富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

〈記事追加〉民話めぐり 富田林の民話 2024

2024年08月08日 | 館外活動

民話のご紹介など記事を追加しました。2024年8月8日

9時30分 出発前の中央公民館ロビーで集合写真。

3回にわたり富田林の民話のコースを歩きました。今回は3回目、富田林(新堂・富田林・毛人谷)の民話のコースです。

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富田林には91もの民話が伝わっています。

 

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特に喜志地区、錦織・甲田地区、彼方・彼方上地区、富田林地区には多くの民話が語り継がれてきました。

近年はややもするとおじいちゃん・おばあちゃんや親子の関係が希薄になり、民話が語り継がれていくことが少なくなりました。

民話は現在進行形です。絶滅危惧種にならぬよう富田林の民話をご紹介します。

 

富田林街道(平尾街道)を歩きます。

2024年7月30日も極猛暑日の中、参加者も少なかったが休憩も取りながら少しでも日陰を求め、民話めぐりを実施いたしました。その状況の一部を紹介します。

 

妙楽坂

PLへ行く長い急坂です。ここは富田林街道の旧道になっています。

 

坂の途中に妙楽池があります。

 

堺と富田林を結ぶ重要な街道なのですが、昔は「追剥ぎ」が出ると言われる位さびしい急な道。そんな環境の中で妙楽坂の民話が生まれたのでしょうか。

富田林の民話:妙楽坂

「妙楽坂の急坂で牛に荷車を引かせ大儲け。でも、尾ひれが...

妙楽坂の急坂は荷車を押すのには大変な道やってん。『妙楽坂は地獄坂』て呼ばれ、えろう嫌われとった。ある日の朝、坂のねき(すぐ脇)に住む与助のとこ(所)にだれのかわからん牛が一頭が迷い込んで来よってん。

妙楽坂を荷を積んで大八車で上がろうとしているふたり、重すぎてびくとも動きまへん。その牛に引かせてやったら軽々坂の上まで軽々一気引っ張り上げよった。ほんでお礼に30銭くれよった。

これ商売にしたら儲かるぞ。『牛の鼻引き30銭』という看板を出したら、たちまち大繁盛でえらい儲かったそうや。

ところが与助は牛の世話をおろそかにしたためか、べっぴんの雌牛に出会ったとたん付いて行って、二度と帰って来よらんやった。」

富田林は農耕に使う牛がたくさん飼われていました。特に雄の牛は「コッテ牛」と言って力がすごい。でも、気が荒いので扱いはしにくかったと北甲田の古老から聞いています。

 

妙楽坂より

西山墓地が見えます。その向うが富田林モータースクール。あのあたりに大楠公の支城群のひとつ、毛人谷城があったようです。羽曳野丘陵の東端に築かれたこの城は、周りの中野城、篝(かがり)山城、龍泉寺城、金胎寺城などへの「のろし伝達」や兵力の移動のなど大切な役割を担っていました。

戦前には「城山公園」が作られ大楠公さんの家来の富田七郎・八郎が城を守っていたそうです。昭和40年代の住居表示が変わる前はその麓に「大字毛人谷 城山町」という地名が残っていました。

 

西山墓地

羽曳野丘陵の東の谷筋、新堂と毛人谷の境にあります。もともと明治31年(1898)まではお墓はなく、現在の富田林駅の地の新堂・富田林・毛人谷の集合墓地(惣墓)にあったものを、河陽鉄道(現近鉄)により富田林駅が作られたために、そこの墓碑を周りのお寺(西方寺)やここに移設したのが始まりです。

 

最初の墓域は当時の富田林町(富田林と毛人谷)と新堂村(新堂本郷のみ、中野、大工町、富田は別墓)に区割りされています。

 

力士の墓や大峯山の供養塔、筆子塚(寺子屋の先生の墓)などがあります。

 

無縁塔

江戸後期に美具久留御魂神社の宮司をしていた松原氏のお墓などがあります。

 

西山墓地の東屋で休憩。

 

毛人谷城跡 左の富田林モータスクールあたりの崖の上

富田林のの民話「城山の石像」

「むかしのこっちゃ。富田林の西山に『毛人谷城』という大楠公さんの重要なお城がおましたんや。そこを地元の富田七郎・八郎兄弟が守っていましたんや。この兄弟は楠木正成の武将として数々の功績を挙げたほかに、天災や凶作で困っていた人を助けたり荒地を開墾して立派な田んぼを作ったり、ため池を造ったりして村をようしやはったんや。

そやさかいここを城山というてな、いつまでも富田兄弟のことを忘れんように語り継いできましたんや。

そんで昭和の時代(戦前)になってこの辺を「城山公園」にして富田兄弟の遺徳をしのんで大楠公さんとともに立派な石像を建てはったんですわ。地元の青年や小学校の生徒さんたちが何日も何日もかかって作ったコンクリートの石像でんねん。

ところがや、戦後になって城山公園は荒れ放題。いつの間にやら公園も石像もなくなってしまいましてん。」

 

今は亡き在りし日の「城山の石像」

富田林の民話 総集編より

 

階段を降りて、冨田林モータースクールのところの外環を渡り...

 

今度はベツレヘム通り。

 

ベスレヘム通り。街路樹は北アメリカを代表する木 花水木

今年 合衆国ペンシルべニア州 ベツレヘム市と姉妹提携60周年なのに、うす汚れた情けない案内板。

向うの方が記念に訪れたらどう思うでしょ?

今年の内にきれいにしましょ。

ベスレヘム通りの花水木2024 2024.4.16

 

それから猛暑の中とぼとぼ歩いて西方寺。ここは2つの民話が語り継がれています。

西方寺の境内にある与九郎稲荷にまつわる「碁の上手なキツネ」と天正山西方寺の天正山にまつわる「仏と腹痛武士」です。

西方寺は浄土宗のお寺で、杉山家、仲村家、河村家など富田林村の方のお墓があります。

 

与九郎稲荷

冨田林の民話「碁の上手なキツネ」

西方寺の境内にある「与九郎稲荷」。ご住職と碁を打った「碁の上手なきつね」の伝承があります。碁の上手な狐が「与九郎」という老人に化けて、西方寺の住職らと毎夜、寺で碁を打っていました。ある日「きつね」であることがばれてしまい、負かされた留吉と与八はとても腹をたて罠を仕掛け、それにかかり死んでしまいました。可哀そうに思った住職は、祠を建てて冥福を祈りました。それが西方寺の与九郎稲荷です。

 

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「仏と腹痛武士」

「天正年間、豊臣秀吉の家来の伊藤左馬という狩りの上手な侍が西方寺の近くを通ったおり、たまたま獲物が全く取れない腹いせに、ゴーンとなった鐘の音に腹を立ててお寺の仏像を家来に命じて残らず寺の池に投げ込んでしまいました。ところが急に左馬が腹痛で苦しみ出し、沈んだ仏像が頭に浮かんできたので、すぐに家来に命じて仏像を元に戻すと腹痛がうそのように快方に向かいました。その後左馬はここに立派な堂宇を建てて、天正山西方寺と名付けたそうです。西方寺は富田林寺内町の南西の毛人谷と富田林の水が集まる谷川のほとりにあります。」

案内碑の内容と少し民話は違いますが、いずれにしても西方寺の縁起は池から出てきた仏像が関係し、その時の元号「天正」が山号になっています。西方寺の山号「天正山」はここからきているようです。

 

興正寺別院

ここから寺内町の中を通り過ぎ、新堂の法螺坂(ほらんざか)に向かいました。

じないまちのの民話をひとつご紹介します。

 

「糸屋の娘」

糸屋の娘は九郎五郎池の大蛇だった。

糸屋の藤兵衛さん、長年子供が授からず、九郎五郎池の近くにあるお宮さんに子宝祈願をしていました。あきらめかけた頃店先に子供の泣く声が。「神さんが子供を授けてくらはった。」と大喜びして、お絹と言う名前を付けて、大切に育てました。年頃になった器量や気だての良いお絹になんぼ村の若い衆が言い寄っても首を横に振るお絹を見て、藤兵衛さんが問いただすとお絹は「私は九郎五郎池に住んでいた大蛇」と言います。見る見る大蛇の姿に戻ったお絹を藤兵衛さんは泣く泣く池に返したそうです。

 

富田林じないまちを過ぎて東高野街道で北に向かいます。新堂本郷に向かう手前に河岸段丘の急坂を降りる道があります。これが民話で出てくる「法螺坂」と言われている坂です。

「法螺坂」

東高野街道の通る新堂から現在の清水町に降りる坂が法螺坂(ほらんざか)と言われています。法螺は法螺貝(ほらがい)のこと。新堂村がとてつもない日照りに見舞われ、雨乞いをしても一粒の雨も降らない日が続いた時、どこからともなく、オスとメスのつがいの法螺貝が雨乞いをしている坂に現れ「ブォー、ブォー」と大声でうなり始めたそうな。すると一天にわかにかきくもり、大雨が降ってきて日照りが救われました。村を救った法螺貝に感謝して、この坂を法螺坂と言うようになったそうです。

 

さらに、とぼとぼ歩いて石川の新北橋へ。暑さゆえ人数も男ばかり4名になってしまいました。むこうに見える手前の新北橋と吊り橋のポールが見える石川サイクル橋あたりに昔民話に出てくるような木橋があったようです。

 

「こんにゃく橋」

新堂村と北大伴村の石川に板だけの木橋が掛かっていました。そのねきに仲の良い二人の兄弟が暮らしていました。仲の良い兄弟をねたんでキツネがべっぴんさんのいとはんに化けて、仲を裂こうとします。うまくいきそうでしたが、橋の真ん中でうっかり寝てしまい、しっぽを見せてしまいばれてしまいます。兄弟はきつねのいたずらと気が付きシコ踏んでキツネをグラングランと揺れる木橋(こんにゃく橋)から落としてしまいます。なおこの民話はキツネの代わりに鬼が出てくるバージョンもあります。江戸時代はこういう橋が普通でした。

 

新堂の役行者さま 個人のお家(うち)の軒先におられます。

 

アルカイックスマイルがかわいい役の行者さん。石造や威厳のある役行者さんが多い中、やんわりとした木造の役行者さまは少ないようです。富田林市域では大峯山上参り(修験者の根本道場)が盛んで、喜志木戸山、毛人谷、錦織などにも修験道の祖である役行者さんがいたはります。

 

新堂 光盛寺 浄土真宗本願寺派

山号は龍地山。真宗本願寺派(西本願寺)。阿弥陀仏を本尊とします。至徳元年(1384)開基、寛永八年(1631)寺号を公称。境内は272坪。本堂の礎石中に白鳳期の2個の大きな礎石があります。

 

ここにいちょうの木が見えますが、これが富田林の民話の「めおといちょう」です。元は民話の通り2本あったのかもしれません。

光盛寺「めおといちょう」

いちょうの木が大きくなって屋根に掛かるので、和尚さんと弥助が立ち話で木を切ったらどうかの話をしていました。その晩、「どうか木を切らないで」とイチョウの木に顔を伏せて泣いている女性が現れます。弥助さんと村の衆がそれを見て、木の精と察し、切らないようにお寺に頼みに行きました。次の年の秋、ことさらみごとな黄葉と銀杏がたわわに実りました。

 

歯痛の観音さん

近鉄 富田林駅からほど近い、昔からある巡礼街道沿いに、祠に祀られた宝篋印塔があり、塔身の部分に観音像が刻まれています。歯が痛くて頬をさすっておられるようにも見えます(半跏思惟)ので、「歯神(はがみ)さん」とか「歯痛の観音さん」とか、近在の方々に慕われてそう呼ばれています。

 

実はこの宝篋印塔、今から250年ほど前の、安永三年(1774)に「新堂村 酒屋忠兵衛」さんにより、西国三十三度巡礼行者 玄教さんの満願を記念して建てられた供養塔です。

西国三十三度満願供養塔の正面はこの観音さんの後ろに当たります。

 

その他にも富田林地区の民話はたくさんあります。

蛇と平九郎 新堂、人の情 新堂、城山のつつじ 新堂

たぬきの嫁はん 富田林、峠のきつね 富田林、

赤い帯の女 富田林、左折禁止 毛人谷、オイッチニ、オイッチニ 新堂

蛇(じゃ)になったお芳(よし) 富田林、

 

3回にわたり富田林の民話を巡りました。喜志の民話めぐり、錦織・甲田の民話めぐり、そして富田林周辺の民話めぐりです。民話が語り継がれないと消滅してしまいます。たまには民話のふるさとを訪れるのもいいなと思いました。

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関連記事:

〈記事追加〉民話めぐり 錦織・甲田の民話 2024 2024.8.5

民話めぐり、喜志の民話 2024 2024.7.18

長文最後まで見ていただきありがとうございました。  

2024.08.01 kusu&アブラコウモリH

 


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