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富田林百景+ 「とんだばやし」とその周辺の魅力を発信!「ええとこ富田林」

大阪の東南部に位置する人口10万ちょっとのごく普通の町、富田林。その魅力を、市民の手で発見していきます。

金岡神社の太神宮灯籠

2016年08月24日 | 石灯籠❤

 以前、竹内街道を歩いたとき、金岡神社に「太神宮灯籠(伊勢灯籠)」があるのを思い出し、出かけてみました。

 

 金岡神社は、堺市北区金岡町の竹内街道沿いにあります。折りしも、お盆前で14日、15日に執り行われる「盆踊り」のやぐらが据えてありました。この時、金岡町の各町から大太鼓の太鼓台が担ぎ出されるそうです。

 

 境内には楠の大木(堺市保存樹木)が3本あり、神社の歴史の深さを物語ります。

 

 金岡神社は、平安期、仁和年間(885~889)創建されたと伝えられています。いくつかの祭神のなかで、宮廷画家の巨勢金岡を祭っているので、この名があるのではないでしょうか。

 

境内に、江戸後期に近在の各村から共同で建てられた「太神宮灯籠」が三基も存在します。最初からここに建てられたかは定かではありませんが、竹内街道沿いに境内に3基並んであるのが印象的です。

 「太神宮灯籠」とは、伊勢灯籠のことで、江戸中期以降、庶民に普及した「伊勢参り」、「おかげ踊り」の流行とともに、その街道筋や、町の中などに建之されました。

この頃から、村々は菜種粕や綿実粕、干鰯などの金肥の使用や溜池・井路の整備により、農業の生産性の向上や木綿・菜種などの換金作物の生産に伴い、生活環境は向上してきました。
 そしてこの時代、庶民が自由に旅することはなかなか難しかったですが、信仰を理由にした神社や仏閣への巡礼旅は、時の権力からもすこし大目に見られていました。
 巡礼対象の神社や仏閣は数多くありましたが、その代表となるのは畿内では伊勢神宮への「お伊勢まいり」で、この時代娯楽や楽しみの少ない庶民にとって、そこに参拝することが一世一代の晴れ舞台であり、大きな楽しみでもあったのです。
 
そして、それを記念して造られたのが、「太神宮灯籠」や「おかげ灯籠」ということになります。

 

 その1.「天照皇太神宮」銘 竿の部分が直方体の石灯籠です。笠が大きく、すこし頭でっかちな感じがします。

南河内地方では、江戸時代から続く農村では1基や2基あるのは珍しいことではないのですが、ここでは境内に三基もあり、しかもその一基は文政13年(1830)のおかげ年の「おかげ灯籠」(その3で紹介)であるのは驚きです。

 関連記事:おかげ灯籠 2016.7.13.

 

 銘:「五穀成就町内安全」、基礎の下部左両角に「盃状穴」が見えます。

*「盃状穴(はいじょうけつ)」:江戸時代の民間信仰とおもわれる。神社の水盆や石灯籠の基礎部、橋脚などの石造物に穿かれた盃状の穴。人の両手で水やお金、品物をを受ける、また授かる形に似ています。定説はありませんが、おそらく子宝が授かる、いろんなものが授かる、運に恵まれるなどを期待して、庶民が石に穿った受け皿に願いを託して、時間をかけて彫ったと思われます。

南河内や泉州地方では、地域にもよりますがよく見られる現象です。

盃状穴については、 ☆私の富田林百景+ 「 太陽の道 美具久留御魂神社  2013.12.17.  

               のなかに説明があります。

              ☆「富田林の盃状穴」・・・富田林百景講座参加者 森さんのHPより、

             http://www5b.biglobe.ne.jp/~kensetsu/haijouketsu/haijouketsu.htm 参照

 

 小さ目ながら銘がしっかりと刻まれた「太神宮灯籠」ですね。

 

その2:「嘉永六年(1853)」の銘が入った「天照皇太神宮」灯籠  神前型石灯籠

 

 銘:「維時嘉永六歳次 癸丑三月仲旬」

この年は、ペリー来航の年でもあります。ここからが幕末。翌年、日米和親条約が締結されました。

 

 銘:「天照皇太神宮」

 

 銘:「為五穀成就町内安全之」

 五穀豊穣や村内の安全を記したものが多いようです。

 

 その3.「文政十三年、おかげ年のおかげ灯籠」

三基のうちで一番大きな灯籠です。笠が「蕨手」(くるんと上を向いている)伊勢灯籠は珍しいです。南河内の太神宮灯籠の多くは「その2」の神前型が多いです。

 

 銘:「天照皇太神宮」

 これも多くは、「太神宮」とか、「太神宮夜燈」・「太神宮灯籠」が多いです。

 

 銘:「文政十三年庚寅九月吉日 御影施行場」

 銘の中に、「御影(おかげ)施行場」と刻まれています。太神宮灯籠」のなかで、「御影」の銘が刻まれている灯籠を「おかげ灯籠」と呼んでいます。

そして、「施行場」と刻まれていますので、灯籠が移動していないとしたら、この場所でお伊勢参りの参拝いく人にお茶やお粥、わらじなどをあげたり、こどもたちにはおこづかいをあげたりと「ほどこし」したと思われます。伊勢に向かう街道沿いには、おかげ参りが流行した時に、沿道の人達の好意で、街道沿いに施行場が設けられ、無料で施しをしたと古文書などに伝えられています。

富田林市でも「北大伴」「南大伴」「富田林」で、また周辺の「葉室」「一須賀」「太子」「山田」「春日」などでも施行したと記録に残っています。

江戸中・後期のおかげ年などに、爆発的に『お伊勢参り』が和泉・河内地方の村に流行し、お金のある人もあまりない人もわれもわれもと、詣でた結果、いろんな社会問題が生じたようです。仕事を放りだして伊勢参りに行ったり(抜け参り)、子供たちが何人かで親に内緒で行ったりいうようなこともあったようです。

  

 灯籠の基礎部分 銘:「畑田世話人 弥兵衛 新助  井之尻世話人 又兵衛 作右衛門 季兵衛 」  

それぞれの面に各村の世話人の名前が挙げられています。村中が協力して灯籠を建之したようです。

 

 

 撮影:2016.8.10.

2016.8月24日 (HN:アブラコウモリH )

 


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