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origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

渋谷陽一『ロックは語れない』(新潮文庫)

2008-11-02 22:27:04 | Weblog
ロックは語れない、と言いつつロックを語っている対談集。浜田省吾、山下達郎(意外と毒舌!)、忌野清志郎、大貫妙子、遠藤ミチロウなどの一線のアーティストが渋爺の対談の相手。大物アーティストを前にしても姿勢を崩さない渋谷の姿に批評家としてのプライドを感じた。
著者はローリングストーンズの特徴を疲労感だとしている。そしてカントリー・バラードの"Wild Horses"(http://jp.youtube.com/watch?v=RYTPZks1kR8)をストーンズの最高傑作に挙げている。確かにこの曲ほどストーンズの持つ疲労感を上手く表現し得た曲はないかもしれない。渋谷のストーンズ観は極主観的なものであり、反論の余地はだいぶあるものの、なかなか鋭い。そういえば彼は"Angie"を嫌っていたっけ。
対談集の中で、渋谷はジョニ・ミッチェルの"Song for Sharon"(http://jp.youtube.com/watch?v=hIE-7ROd-Pw)という曲を紹介している。自殺した女性にシンパシーを抱いてしまうような危うい状態にいながらも、愚直に恋愛を求める女性の気持ちを歌った曲だという。政治にも抒情にも絡み取られない日常を唄った歌として、ジョニの詩の魅力が前面に押し出された名曲なのかもしれない。

ジッドの中篇2つ

2008-11-02 22:25:43 | Weblog
アンドレ・ジードの「女の学校」と「ロベール」を読む。先駆的なメタフィクション『贋金づくり』以後に書かれた、ジード晩年の小説である。この2つの中篇は同じ登場人物による物語を、妻エヴリーヌの視点と夫ロベールの視点によって語ったものである。
「女の学校」は二部構成で、語り手エヴリーヌがロベールに恋をする前半と、その20年後、彼女がロベールや2人の子どもと家庭を築いている後半にわけられている。後半部分では、家庭は一見平穏だが、妻は夫の凡庸さに幻滅を覚え、また妻に似た娘ジュヌヴィエーヴは父親に対して不信の念を抱いている。この中篇の最後にて、語り手エヴリーヌの死が暗示される。ブルジョワ社会を批判した「女の学校」は、社会主義へと傾倒する作者の未来を予感させる。
「ロベール」は「女の学校」にて良い位置を与えられなかった夫ロベールを語り手としたもので、亡き妻や娘との不和を抱えつつも、自分の視点によって物語を構成し直そうとするその姿は興味をそそる。妻も正しければ、夫もまた正しいのである。ただ、その2つの正しさは共存することはできない。
『狭き門』や『田園交響楽』ではプロテスタンティズムの厳格な教義によって破滅へと陥る人間の姿を描いたジードだが、この2つの中篇ではフランスのカトリックの一家族の心理を巧妙に描く。共通するのは聖人に憧れつつも俗人にしかなれぬ人間の業か。

渡辺淳『二十世紀のフランス知識人』(集英社現代新書)

2008-11-01 00:43:54 | Weblog
アンドレ・ジッド、右翼ファシストだったドリュ・ラ・ロシェル、アルベール・カミュ、民衆演劇の大成者ヴィラール、ジャン・ポール・サルトル、文化相にもなったアンドレ・マルロー、クロード・レヴィ=ストロース……20世紀のフランスの知識人たちの活動を綴った新書。著者は渡辺一夫の弟子であり、ユマニズムの信奉者である。レヴィ=ストロース以降の現代思想を読み解くのに、ユマニズムを持ち出すのは少しまずい気がするのだが(構造主義の目的の一つにユマニズムを解体することがあったのに…)。
ジッドは元々カルヴァン系のプロテスタントの信者だが、途中、共産主義に入れ込むこととなる。彼は無神論者として共産主義を礼賛したのではなく、あくまでもクリスチャンとしての立場から共産主義を容認した。彼にとって共産主義とは、キリスト教的理念が実現されない現実での必要悪だったのである。共産主義に対して冷徹な視線を送ったのがアルベール・カミュである。彼は無神論者であったが、共産主義からは一線を置き、ソビエト連邦を礼賛することもしなかった。戦後、ソ連を訪れた際に、共産主義の制度を絶賛したサルトルとは対照的である。
右翼の文学者としてナチズムを支持したドリュ・ラ・ロシェルに関する記述は面白かった。フランスの文学者の多くは左よりだが、中にはロシェルやセリーヌのようなファシストも存在した。もちろんファシストであるということが必ずしも彼らの文学作品の価値を貶めるわけではないが。

菊池良生『傭兵の二千年史』(講談社現代新書)

2008-11-01 00:36:28 | Weblog
傭兵とは売春婦の次に古い職業である。
古代ギリシアのクセノフォンの時代から始まり、近代国家の発展とともに衰退していった傭兵制の歴史について描いた新書である。近代国家以前の傭兵たちは国家や民族のためではなく、自分たちが食べるための戦争に参加した。そこには大義もなければナショナリズムもなかった。自分たちの命を守るためだけに戦いに参加したのだ。
西ローマを滅亡させた傭兵隊長オドアケル、ドイツの傭兵部隊ランツクネフトを育成した神聖ローマ帝国皇帝のマクシミリアン1世、歩兵・騎兵・砲兵を確立したマウリッツ・オドネル、マウリッツ的な軍隊制度を完成し、スウェーデンの軍隊を育て上げたグスタフ=アドルフ、スイスの傭兵を利用して戦争に勝った太陽王ルイ14世、傭兵制を嫌い自国の軍隊を育て上げた啓蒙主義の君主フリードリヒ大王……。ヨーロッパ傭兵制や軍隊制度の歴史を描くことで、近代以前の戦争の歴史を垣間見ることができた。
中世の騎士像も実際は『パルジファル』で描かれたような理想像とはだいぶ異なっていたようだ。中世の騎士たちも傭兵として食べるために戦い、名誉や大義を捨てて戦った。名誉も大義も持たずにただ食べるために戦う傭兵の存在は、歴史における戦争の本質の一端を表しているのかもしれない。皆が食べるのに満ち足りていれば戦いは起こらない。

中条省平『フランス映画史の誘惑』(集英社新書)

2008-10-27 22:10:40 | Weblog
リュミエール兄弟、
モローの弟子であるジョルジュ・メリエス(『月世界旅行』)から
フィルム・ダール(『ギーズ』)、喜劇王マックス・ランデル、
ルイ・フイヤードのキッチュな『吸血ギャング団』(ゴダールも絶賛した)
ダリと共同作業を行ったルイス・ブニュエル(『アンダルシアの犬』)
ジュリアン・デュヴィヴィエやマルセル・カルネなどの詩的レアリズムの監督
夭折したジャン・ヴィゴとフランス映画のカリスマであるジャン・ルノワール
ジャック・ベッケルのフィルム・ノワール(『現金に手を出すな』など)
ロベール・ブレッソンやリュシアン・ヴィテ、
ゴダール、トリュフォー、シャブロフ、ロメール、リヴェットのヌーヴェル・ヴァーグ、
リュック・ベッソンなどのヌーヴェル・ヌーヴェル・ヴァーグ
へと至る。
フランス映画の100年の歴史を描いた新書である。ルネ・クレール以前のフランス映画についてはほとんど知識がなかったので、勉強になった。
戦前の日本では、フランス映画は一般的に人気があったという。特にジュリアン・デュヴィヴィエは人気があり、年間の人気投票でアメリカ映画の名作を越えて1位にランクインされるほどであった。ジャック・プレヴィールが脚本を書いたマルセル・カルネの名作、『天井桟敷の人々』も映画ファンの間で高い人気を得た。トリュフォー以降のヌーヴェル・バーグはアメリカ映画(特にヒッチコックやハワード・ホークス)の技術を取り入れることでフランス映画史に新たな局面を切り開いたが、その代わりフランス映画に難解というイメージを与えることとなってしまった。トリュフォーは『フランス映画のある種の傾向』で、文学的表現に拘るマルセル・カルネ、ルネ・クレマンやジャン・ドラノワを批判したが、むしろトリュフォーの批判からドラノワを擁護もしたくなる(彼の『田園交響楽』は名作だ)。
著者はヌーヴェル・バーグの先駆者であるブレッソンとヴィテを比較し、前者は神による運命の決定を重視し、後者は人間の自由意志を重視していると説く。『田舎司祭の日記』で神の恩寵を説いたブレッソンは、人間を越えた運命の力を信じた。

ルネ・クレールの『巴里の屋根の下』はパリという街を良く表現した映画だと認識されていたが、実際のロケ地はパリではなかったという。

荒俣宏『広告図像の伝説 フクスケもカルピスも名作!』(平凡社新書)

2008-10-25 14:53:14 | Weblog
森永のエンゼルマーク、カルピスの黒人マーク、花王のお月様マーク、福助の大黒マーク……。図像学的な方法論を応用しながら、著者が日本の著名な広告図像を論じた本である。広告図像11個を対象にここまで自由奔放に語ることができたのか、と驚いた。
森永のエンゼルマークは天使のマークであるかのように思われているが、実はこのマークはギリシア神話の愛の神であるクピドだという。決してキリスト教の天使ではないのだ。なぜクピドを天使として用いたのか。それはバロック時代に、カトリックの美術家たちによってクピドのイメージをカトリックの天使として用いていたことに起因していたという。
花王石鹸は顔石鹸から来ている、ということを初めて知った。

『プラネテス』

2008-10-25 02:23:29 | Weblog
見た。
原作に比べて、宇宙防衛戦線の存在感がぐっと増している。宇宙開発が先進国と発展途上国の格差を推進してしまうという宇宙解放戦線の指摘にはリアリティがある。それは、現実の社会で技術革新が国の間の格差を押し広げているという事実を投影しているからだ。現実社会の事実を投影したSF作品としては、『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』もそう。ここでは旧厚生省と薬事会社との癒着という現実の事実が投影されている。
谷口監督は良い作品つくるなあ。

『マクロス・フロンティア』

2008-10-25 02:04:19 | Weblog
見た。
原マクロスでは、主人公に恋する女性が軍人と歌手だったけれども、今回は2人とも歌手。とにかく作中でランカ・リーとシェリル・ノームが歌いまくる。菅野よう子作曲のミュージカルのようだった。「愛おぼえていますか」「私の彼はパイロット」も菅野の編曲により、新たな魅力を得ている。
井上喜久子が悪役(グレイス・オコナー)というのが意外性があって良かった。最初は良い人かと思ったんだけどなあ。
CGも綺麗で、製作の予算が潤沢にあったのだろうなあと思う(人気のシリーズものはこの点が良い)。
何だか、マクロスってシェイクスピアのマクベスから来ているらしい。

須賀敦子『ユルスナールの靴』(河出書房新社)

2008-10-23 19:33:49 | Weblog
ベルギー生まれのフランス語作家マルグリット・ユルスナールは子どものような皮の靴を履いていた……。
ユルスナールの人生とその作品を描いた、須賀敦子のエッセイである。ユルスナールを描きながらも、著者はその過程で自らの半生を省みる。優れた文学者が優れた文学者を描くとはどういうことなのか、この作品はそれを端的に伝えてくれる。
ユルスナールの代表作『ハドリアヌス帝の回想』の内容に、著者が肉薄していく箇所が圧巻である。ローマの皇帝ハドリアヌス帝の生き様を空想するユルスナールとユルスナールの生き様を空想する著者。生きた時代も国も全く違うハドリアヌス・ユルスナール・著者を結ぶ空想上の糸が浮き彫りにされていく。ユルスナール歴史小説『黒の過程』では、16世紀のフランドル地方を生きた錬金術師ゼノン(パラケルスス、カンパネッラ、ブルーノをモデルにする)が主人公であるが、ここでもユルスナールの16世紀フランス・ルネッサンスへの想像力が、著者によって美しくなぞられる。これこそが、文学者が文学作品を読むということだろう。
著者はカトリック信者だが、若い頃アンドレ・ジッドの『狭き門』をシスターたちから隠れるようにして読んだという。ジッドの小説がプロテスタント的な内容だからだ。しかし、あまりジッドの世界観に耽溺することはなかったようだ。『狭き門』のヒロイン・アリスは当時の文学青年に人気があったみたいだけど……。

島田裕巳『宗教常識の嘘』(朝日新聞社)

2008-10-23 19:29:58 | Weblog
日本で一般的に信じられている宗教の常識には嘘がある。宗教学者として有名な著者が宗教の「意外な」事実を明らかにしている。キリスト教や仏教をある程度知っている人ならば常識的な知識も多々あったが、全体としては面白かった。
「仏教は世界の三大宗教にあらず」
仏教は意外と信者が少なく、上座部仏教の東南アジアや大乗仏教のチベット・日本を除くと広く信じられているとは言い難い。むしろヒンデュー教の方が信者人口は多いのではないかと著者は指摘する。世界三大宗教などという言い方をするのは日本人だけだとも。
「イスラム教に聖職者はいない」
イスラム教の宗教儀式をとりしきるのは法学者であり、世俗を捨てた聖職者ではない、という話。どのような信徒にも世俗的な生活や結婚を認めている点ではイスラム教はむしろ仏教やキリスト教よりも緩い。ユダヤ・キリスト・イスラムを一様に見なす誤りを著者は説く。
「イスラム教徒になるのはとても簡単」
「アラーのほかに神はなし」と宣言すればそれだけでイスラム教徒になれる。イスラム教は厳格な宗教のように認識されているが、必ずしもそうではないのではないか、というのが著者の主張である。著者はイスラム教の聖典コーラン(クルアーン)は「神の道」(宗教儀式の方法)を説いており、その点では神道にも近いと指摘する。
「隠れキリシタンは信仰を守れたのか」
実は明治以降も隠れキリシタンは存在した。長い間鎖国化の日本で信仰を守ってきた隠れキリシタンたちの一部は開国後も、本場のカトリックに馴染めずに、独自の信仰を長崎で守っていったという。戦後すぐの頃も存在していたが、現代ではその存在を確認することはできないようだ。さすがに絶えてしまったのだろうか。