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origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

エドワード・W・サイード『サイード自身が語るサイード』(紀伊国屋書店)

2008-10-20 19:26:01 | Weblog
批評家サイードが自分自身の半生を綴ったもの。パレスチナでの幼年時代、著者は英パブリック・スクールのような厳しい学校に育ったらしく、そのことを苦々しく述懐している。その中でキプリングやコンラッドと出会い、ヨーロッパ文学への興味を覚えたという。『オリエンタリズム』の中で彼はキプリングやコンラッドを批判的に読解することとなるのだが、「オリエンタリズムに囚われているということがその作家の価値を損ねない」ということを強調している。
プリンストンやハーバードでの大学生時代のことも触れられている。著者が大学時代にもっとも読み返したのがドストエフスキーとのこと。これは少し意外だった。
『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』の中では客観的記述に徹していた文学研究者の、人間らしい面が見えて面白かった。

高階秀爾『フランス絵画史』(講談社文芸文庫)

2008-10-14 20:49:23 | Weblog
フォンテーヌブロー派、シモン・ヴーエフィリップ・ド・シャンパーニュのようなバロック美術、ニコラ・プッサンやクロード・ロランの古典主義、ベラスケスを吸収したジャン・アントワーヌ・ヴァトー、新古典主義のダヴィッドドラクロワらのロマン主義、クールベらの写実主義、バルビゾン派、印象派、ポスト印象派……。フランス美術400年の通史を綴った書物である。
イエズス会と交流のあった古典主義の作家ニコラ・プッサンが特に気になった。彼は聖人ザビエルを描く一方で、ギリシア・ローマ神話を題材にしたり、自画像を描いたりと、幅広い作品を後世に残した。古典主義時代においては、プッサン派とベラスケス派というのが存在していたという。ギリシア・ローマを理想化した古典主義者たちの一派と絵画の進化を信じ近代的な作品を創り出そうとした一派。この対立は後者が緩やかに勝利を収める。
-17世紀アカデミーは絵画とは理性に訴えかけるべきものであると考えた。画家が描くべき風景は理想化された風景だった。18世紀ヴァトーやシャルダンの登場により、状況は変わる。
-マルローはルーベンスを吹奏楽、ヴァトーを室内楽に例えた。
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ロマン主義とは、主題の選択の中にあるのでもなければ、正確な真理の中にあるのでもない。それは、感じ方の中にあるのだ。
(195)
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ボードレールの言葉。彼はロマン派らしい美術批評を残している。

四方田犬彦『ハイスクール・ブッキッシュライフ』(講談社) 

2008-10-14 19:35:01 | Weblog
四方田の本は『空想旅行の修辞学』『アニマとしての読書』『ハイスクール1968』『日本映画史100年』に続き今回で5冊目。本書は少年期の読書傾向を綴った『アニマとしての読書』の続編となる。
著者が高校生だったころに影響を受けた書物について語ったエッセイだ。冒頭の『ヨハネ黙示録』はブレイク、ローレンスなどを交えつつ、新約聖書の黙示録について考察した批評である。ローレンスにとって黙示録とは、神学や哲学を知らぬ庶民のためのものだった。彼らは自らが持つ怒りを黙示録の中の過激な暴力にたくした。炭鉱夫の息子だったローレンスにとっては、ニーチェの反キリスト教的哲学さえも貴族主義的なものだった。
その他にはロートレアモン、ランボー、プルースト魯迅、ジョイス、カフカ、フォークナー、セリーヌ、ボルヘス、レアージュといった前衛好みの著者らしい対象が選ばれている。
ジョイス『ユリシーズ』の章では、ハインズとマリガンの対立に焦点が当てられている。アイルランドを研究するイギリスの民俗学者ハインズが豊かな者であるのに対して、アイルランド文化を重んじるマリガンは貧しい者である。支配する者・支配される者、持つ者・持たざる者の対立はこの長編小説の至るところに見受けられる。
プルーストの章では、著者のこの小説家に対する深い愛が露になる。『ガリヴァー旅行記』を修士論文に選んだのは対象と距離が取りやすかったからで、深く愛しているプルーストの小説などは研究対象にできなかった、という話は頷けた。

最近見た映画5

2008-10-11 21:50:44 | Weblog
一言づつの感想で。
『ツォツィ』
南アフリカ・ヨハネスブルクを舞台とした映画。不良少年の情愛という割合とよくあるテーマを用いている。まあまあかな。ちょっと過大評価されている気もする。

『エコール』
無垢な少女たちの園を描いたフランス映画。全編、性的な解釈を導き出すような要素に満ちているが、もしかするとこの映画は性的解釈を求めようとする批評家を皮肉っているのかもしれないとも思った。

『宇宙戦争』
スピルバーグ監督のSF映画。わかりきった古典を、現代風に料理してしまうスピルバーグの才能は流石の一言に過ぎる。オチがちょっと弱かったが、楽しく見ることができた。ただ、トム・クルーズはいまいち好きになれないな。

『ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ』
チェロ奏者デュ・プレの私生活を描いたイギリスの映画。芸術家デュ・プレではなく、孤独にさいなまれた一人の女性としてデュ・プレを描く。露悪的なところは否定できないが、全体的には面白かった。バレンボイム役の人は実物と結構似ている。

『カストラート』
実在のカストラートであるファリネッリを主人公とした映画。当時の大作曲家ヘンデルが出てくる。

アーサー・ケストラー『機械の中の幽霊』(ちくま学芸文庫)

2008-10-05 16:06:18 | Weblog
ケストラーはハンガリー出身、ユダヤ系の思想家。
全体を一として見なすホーリズム(全体主義)。全体を個々の集まりとして見なす要素還元主義。ケストラーはそのどちらをも誤りとして見なし、中庸的な「ホロン」(全体的要素、要素的全体)を唱える。ホロンは全体に対しては要素でありつつも、さらに細かい要素に対しては全体であり、両義的なものである。例えば、心臓は要素の集合体でありながらも、身体全体から見れば一つの要素であり、ケストラーの視点からはホロンと呼ぶことができる。
著者は、精神的なものを軽視したワトソンの行動主義的心理学や人間の進化を遺伝子に還元しようとした進化論に対しても強く批判を行っている。
とはいえ、ケストラーの進化論批判には疑問も残る。

桐生操『やんごとなき姫君たちの寝室』(角川文庫)

2008-10-05 01:09:03 | Weblog
『本当は怖いグリム童話』の著者が古代から近代までのヨーロッパの歴史を中心に、恋愛、結婚、セックス、グルメなどに関するネタを集めた本。下世話な感じはするが、なかなか面白かった。
「プラトニック・ラブ」とは男同士のもの(プラトンの『饗宴』のお話)
処女膜は無用の長物?
古代世界の珍法律(胸片追放、人身御供)
古代スパルタ教育の真髄
などが特に面白かった。

亀山郁夫『ドストエフスキー 謎とちから』(文春新書)

2008-09-28 21:58:05 | Weblog
ドストエフスキーを「堕落した父」「二枚舌」「正教からの分離派」「異端派」(「鞭身派」「去勢派」)といったキーワードを通じて読み直した本である。江川卓の『謎とき』シリーズを意識して書かれているが、「スメルジャコフの本当の父親は誰か」など江川と異なった著者独自の見解もふんだんに盛り込まれている。著者は当時のロシアで流行っていたキリスト教の異端派の「去勢派」に目をつけ、イエスやその弟子たちは全て去勢されていたと説くこの派からドストエフスキーが影響を受けていたということを論じる。清らかさを重んじる『カラマーゾフの兄弟』を去勢派のイデオロギーとの関連の中で読み直す箇所はスリリングである。スメルジャコフの思考に去勢派からの影響が見受けられることを論じた箇所は説得力があった。もしかすると、アリョーシャ・カラマーゾフが理想としていたのは、性欲が消え、男女が兄と妹のように暮らすことのできる、去勢派の楽園のようなものだったのかもしれない。
去勢派と並んで当時のロシアで人気を集めた、自らを痛めつけることを信心の証とする鞭身派からの影響も気になった。『罪と罰』のリザヴェータは鞭身派だったのではないかと著者は論じている。
著者は象徴層・歴史層・自伝層・物語層の4つの層から5大小説を読み直そうとする。4つの層を複眼的に見る視点から、書かれることのなかったカラマーゾフの続編について著者は考察を繰り広げている。アリョーシャはやがて「堕落した父」である皇帝を暗殺することになるのではないか、という論が何人かの学者の間で支持されているようだが、著者はその説を取ってはいない。もしロシアの社会の転覆が企画されるのだとしたら、不幸な人生を送ることを定められたコーリャ・クラソートキンが首謀者となるだろう。私もムイシュキンのようなアリョーシャが皇帝暗殺の首謀者になるという展開はさすがに無理があるように思う。

曽野綾子・田名辺昭『ギリシアの神々』(講談社文庫)

2008-09-27 22:05:54 | Weblog
曽野によると、ギリシア神話は人間の悪を描いたものである。曽野は、現代教育が子どもたちに悪を教えないことを憂慮しているが、ギリシア神話を通じて人々は悪を学び取ることができるという。
クロノス、ゼウス、アテナ、アルテミス、アポロン、アレス、ディオニュソス、ヘラクレス、アフロディテ、テセウス(アテナイの王子)、ケンタウロス、アリアドネ(ディオニュソスの妻)、ダイダロス、イカロス、ナルキッソス、プロメテウス、シジュポス、レダ、ヘレネ、アキレス、へクトール、オディッセウス、オイディプス王といった著名なギリシア神話中の人物たちの物語がわかりやすく紹介されている。
良い入門書。

アントニオ・ネグリ『ネグリ 生政治(ビオポリティーク)的自伝―帰還』(作品社)

2008-09-25 22:23:11 | Weblog
ドゥルーズから影響を受け、スピノザを読み直すことによって、「特異性」による共同体的なものの構築を目指す「マルチチュード」の思想家、アントニオ・ネグリの自伝。自伝といっても時系列に自身のことを語ったものではなく、トピックをアルファベット順に並べ語っていくという特異なスタイルの本である。ネグリは「哲学」者ではあるが、「プラトン~ハイデガー」的な意味での哲学者ではなく、むしろ政治学のマキャベリと汎神論のスピノザという西洋形而上学のアンチテーゼを踏まえつつ、政治経済的な視点を伴った現代思想の構築を行っている。
私が気になったのは、著者がユダヤ・キリスト教的な超越性に対して批判的であるということである。ハイデガーやハイデガーに近いカトリックの実存主義者たちにも批判的に論じている。そのような存在を追求していく哲学者のことを著者は批判的に捉える。マルチチュードとは異種混淆的なものであり、それは権力から逸脱しつつも、型に捕われない共同体的なものを構築する。本質性の追求へ向かうハイデガーやガブリエル・マルセルに対し、著者はむしろ本質から逸脱するような特異性に目を向けているようだ。この辺りの論には顕著にドゥルーズのスキノ思想からの影響が伺えるが、著者は必ずしもドゥルーズの哲学にも賛同の意を表明していないようであり、ドゥルーズが立脚しているベルグソンに対しては批判的に論じている。感覚を重んじる著者は、外的な時間と内的な時間を峻別するベルグソンにはあまり興味を覚えないようだ。
著者はダンテのことを、唯名論的に特異性を重んじたマルチチュードな詩人だ、と言っている。これはさすがに牽強付会なようにも思えたが、著者が重視するドゥンス・スコトゥスがダンテに与えた影響というのは気になった。もし『神曲』の詩人がスコトゥスの継承者であり唯名論者であるとすれば、今までとは違ったダンテ像が見えてきそうだ。そして唯名論に抗うダンテと神秘主義を批判するネグリの姿が重なる。

エリック・ホッファー『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』(作品社)

2008-09-23 22:24:12 | Weblog
労働者としての視点から哲学書を書き続けたホッファーの自伝。
彼はアーレントと同じく労働というのを極めて否定的に捉えており、人間は一日6時間、週5日以上は働くべきではない、余暇を他のことに費やすべきだ、と提言している。事実、彼は日雇い労働者として働きつつも、労働の余暇には本を読み、自らの思想を編み出していった。
貧しい環境で育った著者は弱者に目を向け、弱者による歴史に注目する。それはニーチェが強者の歴史を描き出そうとしたこととは対照的である(しかしホッファーのニーチェ批判は疑問も残る。ニーチェの力・強者とは経済的・社会的なコンテクストで捉えるべきものではないのでは)。名もなき無数の労働者によってつくられていく歴史。名もなき無数の労働者の中の一人によってつくられていく思想。
多くの者が労働に長時間、身を費やさなければならない現代においては、広く読まれるべき本である。職業の傍ら思索に勤しむことの重要さを教えてくれる。哲学書としては無類の読みやすさであり、彼がモンテーニュの『エセー』と出会って哲学に目覚めたという点は示唆的。