろうか。物語は人間の認識の中でしか存在しない虚構のものである、と言うのはたやすい。しかし、物語なくして人は生きられるのか。意味のない茫漠とした現実の中で生きられるのか。
「空はなんのためにあるか。われわれかえるの背なかをかわかすためにあるのである。したがって、全大空はわれわれかえるのためにあるのではないか。すでに水も草木も、虫も土も空も太陽も、みなわれわれかえるのためにある。森羅万象がことごとくわれわれのためにあるという事実は、もはやなんらのうたがいをもいれる余地がない。自分はこの事実をきみたちの前に明白にするとともに、あわせて宇宙をわれわれのために創造した神に、心からの感謝をささげたいと思う。神の御名はほむべきかなである。」
芥川龍之介「蛙」より
空も水も木もただそこにあるだけで何ら意味はない。しかし、人間は空や水や木に物語性を見出すことができる。あの空は自分たちのためにある、あの水は自分たちのためにある、と。旧約聖書を読むと、預言者たちの物語性への強い意志を感じる。例えばイザヤ書。自分の身の回りに起こる出来事を神の意志によって起こったものだとして意味づけ物語(story)としてしまう。
しかし、一方で、そのような物語性を解いていくような思想もある。大乗仏教の仏教者たちはそのような物語性をできるだけ解くように思考する。例えば道元の「畢竟如何」。「結局これが何だというのだ」という問いである。そしてこの問いは「結局これは何でもない」という意味を含んでいる。私が身の回りに起こる数々の出来事。結局これは何でもないのだ。ただ、人間の認識が物語性を与えているに過ぎないわけで、出来事そのものには何ら物語性はない。
大正時代に知識人として生きた芥川は、このような「畢竟如何」な思考を学んでいたのだろう。そして、そのような思考のもとで、聖書を読んだ。個々の出来事を神の意志として解釈するような預言者たちの言動にはある種の違和感を覚えただろう。
芥川は晩年の谷崎との論争の中で、ルナールや志賀直哉の小説を最も優れた形式の小説だと論じた(「文芸的な、余りに文芸的な」)。小説は、物語を描きだす。しかし、そのような物語は結局人間の認識が勝手に意味づけしたものにしか過ぎない。英雄も悪魔も神も、人間の認識の中でのみただ存在する。認識を取り払ったとき、世界には何が残るか。おそらくただ茫漠とした意味のないものが残るだろう。そして、意味のない世界で淡々と生きる人間の姿を描いたものこそが、もっとも真に迫る小説である。そのような意識が芥川にはあったのではないか、と思う。
しかし、このような晩年の芥川の考えに私はある種の違和感を覚える。小説とは本来的には、物語を描くものであって、ドン・キホーテやサンチョ・パンサのような現実にはいそうもない戯画的な人物を必要とするものである。物語を否定したところに小説は成り立つのだろうか。そして、仮に日本仏教的な視点のもとで物語を排除したとき、それは小説として本当に価値を持つのだろうか。
芥川が死の直前に読んでいたのは聖書だったという。物語性を排除する日本仏教の思考。物語性をつくりだすユダヤ・キリスト教の思考。この狭間にいた芥川は、死の直前に何を見たのだろうか。物語は人間の認識の中でしか存在しない虚構のものである、と言うのはたやすい。しかし、物語なくして人は生きられるのか。意味のない茫漠とした現実の中で生きられるのか。