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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ 受難週編

2010-03-31 14:02:20 | 聖書
 主の御名を讃美いたします。
 月曜日から寒い日々が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。主の伴いと恵みとがあるようにお祈りいたします。
 明日(木曜日)の受難週祈祷会では、主の晩餐式が守られます。
もしご都合がつけば、ご出席ください。


 十字架につけられた主イエスが残された7つの言葉:☆9時から正午までの間に

1)「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23章34節) 自分を十字架につけた者たち、私たち罪人たちのための父なる神への執り成しの祈り、そして私たちへの赦しの言葉。2)「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」(ルカ23章43節) イエスと共に十字架にかけられた二人の犯罪人のうちの一人が、自分の罪を認め、罪を悔い改めたことに対する赦しと希望を与える言葉。

3)「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」、「ごらんなさい。これはあなたの母です」(ヨハネ19章26–27節) 主イエスを信じる信仰によって、また主の血潮によって結ばれる主の家族とせられる招きと励ましの言葉。

☆3時すぎ、死の直前に

4)「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(マタイ27章46節、マルコ15章34節)主の言葉があまりにも強烈であったために、アラム後で記された。神との断絶という霊的苦しみから叫ばれた言葉。

5)「わたしはかわく」(ヨハネ19章28節)7つの主の言葉の中でもっとも短い言葉。ギリシャ語では一語のみ。十字架上での主イエスの肉体的な渇き、苦しみを示す言葉。私たちの「渇き」、苦しみにも寄り添ってくれる主の言葉。

6)「すべてが終わった」(ヨハネ19章30節)息を引き取られる前に神から委ねられた救いの業、救いの道が完成したという宣言と忠実に使命に生きた満足に主の満ちた言葉。主イエスの終期を支配したのは死ではなく、最初から最後まで、すべて神の御旨と愛によって支配されていることを示す言葉。

7)「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカ23章46節)神から委ねられた地上での使命を全うし、神から与えられた霊なる力、息を神にお返しする言葉。死の極みにおいて、すべてを神にお委ねした主の私たちクリスチャンに対する究極の信仰のあり方を示す言葉。

 週の後半の歩みも、復活の主イエス様が共に歩み、励ましてくださるように。平安があります様にお祈りしています。

 大久保教会牧師 河野信一郎

メルマガ#91 使徒行伝28章30~31節

2010-03-24 14:01:52 | 聖書
みことば:「パウロは、自費で借りた家に、まる二年間住んだ。そして、彼のもとに訪れて来る者をことごとく迎え入れ、実に大胆に、また妨げられることもなく、神の王国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けたのである。」28章30–31節 岩波訳

 2年間学んできた使徒行伝も、今回で終了となります。

イエス・キリストを救い主と信じる人々が集まり、祈りをささげていた時に聖霊がその一人ひとりに注がれ、初代の教会が誕生しました。なぜ救い主イエスを信じる者たちに神の霊、神の力が注がれ、教会が誕生したのかをこの2年間学んできましたが、その理由が本当にうまく、そして明確に使徒行伝の最後に記されているのではないかと思います。上記の箇所を今一度お読み下さい。

 使徒パウロが伝道者として主に召されたのは、ユダヤ人と異邦人に神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教えるためでした。パウロの宣教活動は、多くの実を結びましたが、ユダヤ人たちの妨害と迫害を絶えず受けました。念願のローマに到着しましたが、身柄は緩やかですが拘束されたままの状態ですので、自分から率先して人々の中に入って行けなくなりました。しかし、彼のもとに訪れてくる人たちをすべて迎え入れ、神の国とイエス・キリストについて妨げられることなく、大胆に語ったとあります。当時のローマは異教の国で、そこでパウロが妨げられることなく大胆に福音を語れたということは驚くべきことです。パウロは鎖につながれていても、キリストの福音は自由であるということを証明しています。パウロが大胆かつ妨げられることなく福音を伝えることができたのは、神の力・聖霊の力によってすべての試みから福音宣教活動が守られ、聖霊の力によって大胆に語ることができたからです。神様のご臨在と力づけがいつもあったのです。

 使徒行伝は、1章3節でイエス様が弟子たちに神の国について語ったところから始まり、使徒パウロが救い主イエス・キリストと神の国について大胆に語ったという言葉で閉じられています。1章6節で弟子たちは「主よ、あなたがイスラエルの国を復興なさるのは、この時なのですか」と主に質問をしましたが、イエスを救い主と信じるすべての人、ユダヤ人と異邦人に「神の国」が備えられ、招かれていると使徒行伝全体は答えます。「神の国」への道は、イエス・キリストの十字架の贖いの死と復活によって整えられました。私たちがイエス・キリストを心に受け入れる時、主が一人ひとりの心をご支配くださり、心に喜びと平安を与えて下さいます。そしてこの地上での使命を私たちが終える時に、私たちは「神の国」へと招かれます。私たちクリスチャン、そして大久保教会の使命とは、救い主イエス・キリストの十字架と復活を証しすることだと使徒行伝は教えてくれます。

 キリストの福音は、聖霊の力に押し出されてエルサレムからローマへ、そしてこの日本に伝えられました。使徒パウロがその後どうなったのか等、いろいろと知りたいと思うのですが、使徒行伝は突然31節で終わっています。それは、福音宣教に終わりがないからではないでしょうか。主の再臨まで、私たちには主イエス様の十字架と復活の福音を伝えてゆく使命があるからだと信じます。ご一緒に、神様の愛、イエス様の十字架と復活を聖霊の力を受けて証し続けてまいりましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。主の恵みに感謝しつつ。
 主に在りて 
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#90 使徒行伝28章16~28節

2010-03-17 13:54:02 | 聖書
みことば:「彼ら(ユダヤ人)は日を決めて、もっと大勢で彼(パウロ)の宿にやって来た。彼は朝から晩まで、説明を続け、神の王国のことを力強く証しして、モーセの律法や預言者の書から、イエスについて彼らを説得しようとした」28章23節 岩波訳

 ローマ行きを切望していた使徒パウロがローマに到着したことが16節に記されていますが、これまでのパウロの歩みは神様のご加護とお導きがあってのことです。すべて神様のご計画とご配慮があったことを覚えると同時に、私たち一人ひとりも神様の愛とご加護とご配慮の中に生かされていることを感謝したいと思います。

 ローマに着いたパウロは抑留されましたが、自分だけの家に住むことが許され、家に番兵が一人つく程度でした。皇帝の前で裁かれたということは記されていませんが、2年間、パウロは大胆に福音を伝え、ピレモンへの手紙やコロサイ人への手紙を書きました。

 ローマに到着するや否や、パウロはローマ在住の重立ったユダヤ人たちを自宅に招き、自分の無実とユダヤ人同胞に対する思いを語ります。ユダヤ人に対しても、先祖の慣習に対しても逆らう様な罪を犯さず、ただ単に「イスラエルの希望ゆえに、この鎖につながれている」と力説するのです。「イスラエルの希望」とは復活されたイエス様のことなのですが、ユダヤ人たちにはどうしてもパウロが伝えるイエスを救い主、メシアだと信じる事ができなかったのです。何故なら、十字架という呪いの木にかけられた人が自分たちのメシアだとは信じられなかったのです。ユダヤ社会の重立った指導者たちは、日を改めてパウロに会う事を約束して帰ります。

 数日後、約束どおり大勢のユダヤ人たちがパウロの所にやって来ます。パウロは朝から晩まで熱心にユダヤ人に対する神の救いについて説明します。パウロの宣教の内容は、神の国のことを証しすることとモーセ5書と預言書と詩篇とを用いてイエスがメシアであり、主だと伝えることでした。パウロの宣教の中心点は、神の国とイエスがメシアであるという2点でした。ユダヤ人たちはメシアの降臨と神の国(イスラエルの復興)を待ち望んでいますが、神の国はイエスによって成就したと聖書を用いて説明するのです。パウロが聖書のどの箇所を用いて話したかについてルカは記しませんが、「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」と言われたイエス様の言葉(ルカ24:27、44–47)を指し示したことでしょう。私たちクリスチャンと教会の使命は、神の国とイエス・キリストの福音を隣人に伝える事だと示されます。「神の国」と永遠の命の希望は、イエスをメシアと信じる者が信仰によって義とされ、イエスを通して永遠の祝福を受ける事ができます。

 パウロの宣教を聞いた人々の中に福音を受け入れる者もいましたが、拒絶する人が大半でした。ユダヤ人に対するパウロの宣教活動は、いつもこうでした。福音を受け入れるユダヤ人と拒絶するユダヤ人、どちらかと言えば拒絶する人の数のほうがいつも多かったのです。どうぞ使徒行伝13章14節以下を参照ください。パウロの宣教の最初から受け入れる人と拒絶する人がいたのです。

 私たちの場合も同じです。イエス様について証しをしても人は聞いてはくれるが、決して神様の愛を悟ってくれない。すべての創造物と出来事の内に神様のみ業に見えているはずなのに決して神の愛と御業だと認めてくれない。罪ゆえに人々の心は神様の愛に対して心が鈍くなっており、神様の愛の福音に対して耳は聞こえにくく、神様の愛の御業に対して目を閉じてしまっている。悔い改めることなく、心の傷がいやされることなく、罪も贖われない。パウロはイザヤ書6:9以降の御言葉を引用し、ユダヤ人たちの心の頑さを嘆きます。

 イエスの福音を受け入れないユダヤ人たちに対して「神の救いの言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞き従うであろう」とパウロは28節で言います。ユダヤ人たちが福音を頑なほどまでに拒絶したので、パウロはこのような決別の言葉を言ったのだと多くの神学者たちは理解しますが、そうではありません。ユダヤ人たちが神の祝福、キリストの福音から排除されるという意味ではなく、ユダヤ人だけでなく、異邦人たちも神の民として永遠の祝福、救いへと招かれているということです。使徒行伝には、すべての人に福音が伝えられ、イエス様による救いはすべての人に与えられていることが記されています。神様の愛とイエス様の救いを共に感謝し、臆することなく福音を伝えて行きましょう。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。

 主に在りて 

大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ #89 使徒行伝28章1~15節

2010-03-10 13:53:35 | 聖書
みことば:「こうして私たちは、ローマに到着した。兄弟たちが私たちのことを聞いて、ローマからアッピ・フォルムとトレス・タベルナの町々まで迎えに来てくれていた。パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。」28章14・15節 
岩波訳

 14日間に亘る船の遭難後、276名を乗せた船はマルタ島へ漂着し、船は大破しましたが、全員の命は御使いに告げられた通りに神様によって救われました。難船した人々をマルタ島の住民たちは暖かくもてなし、精神的・肉体的疲労をねぎらってくれ、また励ましてくれました。長時間苦しみと絶望の中にいた人々にとって、マルタ島の人々のもてなしは大きな慰めと励ましとなったのではないかと思います。私たち自身も、また大久保教会も重荷を背負って疲れている人々、困窮している人々、弱り果てている人々を暖かくもてなし、ねぎらい、励ます教会になりたいですね。

 冷たい海を泳いだためにずぶ濡れになって凍えている人々のために、島民はたき火を用意します。使徒パウロ自身も疲労が相当たまっていたはずですが、率先して焚火の火が弱まらないように薪を火の中に入れる作業を手伝います。いつでも「仕えよう」とするパウロの姿勢を通して、自分自身の姿勢を正すべき事が示されますが、ここでアクシデントが発生します。薪の中に冬眠中のまむしがいて、熱さで眠りから覚め、パウロの腕に噛み付きます。周囲の島民たちはこの出来事に対して「この人はきっと人殺しに違いない。海難からは逃れたが、正義の神が彼を生かしておかないのだ。この人がまむしに噛まれて命を失うのは天意だ」と勝手な断定を下します。しかし、パウロの様子に異変は起こりません。神様のご加護があるからです。パウロの体調に異変が起こらないのを見て、今度は「この人は神だ」と彼らは言い出します。人間の考えの身勝手さが良く出ています。私たちは、何か悪い事が自分や誰か他の人々に起こるとその原因などを勝手に結論づけてしまい、人々を容易く裁いてしまったりしますが、そのような軽率さは社会の中だけでなく、教会の交わりをも破壊しますから、信仰をもって祈りつつ、気をつけたいと思います。

 マルタ島に3ヶ月間滞在することになりますが、パウロたちに親切にしてくれた島の首長ポプリオの父親が赤痢を患い、パウロが手を置いて癒します。その癒しの業が島中に伝わり、パウロたちのもとへ大勢の病人が押し寄せてきますが、みなを癒してあげます。もちろん、パウロの同伴者・医者のルカも活躍したことでしょう。パウロたちは島民の信頼を得、尊敬され、マルタ島を出帆する時には旅に必要なものを与えてくれました。主と隣人にいつでも忠実、誠実な人たちの必要を神様は人々を通して満たされることをここから教えられます。

 パウロたちはマルタを出航し、ローマを目指してシラクサ港町、レギオン港町、ポテオリ港町へと進みます。シラクサでは三日間停泊します。マルタから船を運んだ南風が吹き止んだからと言われています。シラクサから次のレギオンへは北西の風に乗って進み、レギオンでは海峡を通過するために都合の良い風が吹くのを一日待ち、南風に乗ってポテオリにスムーズに着きます。ここで注目したいのは、船という乗り物は「風の力」に頼るしかないことです。どんなに前進したくても、風が背後から吹いて船を押し、力をくれないと前進はできません。同じように私たちの信仰、そして大久保教会にも神様の力、聖霊の力が前進するためには必要なのです。人力ではダメなのです。

神様の力、聖霊の風が私たちの信仰の前進には必要です。

 ポテオリ港町でパウロたちは1週間滞在することになりました。百卒長ユリアスの公務のためであったようですが、パウロたちはポテオリのクリスチャンたちと時を過ごす恵みが与えられました。これも神様の備えとお取り計らいでありましょう。

 さて、いよいよローマが近づきました。ここに至までパウロには大きな期待の他に一抹の不安があったのではないかと思います。ローマ教会に宛てた手紙から3年の月日が経ち、その中で福音を説き明かし、時には厳しい言葉をもって訓戒してきた自分をどのように受け入れてくれるのかと。しかし、パウロたちがローマに近づいているという知らせは、いち早くローマのクリスチャンたちに届いたようです。彼らは一刻でも早く使徒パウロに会いたかったのでしょう、ある人たちは待ちきれずにローマから徒歩で50キロも南下してパウロたちを出迎え、ある人たちはさらに20キロ南下して出迎えたと15節にあります。初対面であるのに、そのように出迎えてくれた兄弟姉妹たちに会って、パウロの不安はすべて取り去られ、主にある出会いを喜び、神様に感謝し、元気を出したことでありましょう。私たちも主イエス様を中心とした交わりを深めてゆきましょう。
主の備えに感謝します。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて 
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ #88 使徒行伝27章33~44節を

2010-03-03 13:48:51 | 聖書
 みことば:「私は、(あなたがたに)食事をとるように勧めます。
それは、あなたたちを救うために役立つのですから。
あなたたちの頭の毛一本ですら失われることはありません。」27章34節 岩波訳

 使徒パウロたちを乗せた船は遭難してから2週間が経過し、人々は精神的に最も苦しい状況に置かれていました。果てしない苦境の中で食欲を失い、体力的にも弱って来た人々にパウロは食事を取って体力をつける事を勧めます。「食事を取ることがあなたがたを救う事になるのだから」とこの部分を直訳すると、「あなたの救いのために食事は必要です」となります。ここにある「救い」という言葉は神様の救いを象徴する言葉です。遭難によって危険にさらされている乗員・乗客を救われる神は、主イエス・キリストによる究極的な救いと永遠の命をお与えくださる同じ神であられることを私たちに思い起こさせるのです。人生の荒波に長時間もまれ、人生の暗闇の中で途方にくれる時、私たちも喜び、感謝、平安、希望を失い、祈ろうという気持も湧かなくなります。次第に信仰の体力が弱くなり、霊的にも飢え渇きを覚えます。信仰の糧を得ようという食欲が湧かなくなることもあります。しかし、神様は使徒パウロを通してそのような私たちに「聖書の御言葉を食しなさい」と励ましを与えてくれます。この励ましの言葉に生きる希望を見出し、力づけられた人々は皆で食事を取ったとあります。パウロの「神は必ず私たちを救って下さる」という揺るがない信仰とその神への信頼からくる自信と言動の模範が人々を励まします。パウロの信仰が275名の勇気の源となったのです。私たちの信仰と主と共に歩む歩みが隣人の祝福と希望をもって生きる力、励ましになったら何という幸いでしょうか。私たちが隣人を励ますためには、まず私たち一人ひとりが最初に御言葉の食事を日々取る必要がある事をこの箇所から示されます。

 夜が明けます。人々はどんなにかこの夜明けを待ちわびていた事でしょう。空が明るくなって数週間ぶりに陸地が目の前に見えました。どこの土地か判らなくても彼らには陸地が大きな喜び、希望に見えたでしょう。入り江に向かって船を進めるのですが、船は浅瀬に乗り上げてしまいます。水夫達が逃げ出そうとした時に小舟をすべて切り離してしまいましたから、陸に上陸するためには泳いで渡るしか方法はありません。しかし、そうなると囚人達が逃走するのではと危惧したローマ兵たちは、脱走すると自分たちが同じ刑に服しなければならいことを重々承知していましたから、囚人達を殺してしまおうとします。しかし、百卒長ユリアスはパウロを救いたいと思っていましたから、ローマ兵たちの意図を退け、泳げる者達には泳がせ、泳げない者たちには浮きになるもので入り江に向かわせます。こうして、276名の者がすべて上陸して救われたと記されています。ここでも、神様は異邦人ユリアスを用いてパウロの命を守られるのです。今までにも使徒パウロの命は幾度となく異邦人たちの働きによって守られてきましたが、すべては神様のお取り計らいであったのです。すべては神様の摂理の中にあったことなのです。私たちの人生も神様のお取り計らいの中にあります。神様の摂理の中に私たちは生かされています。そして主の伴いとお守りとお導きによって前進できています。そのことを神様に感謝致しましょう。時に私たちの信仰は試されます。私たち一人ひとりが主に信頼しているかが苦難を通して試されます。たとえ今苦難の中にあっても、主のご計画と御旨があるのですから、主イエス様に信頼し、主にすべてを委ねましょう。

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである。」ローマ8:35、37–39

 3週に渡って遭難の箇所を学びました。過去2回の学びの復習になりますが、使徒パウロがその船に乗っていたので275名の人々は救われたのです。パウロにはローマでの宣教の使命があり、また主がパウロと共におられたのですべての乗員・乗客は救われます。使徒パウロは、主が与えられた使命に忠実に生きようとしたからすべての苦しみから守られました。私たちも主がそれぞれに与えてくださっている使命に生きましょう。その時に、家族や友人、隣人が救われるのですから。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎