みことば:「彼ら(ユダヤ人)は日を決めて、もっと大勢で彼(パウロ)の宿にやって来た。彼は朝から晩まで、説明を続け、神の王国のことを力強く証しして、モーセの律法や預言者の書から、イエスについて彼らを説得しようとした」28章23節 岩波訳
ローマ行きを切望していた使徒パウロがローマに到着したことが16節に記されていますが、これまでのパウロの歩みは神様のご加護とお導きがあってのことです。すべて神様のご計画とご配慮があったことを覚えると同時に、私たち一人ひとりも神様の愛とご加護とご配慮の中に生かされていることを感謝したいと思います。
ローマに着いたパウロは抑留されましたが、自分だけの家に住むことが許され、家に番兵が一人つく程度でした。皇帝の前で裁かれたということは記されていませんが、2年間、パウロは大胆に福音を伝え、ピレモンへの手紙やコロサイ人への手紙を書きました。
ローマに到着するや否や、パウロはローマ在住の重立ったユダヤ人たちを自宅に招き、自分の無実とユダヤ人同胞に対する思いを語ります。ユダヤ人に対しても、先祖の慣習に対しても逆らう様な罪を犯さず、ただ単に「イスラエルの希望ゆえに、この鎖につながれている」と力説するのです。「イスラエルの希望」とは復活されたイエス様のことなのですが、ユダヤ人たちにはどうしてもパウロが伝えるイエスを救い主、メシアだと信じる事ができなかったのです。何故なら、十字架という呪いの木にかけられた人が自分たちのメシアだとは信じられなかったのです。ユダヤ社会の重立った指導者たちは、日を改めてパウロに会う事を約束して帰ります。
数日後、約束どおり大勢のユダヤ人たちがパウロの所にやって来ます。パウロは朝から晩まで熱心にユダヤ人に対する神の救いについて説明します。パウロの宣教の内容は、神の国のことを証しすることとモーセ5書と預言書と詩篇とを用いてイエスがメシアであり、主だと伝えることでした。パウロの宣教の中心点は、神の国とイエスがメシアであるという2点でした。ユダヤ人たちはメシアの降臨と神の国(イスラエルの復興)を待ち望んでいますが、神の国はイエスによって成就したと聖書を用いて説明するのです。パウロが聖書のどの箇所を用いて話したかについてルカは記しませんが、「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」と言われたイエス様の言葉(ルカ24:27、44–47)を指し示したことでしょう。私たちクリスチャンと教会の使命は、神の国とイエス・キリストの福音を隣人に伝える事だと示されます。「神の国」と永遠の命の希望は、イエスをメシアと信じる者が信仰によって義とされ、イエスを通して永遠の祝福を受ける事ができます。
パウロの宣教を聞いた人々の中に福音を受け入れる者もいましたが、拒絶する人が大半でした。ユダヤ人に対するパウロの宣教活動は、いつもこうでした。福音を受け入れるユダヤ人と拒絶するユダヤ人、どちらかと言えば拒絶する人の数のほうがいつも多かったのです。どうぞ使徒行伝13章14節以下を参照ください。パウロの宣教の最初から受け入れる人と拒絶する人がいたのです。
私たちの場合も同じです。イエス様について証しをしても人は聞いてはくれるが、決して神様の愛を悟ってくれない。すべての創造物と出来事の内に神様のみ業に見えているはずなのに決して神の愛と御業だと認めてくれない。罪ゆえに人々の心は神様の愛に対して心が鈍くなっており、神様の愛の福音に対して耳は聞こえにくく、神様の愛の御業に対して目を閉じてしまっている。悔い改めることなく、心の傷がいやされることなく、罪も贖われない。パウロはイザヤ書6:9以降の御言葉を引用し、ユダヤ人たちの心の頑さを嘆きます。
イエスの福音を受け入れないユダヤ人たちに対して「神の救いの言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞き従うであろう」とパウロは28節で言います。ユダヤ人たちが福音を頑なほどまでに拒絶したので、パウロはこのような決別の言葉を言ったのだと多くの神学者たちは理解しますが、そうではありません。ユダヤ人たちが神の祝福、キリストの福音から排除されるという意味ではなく、ユダヤ人だけでなく、異邦人たちも神の民として永遠の祝福、救いへと招かれているということです。使徒行伝には、すべての人に福音が伝えられ、イエス様による救いはすべての人に与えられていることが記されています。神様の愛とイエス様の救いを共に感謝し、臆することなく福音を伝えて行きましょう。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎
ローマ行きを切望していた使徒パウロがローマに到着したことが16節に記されていますが、これまでのパウロの歩みは神様のご加護とお導きがあってのことです。すべて神様のご計画とご配慮があったことを覚えると同時に、私たち一人ひとりも神様の愛とご加護とご配慮の中に生かされていることを感謝したいと思います。
ローマに着いたパウロは抑留されましたが、自分だけの家に住むことが許され、家に番兵が一人つく程度でした。皇帝の前で裁かれたということは記されていませんが、2年間、パウロは大胆に福音を伝え、ピレモンへの手紙やコロサイ人への手紙を書きました。
ローマに到着するや否や、パウロはローマ在住の重立ったユダヤ人たちを自宅に招き、自分の無実とユダヤ人同胞に対する思いを語ります。ユダヤ人に対しても、先祖の慣習に対しても逆らう様な罪を犯さず、ただ単に「イスラエルの希望ゆえに、この鎖につながれている」と力説するのです。「イスラエルの希望」とは復活されたイエス様のことなのですが、ユダヤ人たちにはどうしてもパウロが伝えるイエスを救い主、メシアだと信じる事ができなかったのです。何故なら、十字架という呪いの木にかけられた人が自分たちのメシアだとは信じられなかったのです。ユダヤ社会の重立った指導者たちは、日を改めてパウロに会う事を約束して帰ります。
数日後、約束どおり大勢のユダヤ人たちがパウロの所にやって来ます。パウロは朝から晩まで熱心にユダヤ人に対する神の救いについて説明します。パウロの宣教の内容は、神の国のことを証しすることとモーセ5書と預言書と詩篇とを用いてイエスがメシアであり、主だと伝えることでした。パウロの宣教の中心点は、神の国とイエスがメシアであるという2点でした。ユダヤ人たちはメシアの降臨と神の国(イスラエルの復興)を待ち望んでいますが、神の国はイエスによって成就したと聖書を用いて説明するのです。パウロが聖書のどの箇所を用いて話したかについてルカは記しませんが、「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる」と言われたイエス様の言葉(ルカ24:27、44–47)を指し示したことでしょう。私たちクリスチャンと教会の使命は、神の国とイエス・キリストの福音を隣人に伝える事だと示されます。「神の国」と永遠の命の希望は、イエスをメシアと信じる者が信仰によって義とされ、イエスを通して永遠の祝福を受ける事ができます。
パウロの宣教を聞いた人々の中に福音を受け入れる者もいましたが、拒絶する人が大半でした。ユダヤ人に対するパウロの宣教活動は、いつもこうでした。福音を受け入れるユダヤ人と拒絶するユダヤ人、どちらかと言えば拒絶する人の数のほうがいつも多かったのです。どうぞ使徒行伝13章14節以下を参照ください。パウロの宣教の最初から受け入れる人と拒絶する人がいたのです。
私たちの場合も同じです。イエス様について証しをしても人は聞いてはくれるが、決して神様の愛を悟ってくれない。すべての創造物と出来事の内に神様のみ業に見えているはずなのに決して神の愛と御業だと認めてくれない。罪ゆえに人々の心は神様の愛に対して心が鈍くなっており、神様の愛の福音に対して耳は聞こえにくく、神様の愛の御業に対して目を閉じてしまっている。悔い改めることなく、心の傷がいやされることなく、罪も贖われない。パウロはイザヤ書6:9以降の御言葉を引用し、ユダヤ人たちの心の頑さを嘆きます。
イエスの福音を受け入れないユダヤ人たちに対して「神の救いの言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞き従うであろう」とパウロは28節で言います。ユダヤ人たちが福音を頑なほどまでに拒絶したので、パウロはこのような決別の言葉を言ったのだと多くの神学者たちは理解しますが、そうではありません。ユダヤ人たちが神の祝福、キリストの福音から排除されるという意味ではなく、ユダヤ人だけでなく、異邦人たちも神の民として永遠の祝福、救いへと招かれているということです。使徒行伝には、すべての人に福音が伝えられ、イエス様による救いはすべての人に与えられていることが記されています。神様の愛とイエス様の救いを共に感謝し、臆することなく福音を伝えて行きましょう。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎