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origenesの日記

読書感想文を淡々と書いていきます。

渋谷陽一『ロックは語れない』(新潮文庫)

2008-09-23 15:13:17 | Weblog
ロックは語れない、と言いつつロックを語っている対談集。浜田省吾、山下達郎(意外と毒舌!)、忌野清志郎、大貫妙子、遠藤ミチロウなどの一線のアーティストが渋爺の対談の相手だ。
著者はローリングストーンズの特徴を疲労感だとしている。そしてカントリー・バラードの"Wild Horses"(http://jp.youtube.com/watch?v=RYTPZks1kR8)をストーンズの最高傑作に挙げている。確かにこの曲ほどストーンズの持つ疲労感を上手く表現し得た曲はないかもしれない。渋谷のストーンズ観は極主観的なものであり、反論の余地はだいぶあるものの、なかなか鋭い。そういえば彼は"Angie"を嫌っていたっけ。
対談集の中で、渋谷はジョニ・ミッチェルの"Song for Sharon"(http://jp.youtube.com/watch?v=hIE-7ROd-Pw)という曲を紹介している。自殺した女性にシンパシーを抱いてしまうような危うい状態にいながらも、愚直に恋愛を求める女性の気持ちを歌った曲だという。政治にも抒情にも絡み取られない日常を唄った歌として、ジョニの詩の魅力が前面に押し出された名曲なのかもしれない。

ハーバーマス『近代 未完のプロジェクト』(岩波現代文庫)

2008-09-14 01:46:44 | Weblog
ユルゲン・ハーバーマスはフランクフルト第二世代に属する哲学者である。フランクフルト学派の中でも特にアドルノから影響を受け、フランクフルトでの講演「近代 未完のプロジェクト」はアドルノ賞を受賞した。アドルノもハーバーマスも現代の資本主義社会と商業主義的文化に対して批判的という点では同じである。しかし、マルクス主義へのシンパシーを明らかにしたアドルノに対し、ハーバーマスはマルクス主義にも一定の距離を置く。彼は社会主義国として経済的に混迷した東ドイツの状況を目の当たりにしている。そしてソ連の失敗も知っている。だからアドルノやサルトルのように社会主義を礼賛することはできない。ハーバーマスは文化的左翼として、「生活世界の植民地化」という言葉で西ドイツの資本主義社会を批判するが、その一方で社会主義に対しても同じく批判の目を向けるのである。
それではハーバーマスが信頼を置く思想とは何か。それは「モデルネ」の思想である。ボードレールが見出した「モデルネ」文化的な近代・現代に信頼を寄せ、近代とは未だ完成されていないプロジェクトだと考える。問題なのはモデルネ性の不徹底であり、このモデルネを徹底させることによって、商業主義文化から芸術を取り戻そうとする。
日本の批評家でハーバーマスを高く評価する人は少ない。それは彼がヨーロッパ近代に対して信頼を寄せているがゆえに、ヨーロッパ中心主義の陥穽に落ちてしまっているからであるという。ヨーロッパ近代を完成させようとするハーバーマスの理論はヨーロッパの中でしか通用せず、彼の目はアメリカやアジアを向いていない。その批判は確かに当たっている。
ただ、私はハーバーマスの「ヨーロッパ近代」の解析自体は優れてると思うし、そのナショナリズム批判も的確である。ナショナリストからの批判を受けつつも、ドイツ・ナショナリズムを冷静に批判する彼の知性は貴重なものだ(アドルノの後継者としては、ハーバーマスよりもジェイムソンの方が良いと思うけれども。)

梶田昭『医学の歴史』(講談社学術文庫)

2008-09-08 14:46:26 | Weblog
自然治癒に信頼を寄せた古代ギリシアのヒポクラテス、ヒポクラテスを継承した古代ローマのガレノス、中世イスラムの天才的な医師イブン・シーナー(『医学典範』)、ガレノスやシーナーを批判した「医学界のルター」であるパラケルスス、ルネサンスの代表的な解剖学者であるアンドレアス・ヴェサリウス、循環論のハーヴィー、啓蒙主義時代のオランダ・ライデン大学の医師ブールハーフェ(『医学論』)、スコットランドのエジンバラ大学の外科医ジョン・ハンター、天然痘研究で有名なハンターの弟子ジェンナー、細菌学の創始者パストゥール、食細胞運動の発見者メチニコフ、結核菌・コレラ菌の発見者コッホ、生理学の大家パブロフ、二重螺旋モデルのワトソン……。
本書はヨーロッパやイスラムの医学の歴史を追った書物である。著者の文章は大学の講義のようで、話題はいろいろなところに飛び、自由闊達に話は進む。論理的に書かれたものではないが、著者の博識ぶりを窺い知ることができて楽しい。『西洋医学と日本人』という本では、戦国時代以降の日本における西洋医学の輸入の歴史について簡潔に触れられている。江戸時代の日本の医学は、オランダのブールハーフェの医学から影響を受けており、著名な『ターヘル・アナトミア』もブールハーフェ医学の解説書のようなものだという。

小林章夫『コーヒー・ハウス 18世紀ロンドン、都市の生活史』(講談社学術文庫)

2008-09-05 18:37:36 | Weblog
17・18世紀に隆盛を誇ったイギリスのコーヒーハウス。コーヒーハウスはイギリスの近代ジャーナリズムの育ちの地であり、政治家たちがトーリー・ホイッグなどの政党をつくって活動する場所であり、犯罪者たちが巣食う魔窟でもあり、保険会社ロイズを始めとした会社の生誕の地でもあり、大学生たちの文化が花開く場所でもあった。
スウィフトもデフォーもアディソンもスティールもコーヒーハウスで活動し、筆を振るった。18世紀英文学の代表的な人物であるジョゼフ・アディソンやスティールの新聞『スペクテイター』も、保守派の新聞として現在も有名な『ガーディアン』もコーヒーハウスで初めて流行したものである。
スペクテーターは、イギリスのジャーナリズム史に燦然と輝く新聞であり、これまでのジャーナリズムには希薄だった政治的中立性を標榜したものであった。傍観者という意味をスペクテーターは、近代イギリスジャーナリズムに多大な影響を与えたのである。
ドライデンやポープといった「高級」な文学者ではなく、アディソンやスティールといった「低級」な文学者を中心に18世紀イギリス文学を描く著者の視点は頗る魅力的である(著者の専門はポープらしいが)。

最近見た映画4

2008-09-01 18:56:45 | Weblog
『ドリーム・ガールズ」』
ダイアナ・ロス&スプリームスの活動をもとにしたミュージカル映画。R&Bを歌い上げるエディ・マーフィーが最高に格好いい。ショウ・ビジネスの暗い裏側を描きつつも、しっかりとしたハッピー・エンドへと持っていくプロットも良いと思った。1年に3本クラスの素晴らしい映画だった。

『シカゴ』
刑務所を舞台とした人気ミュージカルの映画版。リチャード・ギアはあの役を演じるには少し歳を取り過ぎているかも。セクシーな映画でなかなか魅力的だったけど、素晴らしい『ドリーム・ガールズ』を見た後だったので……。

『ムーラン・ルージュ』
ニコール・キッドマン&ユアン・マクレガーのミュージカル。世紀末のパリを舞台としており、画家のロートレックも登場する。使用されている楽曲はデヴィッド・ボウイ、ビートルズ、U2などUKロックが多い。
http://jp.youtube.com/watch?v=uTs3uGl44pY
Elephant Love Medleyが良い。

上山安敏『魔女とキリスト教』(講談社学術文庫)

2008-08-30 17:53:29 | Weblog
父権制の前には母権制社会があったとするバハオーフェンの論、ショーレムのユダヤ神秘主義研究、フロイトのユダヤ教論、ユングのキリスト教論などをもとに、キリスト教における「魔女」の言説について論じた本である。
魔女の起源を探れば、ヨーロッパの自然宗教にある。そこでは古代地中海世界では太母神信仰があり、魔女は神秘的な存在として尊敬されてきた。なぜ魔女が一転して迫害される存在となったか。
エレミヤのバール神批判に端的に見られるように、ユダヤ教は自然宗教を排除しようとする傾向が強かった。キリスト教もユダヤ教の反自然宗教的な性格を継承し、キリスト教においては自然宗教のシンボルであった魔女は低い存在に貶められた。
モーセの女魔術師は罰さなければならないという言葉もよく引用された。だが、「ユダヤ・キリスト教vs自然宗教」の二項対立を見るだけでは、魔女の歴史を捉えることはできない。キリスト教世界においては、迫害される魔女は、時にユダヤ的な存在としても捉えられた。ショーレムが明らかにしたようにユダヤとはオリエント的な宗教であり、その異教性がキリスト教徒によって魔女のイメージと重ねられたのである。
魔女への迫害の一因にキリスト教の女性蔑視があったことは確かである(実際に魔女として迫害された中には男性も多かったのだが)。キリスト教は小アジアやギリシアに由来する女性崇拝とユダヤ教に由来する女性蔑視という矛盾する2つの要素を内に有した宗教であった。ルネッサンスの思想家であるパラケルススやアグリッパは、女性を神格化しようとする思想があった。彼らの思想を継承した16世紀のヴィエルスは魔女狩りを批判し皇帝にも直訴をした。この考え方は後に女性解放・フェミニズムに繋がり、魔女裁判批判を生み出す力となっていったのだが、魔女裁判がすぐになくなることはなかった。ルネッサンス後のカトリック・プロテスタント間の宗教対立の時代にも、魔女への迫害は強まった。他宗派の女性・男性を魔女として迫害する動きが起きたからである。
ルターやカルヴァンのプロテスタントはキリスト教の近代化を推し進めたと言われるが、魔女への迫害に関しては必ずしも解放的だったとは言えなかったようだ。近代のプロテスタントは人間の意思を重んじるあまり、例え行為がなくとも意思だけで人を罰することができるという考えに陥りがちであった。プロテスタントは時に「魔女」をその意思だけで罰してしまう過ちを犯してしまったのである。
19世紀以降、魔女狩りの研究が進み、15~18世紀を魔女狩りの最盛期とする意見が通説として受容されるに至った。多くの学者がキリスト教会がいかに特定の人物たちに「魔女」とレッテルを貼り迫害してきたか、というプロセスに注目したが、一方で実際に大地母神に根ざした魔女信仰は民衆の中に確かに存在したと主張する学者もいた(ジュール・ミシュレなど)。魔女信仰は単に魔女を嫌う民衆やキリスト教会が捏造したものではなかったのである。
ヨーロッパについての記述がほとんどであり、セイラム魔女裁判などアメリカの事件についてはあまり言及されていない。

リュシアン・フェーブル『フランス・ルネサンスの文明』(ちくま学芸文庫)

2008-08-30 14:39:59 | Weblog
アナール学派の研究者であるフェーブルが、フランス・ルネサンスに生きた貴族や芸術家、民衆の生活を綴った書である。
中世から連続した深いキリスト教の信仰の中におつつも、ルネッサンスの自由な空気に触れながら生きていたルネサンスの貴族たち。貧しい生活の中でカトリックの信仰を保ち続けた民衆たち。ブルクハルトのように芸術を中心に描くのではなく、フェーブルは人々の生活や慣習を中心に描く。
第4章では著者はマルティン・ルターやオッカムについて語る。著者はルターのプロテスタントを町人的な宗教と定義する。オッカムの唯名論は当時の人々の宗教観に影響を与えた。彼は間接的にではあるが、形而上学と理性神学を否定してしまったのである。この章を書くにあたって著者はジュール・ミシュレの歴史学に依拠している。
マルグリット=ド=ナヴァールとフランソワ1世の姉弟やラブレーなどその周辺に興味のある人であれば必読の書である。

木田元『反哲学史』(講談社学術文庫)

2008-08-30 14:03:42 | Weblog
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲル、シェリング、ニーチェ、ハイデガー……。
哲学者である彼らがいかに「反哲学」的であったかを叙述し、哲学者たちの既存の哲学を乗り越えようとするベクトルに焦点を当てた木田元らしい哲学史である。
ソクラテスはそれまでのソフィストの知性主義的な哲学をアイロニーによって乗り越えようとした。プラトンもソクラテスの思想をそのまま継承したのではない。ソクラテスとプラトンの間にある断絶に目を向けようとする著者の姿勢は好ましい。アリストファネス(『雲』)もクセノフォンもソクラテスを描いた。プラトンの描いたソクラテスを絶対視してはならず、ソクラテスのプラトン的解釈がどのようなものか考えなくてはならない。
著者は19世紀の哲学者としては、シェリングとニーチェを特に重要視している。シェリングは事実存在を本質存在よりも下に見なす考えに反逆し(この考えは中世の神学者にも、言うまでもなくヘーゲルにもある)、これまでの形而上学を崩そうとした。存在の本質よりも存在しているという事実を重んじる後期のシェリングの思想は、言うまでもなく実存哲学的なものであり、やがてはサルトルに継承される(ハイデガーはこの二項対立そのものを批判したが)。シェリングと同じくヘーゲルを批判的に継承したマルクスも、哲学者たちから疎外された労働に注視したという点では形而上学への反逆者である。唯物論とは、その通俗的な意味とは違って、元々は生きた自然を取り戻そうとした思想であり、人間と自然を二項対立的に捉えようとした形而上学への批判であった。
そしてギリシア以来の哲学史を総括しようとする態度はニーチェや著者専門のハイデガーに(そして構造主義に)引き継がれる。

佐々木毅『プラトンの呪縛』(講談社文庫)

2008-08-23 22:42:48 | Weblog
プラトンの『ポリティア』は、アテネ的な民主政治を厳しく批判した書物である。哲学的な人物による統治を理想としたプラトンにとって、選挙を行い人々の意思を尊重する民主政治は衆愚社会を生み出してしまう危険性のあるものであった。著者は20世紀において、プラトンの『ポリティア』がどのように解釈されてきたかを論じていく。
まず重要なのは、20世紀ドイツとプラトンの関係である。ラテン文化に馴染みの薄いドイツは、自国をギリシアの後継者として見なす傾向が強かった。そしてそのために、プラトンをドイツ文化に吸収しようとする動きがあった。20世紀ドイツにおいては、プラトンがニーチェに比肩する哲人として扱われるようになっていったのである。ゲオルゲ派はプラトンを「精神の国の王」としてその理想的国家論を高く評価した。そして、引き続きナチズム下で独裁主義を擁護する者が、プラトン哲学を利用することとなる。確かにプラトンの民主主義批判から、独裁政治の擁護を引き出すのは難しくはない。実際にナチス独裁下においては、プラトンは哲人ヒトラーの独裁を容認する理論的な根拠として用いられていた。民主制・衆愚制を嫌う彼の政治論は確かに独裁制・共産主義と親和性があるのである。
しかし、イギリスのグロスマンのようにプラトンを「民主主義政権における民主主義の批判者」として解釈した人物もいる。民主主義は決して万能ではない。人々は主権者としての欲にとりつかれ、次々と勝手な行動をしだす。モラルは崩壊し、政府は人々を十分に統治することはできなくなる。プラトンの民主主義批判はそれ自体は目を向けるべきところも多いのである。グロスマンは、民主主義に生きる者として、プラトンの民主主義批判に耳を傾けるべきだと考える。
同じ英語圏の思想家であるカール・ポパーは、グロスマンとは違い、プラトンを反民主主義的な思想家として厳しく批判する。プラトンの国家論は独裁性・共産主義の思想に近いものであり、近代民主主義国家に反するものである。プラトンは「偉大な哲学者」であるソクラテス(彼は哲学は誰にでも可能だと考えた)の思想を継承してはおらず、師匠を裏切ったのである、というのがポパーの見解である。
その他、ラズウェル、アーレント、ハイエク、デヴィッド・イーストンといった学者たちのプラトン観が論じられている。プラトンを激しく糾弾するのでもなく、過剰に擁護するのでもなく、その民主主義批判に潜む現代的意義を探り出そうとする著者の姿勢は好ましいものだ。著者はプラトンを民主主義の不完全性に対する警告者と見る。