道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

権力分立~新しい統治体を考える

2013-04-20 22:50:45 | OPPT・NESARA・BPPF
2013年4月20日
―新しい統治体を考える前にー
古くから、日本を含めた中国とその周辺諸国では、すべての権力を君主あるいはその時々の政権に集中させていた。このため、明治以前の日本では、立法権と行政権、司法権はほぼ同じ機関が担った。江戸幕府の役職である町奉行(江戸町奉行)が、江戸市中に施かれる法を定立し、行政活動を行い、民事・刑事の裁判も行っていたことは、その典型である。

日本に近代的な権力分立の思想が入ってきたのは幕末である。
1868年(明治元年)、五箇条の御誓文を実行するために出された政体書には「天下の権力、総てこれを太政官に帰す、則政令二途出るの患無らしむ。太政官の権力を分つて行法、立法、司法の三権とす、則偏重の患無らしむるなり。」として、三権分立主義を採ることが明記された。

しかし当時は、裁判こそが行政の最大の役割であると考えられており、1872年(明治5年)に司法卿・江藤新平が欧米に倣って、行政権と司法権を分離させる制度の構築を図ったところ、特に地方行政の担い手である地方官から猛反発が起きた。例えば、京都府からは「仰地方の官として人民の訴を聴くこと能はず、人民の獄を断ずるを能はず、何を以て人民を教育し、治方を施し可申哉」(地方官が民事訴訟をしてはいけない、刑事裁判をやってはいけないと言うが、ではどうやって人々を教育して地方を治めろというのか)と抗議(明治5年10月21日付京都府届)が行われ、諸府県からも同様の抗議が殺到したという。

また、1875年(明治8年)に終審裁判所である大審院が設置された後も、大審院の判決に司法卿が異議申し立てをする権利を保留する(江藤は既に佐賀の乱で処刑されている)など問題が多く、後の自由民権運動でも国会開設問題(立法権の政府からの分離要求)と並んで政府批判の材料とされた。 ―ウィキペディアー

すべての権力を君主あるいはその時々の政権に集中させていた慣習は、現在もそのまま暗黙の社会体制となっている。
三権分立の図


世界は、人類の奴隷化が巧妙にかつ大胆に行われていた事が暴露され、信じがたい事実が次々と明らかになってきた。まもなく地球外生命体の存在と、一部特権支配者との長い歴史の公開が始まる。さらには人類の壮大な宇宙史も明らかにされる。

このことから考えれば、今の社会の仕組みは、奴隷の管理システムに置き換える事ができる。君主に権力が集中していた時代、内外に対立を作り出して戦争をさせ、双方の威力をそぎ、漁夫の利を得る姑息な方法で、中央の権力を維持するなどの謀略が行われてきた。そして略奪した他民族を奴隷化し、作り上げた無知な国民を奴隷として戦力や生産力の下僕として飼いならした。その奴隷社会の高度化(老害化)した管理システムが古代から引き継がれている三権分立の社会システムに他ならない。王は民の声を天の声として聞かなければならないという教育を受けたとされている。奴隷の良心が王権を批判する、いわゆる世論につねに気を配る必要があった。そうしなければ無知な自国民の奴隷が、他国の煽動をうけ王権を奪いかねないからだ。今の時代も政権が弱くなると中国やロシア、アメリカ・韓国に政治的侵略を受けると恐怖感を抱く識者?が多い。

選挙によって選ばれた国民代表の議員が議会で法律を制定するのは、国民と王権との間に入って国民をたしなめる王権の御用聞きではないだろうか。奴隷が牢獄の中で守らなければならない規則は、絶対服従であった。ちょうど刑務所の中の規則正しい生活、3食間違いなくあてがいぶちがある生活、アメリカのように民間に運営が委託された刑務所で、受刑者が生産したものを看守が横領している実態と同じように、今われわれの実生活も実社会も奴隷が収監されている刑務所と相似した環境なのに、同じようには思えないところが、彼らの優秀な管理能力であるといえる。類まれな秀才が最高学府を出て人類を管理する立場になってきた。それは彼らの心の中で影響力のある闇を形成してきた。この冷え切った心は癒されなければならない心であり、光を必要とする最も弱い立場におかれている闇の奴隷である。


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