origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

塩野七生『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』(新潮文庫)

2008-02-28 19:28:28 | Weblog
チェーザレは元々残酷な君主というイメージがあったが、ブルクハルトがボルジア家を批判的に描いて以降、そのイメージが更に強くなっていった。塩野は「単なる残虐な君主」としてのチェーザレではなく、「残虐でありつつも英雄的な魅力のある君主」としてのチェーザレを描く。
内容はさすがは塩野といったところで、まるで小説を読むような面白さで読み進めることができた。
時のローマ教皇アレクサンドル6世の私生児として生まれたボルジア。すぐに枢機卿へと出世していくが、私生児であるためにそれ以上出世することができなくなる。そのためチェーザレはキリスト教の聖職者としてではなく世俗的な君主として出世を志すようになった。チェーザレは、フランス王ルイ12世と親交を結び、教皇領を拡大し、初めて「イタリア統一」ということを目指した人物であった。
「イタリア統一」というチェーザレの夢は、父親の死後、敵対するジュリオ2世の謀略によって脆くも崩れ去ることとなる。イタリア統一がなされたのは、チェーザレの死から350年以上後の1861年、ヴィットリオ・エマヌエル2世のイタリア王国によってであった。

惣領冬実『チェーザレ 破壊の創造者』(KCデラックス)

2008-02-28 18:45:55 | Weblog
マンガはそれほどたくさんは読んでいないのだけど、最近読んだマンガの中では『チェーザレ』が抜群に面白かった。作者は少女マンガ畑の人らしいが、少女マンガが苦手な私でも面白く読むことができた。ちなみに4巻は政治学者の佐々木毅が解説を担当している。
15世紀末のイタリアを舞台に、イタリアの青年アンジェラを主人公に据え、彼が敬愛するチェーザレ・ボルジアの生涯を描いた作品である。父親である教皇アレクサンデル6世、画家のレオナルド・ダ・ヴィンチ、政治学者のマキャヴェリといった錚々たる歴史上の人物も登場する。
歴史学者がバックについているだけあってチェーザレ・ボルジアを巡るイタリアの歴史的な事実がかなり詳細に描かれているが、ボルジアの片腕のミゲロットがユダヤ人であったり、ボルジアがイスラム教に深い共感を示していたりと、作者独自のアレンジも楽しい。まさに虚実皮膜の傑作。
個人的に好きな場面は第2巻のダンテ『神曲』の話。地獄篇の第33歌においては、ピサの大司教ルッジェーリがウゴリーノ伯を陰謀にかけて殺害したという事実が言及されている。陰謀でウゴリーノを殺害したルッジェーリは地獄へと落とされているのだが、チェーザレはむしろルッジェーリをミラノに秩序をもたらした者として評価する。地獄篇の解釈を通して、権謀術数に長けたチェーザレの性格が明らかになる。この描写は実に見事だなと思った。
第2巻は「政治の天才」チェーザレと「芸術の天才」レオナルド・ダ・ヴィンチとの邂逅も描かれており、現在読むことのできる4巻の中でも最も面白い巻だった。
さて、チェーザレ・ボルジアと言えば、多くの人が『君主論』を想起するだろう。『君主論』第7章では、最近のイタリアの政治家の中ではフランチェスコ・スフォルツァとチェーザレ・ボルジアが理想的な政治家だと論じている。前者はしっかりと築かれた土台の上で才能を発揮した例であり、後者は苦難に喘ぎながらも類まれなる力量で才能を発揮した例である。特に「兵士に慕われると共に畏怖され」、「峻厳であると共に慈悲深い」チェーザレに対する賛辞は、マキャベリ自身のこの政治家に対する陶酔を示している。
最も政治的妥協のゆえにチェーザレが晩年ジュリオ2世を教皇へと推したことに対しては、マキャべリは批判的だったようだ。ボルジアは自らに危害を加えようとした教皇や枢機卿を認めるべきではなかったと苦言を呈している。
マキャベリの君主の理想像とチェーザレ・ボルジアには多くの共通点があったことは確かだが、人間の運命は神によって定められていると説くマキャベリとチェーザレの間には相違点もあるだろう。マキャベリがチェーザレの政治をどう解釈したのか、想像してみるのもまた楽しい。

李白と杜甫

2008-02-28 18:43:11 | Weblog
唐代の2大詩人。詩仙が李白であり、詩聖が杜甫である。高校の頃は杜甫がストイックで、李白が快楽主義者だと思っていた。だから、私はどちらかというと杜甫の方が肌に合うのかなと考えていた。しかし、大学生の頃、実際に読んでより面白かったのは李白である。
真面目に儒教的な人物だった杜甫と比べて、李白は世俗を越えた道家的な人物だったという。李白は思想的には陶淵明に近いところがある。隠者として生きることを好み、自然との一体化を望む。しかし、過度に禁欲的なことはなく、食事や酒を楽しむ。そのような彼らの人生観には心を惹かれるものがある。
李白に「江上吟」という詩がある。「仙人 待つ有り 黄鶴に乗り / 海客 心無く 白鴎に従う」詩人は、海に訪れる者のように、何も考えずに白鴎と遊ぶという。静かに暮らし、心をなくし、自然に染まる。これは『列子』からの引用だが、この一文を見ても李白が儒教よりも老荘思想に近いということがわかると思う。