〈リバイバル・アーカイブス〉2021.8.30~9.13
原本:2016年7月13日
式内社 泉穴師神社
ここに、多くの神社の常夜燈とともに、なぜか『太神宮灯籠』があります。『太神宮灯籠』とは、伊勢灯籠のことで、江戸中期以降、庶民に普及した「伊勢参り」、「おかげ踊り」の流行とともに、その街道筋や、町の中などに建之されました。
おかげ灯籠 泉穴師神社 泉大津市豊中町
竿部分の『太神宮』の横に『おかげ』と見えます。『太神宮灯籠』なかで、一部『おかげ』と彫られている灯籠があります。
これは、古代からずっと行われている20年に一度の伊勢神宮の式年遷宮(本殿を定期的に建て替えて、御神体を移す神事)に伴い、式年遷宮の翌年参宮は平年より一層御利益があるといわれていたことから、江戸以降各地でさかん伊勢参りが行われ、そのなかで、特に60年に一度『おかげ年』といわれ、盛大におかげ参りがおこなわれました。そのなごりが、『おかげ灯籠』というわけです。
おかげ灯籠 天保二年(1831)銘
河内長野市松が丘中町にある立派な灯籠です。
『太神宮』と見えます。『太神宮』は『お伊勢さん』のこと。伊勢神宮を指します。
基礎の部分に『おかげ』と『施行中』の文字
『施行(せぎょう)』とは、伊勢参りのために街道筋の町中通る人達に接待や「ほどこし」をすることです。お茶やお粥さんの接待や、わらじをあげたり、こどもたちにはおこづかいをあげたりと、沿道の人達の好意で『施行』が行われたようです。
富田林市でも「北大伴」「南大伴」「富田林」で、また周辺の「葉室」「一須賀」「太子」「山田」「春日」などでも施行したと記録に残っています。
江戸中・後期のおかげ年などに、爆発的に『お伊勢参り』が和泉・河内地方の村に流行し、お金のある人もあまりない人もわれもわれもと、詣でた結果、いろんな社会問題が生じたようです。仕事を放りだして伊勢参りに行ったり(抜け参り)、子供たちが何人かで親に内緒で行ったりいうようなこともあったようです。
おかげ灯籠 大阪狭山市今熊 天保元年(1830)銘
竿(塔芯)部分に『太神宮』、中台部分に、横に右より『おかげ』の銘
『おかげ』と読めます。
御影(おかげ)灯籠 堺市美原区平尾、「いせ道」沿い 文政十二年(1829)銘
漢字で『太神宮』
平尾地区は、旧街道の「いせ道」沿いの村で、街道のネーミングが伊勢参りを偲ばせます。
実際、泉州高石・堺南部方面から、草部→小阪→福田(西高野街道分岐)→北野田→菅生→平尾→喜志→太子と街道が通り、太子町の六枚橋で竹内街道に合流して、二上山の横を越え、葛城市長尾を経て横大路経由大和桜井より、伊勢本街道または表街道をとおり、伊勢に至ります。
これも『太神宮』の横に『御影』の文字。
「おかげ」は、ひらがな表記のほか、「於かげ」「御影」「お蔭」の文字も当てることがあります。
菅生神社のおかげ灯籠 堺市美原区菅生(すごう) 文政十三年(1831)
おかげ年につくられたおかげ灯籠です。
おかげ年は、ほぼ60年ごとに大流行しましたが、明治になって明治政府の政策もあり下火になりました。流行なので、必ず60年ごとというわけではなく、ずれたりそれ以外の年でも大流行しています。
竿部分に「村内安全」、右上に「おかげ」
伊勢参りの大流行した年は、
☆慶安三年(1650)・・・前年が式年遷宮、江戸より流行 1~5月
☆宝永二年(1705)・・・京都で流行、年間350万人 本格的なお陰参りの始まり。
☆明和八年(1771)・・・明和六年が式年遷宮、山城宇治から流行、沿道は物価高騰。年間200万人
☆文政13年(1830)・・・前年が式年遷宮 阿波より流行、ひしゃくをもって施行を受ける。(ひしゃくを持つのは施行を受けますよの印) 最大のお陰参り 年間428万人 富田林市東板持では、同年6月22日、25日、26日にお伊勢さんのお札が降ってきたとの記録。御師がまいたか?(御師:この前のブラタモリでも紹介されていましたが、伊勢参りの案内・接待・旅館の紹介などすべての旅行代理店的なセールスを行う人達)
☆慶応三年(1867):「ええじゃないか」の流行。厳密には「お蔭参り」には入らないようです。
☆明治23年(1890):前年が式年遷宮 「お蔭参りの面影もなし」 明治政府の御師の禁止により下火になりました。
『おかげ』
『於(お)かげ灯籠』 堺市美原区多治井 丹比神社 文政十三年(1830)銘
文政十三年のおかげ年に作られたおかげ灯籠です。
境内にあるいくつかの石灯籠の一つです。もともとここにあったかは不明
「おかげ」 の「お」は「於」を当てています。
おかげ灯籠 河南町寛弘寺 老人集会所前 宝暦十年(1760)
年号の入っている灯籠のなかで、南河内地方最古と思われる「おかげ灯籠」です。
南河内地方において、太神宮灯籠ではここと、狭山神社境内のもの、それと大阪狭山市池之原の旧道沿いの『太神宮夜燈』の3基が現存最古と思われます。神社の常夜燈には、それこそ元禄のものも珍しくありませんが、民衆の意識高まりで、『村中』『講中』で建之された太神宮灯籠は、このころから急激に作られていくようです。
ちょっと風化して読みにくいですが、『太神宮献(?)燈』でしょうか?
非常にわかりにくいですが、おおざっぱに『於かげ』と書いてあるようです。
まだまだ、画一的な調査がなされていない灯籠もあるようなので、今期「富田林百景+」の講座では、富田林市の太神宮灯籠 三十数基と、周辺のおかげ灯籠について現地調査を踏まえて研究発表をしようと思います。
江戸中期以降、南河内の農村は金肥の使用や井路・溜池の整備、農耕牛の飼育などにより、農業の生産性が向上し、木綿・菜種・煙草など換金作物の生産などにより、生活環境は充実していきました。
そのころより、すこし余裕があれば伊勢講(講は目的を同じくする仲間集団の意)をつくり、費用を積み立てて、くじ引きや順番で毎年何人かが伊勢にお参りするようにもなりました。
そういう環境の中で、お陰参りの流行、おかげ踊りの伝播も相まって、村内の人々が多く出入りする街道筋や町中にメモリアル的に常夜燈を兼ねた太神宮灯籠やおかげ灯籠が作られたのではないでしょうか。
2016.7月13日 (HN:アブラコウモリH )
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