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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

テサロニケ人への第二の手紙1章1節~4節

2011-01-26 22:06:12 | 聖書
> 大久保教会の兄弟姉妹へ 2011年1月26日
>  寒い冬空の下にあっても、主の恵みと平安によって心暖めら
> れる様に祈ります。

>  今夜からテサロニケ人への第二の手紙を学び始めます。今回
> は1章1節~4節を学びます。この手紙は、使徒パウロとシル
> ワノとテモテによって記されたことが1節から判りますが、手
> 紙の大部分はパウロが述べたことをシルワノとテモテが代筆し
> たようです。教会にもこの「代行」という働きがあると思いま
> す。先日の牧野牧師の宣教を通して「派遣」ということを聴き
> ましたが、私たちは主イエス様の「代行」として社会の中に「
> 派遣」されています。「私が主の代行者なんてとんでもない」
> と思う方も多いと思いますが、実際に私たちは主の代行者なの
> です。私たちはクリスチャンとしては小さな器ですが、その私
> たちと共に働かれる主イエス様が力強いので大丈夫なのです。
> 主が私たちの心と身体を福音を伝えるために用いられます。私
> たちが証しする時は「聖霊が語るべきことをすべて教える」と
> イエス様はおっしゃいました。ですから大丈夫なのです。「主
> が私をお用いくださる」ということはとても感動的なことで、
> 感謝なことです。パウロはシルワノとテモテと共に手紙を記す
> 中で「私は」とは云わずに「私たちは」と云いました。同様に
> 、主イエス様はいつも私たち一人ひとりと共に働いてくださり
> 、一人ひとりを主のチームに加えて「私たち」と云ってくださ
> います。私たち教会員は、教会というキリストのからだに属し
> 、主イエス様のチームの一員なのです。主から与えられた賜物
> を持ち寄り、それぞれが教会の中で委ねられている働きに献身
> する時に、教会は主の御心にかなった教会へと形づくられてゆ
> くと信じます。
>  2節に「父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安と
> が、あなたがたにあるように」と挨拶の言葉が他のパウロ書簡
> と同じように記されていますが、もう一度、私たち教会に与え
> られる恵みと平安の源は、神様であり、主イエス様であること
> を確認し、心から感謝したいと思います。この恵みと平安は、
> 他でもない神様とイエス様からでないと受けられない祝福です
> 。神を「父なる」とあるのは、神様の権威と優しさ・善意を表
> す言葉です。私たちの「父」は神様であり、私たちは主イエス
> 様にあって「神の子」です。主にあって教会は一つの家族です
> から、家族愛の中で互いに愛し合い、互いに心配ってゆくこと
> が求められています。
>  教会にとって、イエス様は「キリスト(救いをもたらすメシ
> ア)」であり、「主」です。神様によって「油注がれた救い主
> 」です。その真実を告白し続けることが教会の使命であり、私
> たち主の代行者・クリスチャンの働きです。
>  私たち任務は、たとえどんなことが私たちの身の上に起こっ
> たとしても、主イエス・キリストに従順に聞き従ってゆくこと
> です。たとえ教会が迫害と患難の中に置かれてもイエス・キリ
> ストへの信頼を揺るがさないようにとの励ましが5節から記さ
> れています。
>  パウロは「わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感
> 謝せずにはおられない。またそうするのが当然である」と3節
> で云い、神に「感謝しない」選択肢は自分たちにはないと云わ
> んばかりです。感謝することは、クリスチャンの義務でも、オ
> プションでもありません。すべては神様の御心を通って私たち
> に与えられていますから、すべてを感謝せずにはいられないと
> 云うのです。感謝できないことを感謝しなさいと云っているの
> ではありません。感謝できない事柄にも神様のご計画があり、
> 感謝できない私たちの心に主が伴ってくださるから感謝するの
> です。主イエス様が、ご聖霊が共にいて下さるからです。
>  使徒パウロが感謝したこととは、テサロニケ教会の兄弟姉妹
> の信仰が有りとあらゆる迫害と患難の中にありながらでも、大
> いに成長し、兄弟姉妹たちの愛が教会の中でお互いに増し加わ
> っていたからです。
>  テサロニケの教会は、迫害や苦難の中を共に歩む中で大いに
> 成長し、互いへの愛が増し加わっていきました。同様に、私た
> ちの信仰が成長し、お互いへの愛が増し加わるために苦しい時
> を歩むことがあります。大久保教会にとって今がそのような時
> なのかもしれません。今が忍耐の時、主を信じる信仰が試され
> ている時、新しい芽を出す前の時なのかもしれません。ですか
> ら、たとえ苦しくても、私たちが信仰をもって共に御言に聴き
> 、共に祈ってゆき、共に主と教会に仕えてゆく時期を主は豊か
> に用いてくださり、その時期を教会の成長へとつなげてくださ
> います。そして「あなたがたを誇りにしている」とパウロがテ
> サロニケ教会に云って励ますように、神様が私たちの教会を喜
> び、「新宿の地にあなたがたを建てて本当に良かった」と云っ
> てくださる時が必ず来るでしょう。主に信頼しつつ歩んでまい
> りましょう。
>  週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致し
> ます。
>  主に在りて
>  大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙 5章23節~28節

2011-01-19 18:47:31 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2011年1月19日
 寒い日々が続きますね。お変わりないでしょうか。
 主の伴いと恵みがあなたの上に豊かにあるよう祈ります。

*23日は派遣式を執り行います。
 来週25日から2年間、タンザニアへ派遣される倉辻忠俊兄のために

 今夜は、テサロニケ人への第一の手紙の最後の部分5章23節~28節を学びます。使徒パウロは、「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」と4章3節で云って、テサロニケの兄弟姉妹たちだけでなく、今の時代にキリスト者として召されている私たちが主の御前に清く生きてゆくことが求められていることを学びました。どのように歩んでゆけば私たちは神様に喜ばれる清い者として生きてゆけるかというアイデアをパウロは色々と手紙の中で示してくれました。しかし、いくら頭で理解していても、実行に移せないのが私たちです。どうしても肉体的・精神的弱さがあり、またたくさんの誘惑が私たちの周りにはあります。どうしてもこの世と妥協してしまう、せざるを得ないことがあります。私たちはそういう中で「自分にはそこまでできない」、「自分にはとうてい無理」と思い込み、自分の不甲斐なさを責めて教会から少し身を引いたり、少し距離を置くようになります。

 しかし使徒パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちへの励ましの手紙を閉じるにあたり、キリストを主と信じるクリスチャンたちに大切なことを思い起こさせようとします。つまり私たちは「人間の努力や信仰だけでは神に喜ばれる者にはなれず、神様の御力が必要であり、神様が私たちを清くしてくださる」ということです。

 パウロは、「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く清めて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にしてくださるように」と23節で神様に祈ります。ここに大切なことが二つ示されています。一つは「わたしたちを全く清めてくださるのは平和の神である」ということです。「全く」というのは「完全に、永遠に」という意味で「私たちを完全に清くし、永遠に清くして下さるのは平和の神である」ということです。「平和の神」の「平和」とは「神と一致、協和する」という意味です。ですから、私たちを清くしてくださり、神様と私たちを一致させ、協和させて下さるのは神様ご自身であられるということです。

 私たちが清くなる事が神の御心であり、私たちが清くなるために御子さえも惜しまずに与えて下さった神様の愛と思いに対して、私たちも神様に対する愛と信仰の決意をもって誠実に応えてゆかなければなりません。神様が私たちを清めてくださると決心し、主イエス様によって実行に移して下さるのですから、私たちも主イエス様とご聖霊によって清められ、新しくされてゆくことに全幅の信頼をもって喜んで委ねてゆく決心が必要です。素晴らしい祝福が約束され、準備されているのですから、今のままの私でも神様は受け入れてくれるだろうという甘い考えを持つ事、今の信仰姿勢と応答で充分だと思い込んだり、自己満足に陥ってはいけないのです。

 もう一つ示されていることは「神様ご自身がわたしたちの霊と心とからだを完全に守ってくださり、責められることのない者にしてくださる」ということです。「わたしたちの霊と心とからだ」とは、神様がわたしたちを全人的に、教会を全体的に捉えておられるということです。私たちは神様に愛され、守られて生かされています。私たちのうちに神の愛の霊、聖霊が与えられ、それによって守られています。自分の力だけでは神様の御前に責められることのない者にはなれません。ですから、主イエス様の十字架とその血潮によって清められ、イエス様の贖いの十字架と復活を信じる信仰によって清められ、義とされるというキリストの福音が私たちすべての人に与えられたのです。イエス・キリストを救い主と信じる者は、神様によって清められ、守られます。主にある者の将来、未来は祝福が約束されています。

 24節に「あなたがたを召された方(神様)は真実なお方であるから、このことをしてくださる」と保証の言葉がつづられています。神様は真実であり、私たちに対していつも誠実です。神様は永遠に不変な愛の神です。私たちはこの真実なる神様の御前に喜ばれる存在として主イエス様に似る者へと変えられてゆく必要があります。神様に祈り求めれば神様は真実なるお方ですから必ず私たちを変えてくださいます。問題は、私たちが「主によって変えられたい。変わりたい」と切に主の愛を求めるか否かです。求める者に神様は必ず応えてくださいます。

 パウロは「わたしたちのために祈ってほしい」と祈りの要請を25節でします。兄弟姉妹に祈ってもらうことの重要性を示します。互いのために祈り合うことが互いに愛し合うことであり、祈りによって一つとさせられることが示されます。「おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」というように、「おのおの自分のことばかりを祈るのではなく、兄弟姉妹や隣人のために祈る」ことによって私たちは神様に喜ばれる者へと変えられてゆくのではないでしょうか。

 26節の「きよい接吻」は主にある(主を中心とした)親しい交わりを指しています。教会の一致は、イエス・キリストを通して神の愛を受けた者たちが互いに愛し合い、受け入れ合い、祈り合い、仕え合うことによってその中に神様の愛が働き、生み出されてゆきます。

 27節に「この手紙を、みんなの兄弟姉妹に読み聞かせなさい」と命じられています。自分だけ聖書の御言に聴くだけでは教会は形づくられません。兄弟姉妹と共に聖書を読み、御言に聴き、御言に従ってゆく中で教会は形づくられます。

 共に集って主に礼拝をささげ、共に聖書を読み、共に祈り、共に主と教会と隣人に仕えてゆく時に、神様の愛の大いなる力が働き、主イエス様のからだなる教会は建て上げられます。主を見上げて御言に聞き従ってゆきましょう。

 「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」28節

 主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節

2011-01-16 22:57:20 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2011年1月5日
新年明けましておめでとうございます。新しい年、主の恵み
と平安が皆さんの上に豊かにあるように祈ります。

*今月25日から2年間、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)
からタンザニアへ派遣される倉辻忠俊兄のために。23日の礼
拝において派遣祝福式を行います。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節を
学びます。
使徒パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちへの手紙を結ぶに
あたり、5章12節から22節の部分で、兄弟姉妹たちに教会
内の交わりに関して4つの勧めをします。そしてその中心・目
的は、13節の「互いに平和に過ごしなさい」という言葉に集
約しています。
パウロの第一の勧めは「教会のリーダーと信徒間の交わり」
に関する勧め(12、13節)、第二は「教会内の弱い者と強い者
間の交わり」に関する勧め(14、15節)です。先の二つの勧め
は教会内の兄弟姉妹への心の姿勢についてですが、三つ目の勧
めは各信徒のキリストに従う者としての神への信仰の姿勢につ
いての勧めです。
教会のリーダーへの不満、信仰的、身体的、精神的、あるい
は経済的に苦しむ者を含む弱い者たちへの寛容(忍耐)の無さ、
また悪を行う者への怒りが教会の交わりを傷つけたり、弱めた
りしてはならないとの勧めです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に
ついて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神が
あなたがたに求めておられることである」という御言を、大久
保教会として新年最初の祈祷会で聴く事ができる事は神様のお
取り計らいであると信じ感謝します。
これは各クリスチャンへの個人的な勧めでも、「義務」の押
しつけでもありません。主のからだなる教会に対する勧めです
。つまり、「主の教会・大久保教会として、いつも共に喜び、
絶えず共に祈り、すべてのことについて共に感謝しなさい」と
の勧めです。
教会の中には、楽観的な人もいれば、楽観的になれない人も
います。夢を語れる人もいれば、目の前の事柄を冷静分析でき
る人もいます。非現実的な人もいれば、現実的な人がいます。
どちらも大切な存在です。
「いつも喜んでいなさい」と勧められても「自分には無理」
という方もおられるでしょう。確かに一人だといつも喜んでい
られません。苦しい事、辛い事、逃げ出したくなる事が常に起
こります。ですから、その苦しみや痛みの中にある兄弟姉妹た
ちをそうでない兄弟姉妹たちが寄り添い、支え、励ます、そう
いう神の家族が私たちには互いに必要なのです。
「絶えず祈りなさい」と勧められても「祈れる時もあれば、
祈れない時もある」という意見の方もおられるでしょう。確か
に一人だと思い悩んだり、不満や怒りに満たされたり、信仰の
スランプに陥って祈れなくなる時があります。ですから、その
ような状態の中に立たされる兄弟姉妹たちに寄り添い、いっし
ょに主に祈る兄弟姉妹が必要なのです。
「すべてに感謝しなさい」と勧められても「そんなこと不可
能」と思うのが私たちではないでしょうか。確かに一人だと全
てのことに感謝できなくなる時があります。暗闇に鎖されてす
べてがマイナスに見えたり、そういう中で不安を覚えます。周
囲と自分を見比べて自己嫌悪に陥ったり、不満を覚える時もあ
ります。ですから、そのような思いにある兄弟姉妹たちに寄り
添い、主イエスという世の光の中に照らされて共に生きてゆく
兄弟姉妹が必要です。
つまり、教会にはいつもどちらの人が共存していて良いので
すし、それが神様の御心であると強く感じます。教会では、す
べての兄弟姉妹がリーダーになる必要はなく、それぞれが神様
から頂いている数々の賜物を持ち寄って互いに仕え合えれば良
いのです。すべての兄弟姉妹が強くなくて良いのです。すべて
の兄弟姉妹が楽観的でなくて良いのです。弱い人や現実的な人
が教会の一員として共にいる、共に主に仕えることが自然の姿
であり、それがバランスのとれた教会なのだと思います。その
ような教会が、神様の御心にかなった真のキリストのからだな
る教会のあり方なのだと示されます。
私には、皆さんが教会の兄弟姉妹として必要です。また同時
に、皆さんに必要とされ、皆さんに仕える者と私はされてゆき
たいと主に願いつつ、祈りつつ歩む者です。不束な牧師ですが
、今年もこの者のためにお祈りください。どうぞよろしくお願
い致します。皆さんの信仰が祝福されますようにお祈りしてい
ます。
いつも共に主に愛されていることを喜び、心を合わせて絶え
ず全能なる主に祈り、すべてのことを共に主に感謝しつつ、新
しい年も共に歩んでまいりましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙5章19節~22節

2011-01-16 22:55:10 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2011年1月12日
寒い日々が続きますが、主の恵みと平安が皆さんの上に豊か
にあるよう祈ります。
*今月25日から2年間、タンザニアへ派遣される倉辻忠俊兄の
ために。23日の礼拝において派遣祝福式を行います。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙5章19節~22節を
学びます。
使徒パウロは、教会内の交わりが健全なものとなるために「
互いに平和に過ごしなさい」と勧め、第一に「教会の指導者と
信徒の交わり」(12、13節)に関し、第二に「教会内の弱い者
と強い者の交わり」(14、15節)に関して勧めます。先の二つ
の勧めは教会内の兄弟姉妹への心の姿勢についてですが、三つ
目の勧めはキリスト者としての神への信仰姿勢についてです。
いつも共に喜び、絶えず共に祈り、すべてについて共に感謝す
る。それは教会がキリストのからだとして成長し、またクリス
チャンとして互いが成長・成熟することにつながります。
パウロは、今回の箇所で四つ目の勧め、教会の体質について
記します。それぞれの教会にも体質があると思いますが、大久
保教会の体質はどういう体質でしょうか。パウロはまず教会に
対して「御霊を消してはいけない」、また「預言を軽んじては
ならない」と19節と20節で云います。教会が聖霊の力と導
きに消極的にならないように、また預言者や牧師、伝道者を通
して語られる神の御言を、人ばかりを見て軽んじないようにと
命じます。
神様がご計画と目的をもって教会を力強く導き、教会の使命
と働きを明確にしようとしておられるのに、私たちが自分の思
いや都合を優先させてしまう中で神様の御旨に消極的な体質、
あるいは不従順になってはいけないと云うのです。いつでも信
仰をもって主に従って行きなさい、私たちの心に内住してくだ
さる御霊を不信仰さや臆病な思いで消してはならないと云うの
です。
神様の御旨を知るために聖書が私たちに与えられています。
そして聖書の神と主イエスの言葉を聴いて、信仰をもって従っ
てゆくことが求められていますが、テサロニケの手紙が記され
た時代は現代のように聖書はありません。パウロのような使徒
、伝道者、宣教者、牧会者、預言者が語る言葉に聴いてゆく以
外に方法はありませんでした。しかし、神に不従順な偽伝道者
や牧会者や預言者がその中にも身を潜めていましたから、誰の
語っていることを信じて聴いて従ってゆくべきか、多くの兄弟
姉妹は困惑しました。「語っている事と実際の行為が相反する
偽預言者」や「使徒たちの教えと全く違う教えを語る偽牧会者
」もいました。そしてその人の行為だけを見ていれば、その人
を軽蔑し、その人の口から語られる「御言・福音宣教」を聴く
事は馬鹿げているように思えてきます。しかし、パウロは「御
言を語る者」ではなく、語られる「御言」を神の言葉として大
切に聴きなさいと勧め、命じるのです。牧師・聖職者の人間性
とそのあり方も確かに問われなければなりませんが、宣教・御
言を聴く時に語る者の人間性だけを見ていては、御言・預言を
神の言葉として聴けなくなり、それを軽んじる事になります。
語る者がどんなに小さく貧しい器であっても、その人を通して
語られる神の御言を軽んじては決してならないとの勧めです。
口語訳聖書にはないのですが、本来、ギリシャ語の原文には
20節と21節をつなげる「しかし」という言葉があります。
聖霊の力とお導きに消極的にならない。また宣教者・預言者の
人間性だけを見て、語られる御言を軽視してはならい。「しか
し」次の3つのことをしなさいと次の21節と22節で勧めら
れています。
それは「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆ
る種類の悪から遠ざかりなさい」との勧めです。まず「すべて
を識別せよ」と命じられています。私たちの偏見や思い込み(
持論)、過去の経験に縛られることなく、また他人の意見に惑
わされることなく、信仰をもって主の御言と導きを祈り、何が
神の御心であって、何がそうでないかを教会として見極めなさ
いと云うのです。声の大きな人に聞いたり、過去や現状に囚わ
れたり、人に云われた事をそのまま鵜呑みにするのではなく、
まず神に祈り、言葉を聴き、御言に堅く立ち、すべてに細心の
注意をはらい、心を配って選びとってゆきなさいとの勧めです

私たちの周りには「良いもの」と「悪いもの」があります。
良いもの、悪いものとは何でしょう。悪いものとは人間の思い
が優先されたものであり、良いものとは神様の御旨にかなった
ものではないでしょうか。神様の御旨を大切にし、御言に聴従
し、主の命令を守りなさいと云われているのではないでしょう
か。
もし私たちが「悪」の近くに生活したり、それに囚われてい
る状態ならばそれから遠ざかりなさいと命じられています。「
悪」とは、神様を神としない、愛の神から離れている状態では
ないでしょうか。悪から遠ざかるとは、神に近づくことです。
大久保教会は、音楽主事と副牧師の招聘について御声に聞き
、主のご意志に従わなければなりません。教会の中には様々な
意見、人の思いが混在しています。そういう中で一緒に祈って
神様の声に聴きたいと願っています。小さな大久保教会には3
人も牧師はいらない、音楽主事もいらないと感じる方も多くお
られると思います。確かに教会内だけを見るならば牧師は一人
で充分でしょう。しかし大久保教会の一歩外はどうでしょうか
。たくさんの人たちが神様とその愛を知らずに自力で何とか生
きようと日夜奮闘し、また苦闘しています。神様の愛と赦しを
、イエス様の救いと平安と希望を必要としている人は何万人と
いるのです。私たちの目を教会内にではなく、外側に向けまし
ょう。何が神の御心なのか一緒に祈り求め、御言に聴き、従い
ましょう。
最後に私がいま聴いている言葉を紹介します。「イエスは、
すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を
宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになっ
た。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れてい
るのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子
たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、
収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すように
してもらいなさい」。マタイ9章35節以降
大久保教会のためにお祈り下さい。どうぞ献身して教会の働
きに参加してください。十一献金、献げものをもって教会の働
きをお支えください。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致し
ます。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙5章12節~13節

2011-01-16 22:52:39 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年12月22日
クリスマスの時、主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにある
ようにお祈りします。さる19日は素晴らしい恵みを礼拝と祝
会の中で受け、感謝しました。お祈りとご奉仕に感謝申し上げ
ます。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙5章12節~13節を
学びます。使徒パウロは、5章12節から22節で、テサロニ
ケの兄弟姉妹たちに教会内の交わりに関して4つの勧めをして
います。これらの勧めは、テサロニケの諸集会・教会において
すでに表面化していたクリスチャン同士の対立や衝突に対して
ではなく、兄弟姉妹の交わりの中で起こりうる潜在的な課題を
幾つか取り上げたものと云えます。
教会は主イエス・キリストのからだですが、その教会を構成
する兄弟姉妹たちは、それぞれバラエティーに富んだパーソナ
リティー/個性・性格、また特有な生い立ち・経歴を持ってい
ますから、教会の業の小さな事にはお互いに寛大になり、そし
て礼拝、伝道、霊的成長、奉仕、交わりいう大きな使命には信
仰をもって一致して行かなければ、キリストのからだなる教会
を形づくってゆくことはできません。また、教会の業の大小に
関らず、主イエス・キリストを中心とし、主の御言を第一にし
てゆかなければ、教会はただの人の集まり、「自分たちだけ楽
しければそれでよし」という大学のサークルのような状態とな
ってしまいます。
まず今回は12節から13節を学びたいと思いますが、ここ
には教会のリーダーと信徒の間における交わりの勧めがなされ
ています。「どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあな
たがたを指導し、かつ訓戒している人びとを重んじ、彼らの働
きを思って、特に愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい
」とあります。
現代では、牧師がその位置に置かれると思いますが、牧師と
信徒の信頼関係が強く、神様から委ねられている教会の使命を
よく認識し、また教会の目的が一致している教会は平和であり
、平和な教会は豊かに実を結ぶということでしょう。牧師主導
の教会とか、信徒主導の教会ということをよく耳にしますが、
教会に連なるすべての兄弟姉妹が教会の果すべき使命を熟知し
、主のために成し遂げようと目指す事柄が一致して歩む教会が
平和で健康な目的主導の教会と云えると思います。
牧師のなすべき働きは、信徒のために常に1)労し、2)指
導し、3)訓戒することと記されています。
まず「労し」という言葉は、1章3節の「愛の労苦」と同じ
言葉です。牧師は、主イエス様が私たちの罪のために十字架に
架かって愛を示して下さったように、「信徒を愛し、仕える」
ことが求められています。一人ひとりの信徒の魂に配慮するこ
とが牧師の仕事であると、今年初めて「牧会塾」に参加して学
んだ第一が「魂への配慮」で、その部分に牧師としての至らな
さが私にあったと気付かされました。
次の「指導し」というギリシャ語は、信徒の「前に立つ」、
信徒のために「責任をとる」、信徒を「護る」という意味があ
ります。信徒は日々の生活の中でサタンの攻撃に遭いますが、
サタンの前に一緒に立ち、信徒を護る事も牧師の仕事です。ま
た、信徒の試練に共に立ち、励ます事も牧師の働きであります

「訓戒する」という言葉は「誤りを正す」、「矯正する」と
いう意味があり、また「良い影響を与える」という意味があり
ます。聖書の御言をとりつぎ、福音を語ることによって、その
御言によって信徒の価値観が変えられてゆくようにしてゆくこ
とも牧師の責任ということであります。信徒の模範となり、良
い影響を与えることも牧師の果すべき責任でしょう。とても大
きな責任を牧師は負っていると感じさせられ、身が引き締まる
思いです。
さて、口語訳聖書にある牧師を「重んじ」という言葉の真意
は「知る」ということです。つまり、牧師と信徒が一致して主
と教会に仕え、また互いに仕え合うためには、「お互いをもっ
と深く知る必要がある」ということかもしれません。この箇所
は、信徒たちに対する勧めですから、「牧師たちの働きをもっ
と理解し、特に彼らの働きのために祈り、彼らを助けることが
できるのであれば協力してあげなさい」という勧めでしょう。
また、この箇所で注目すべきことは、「牧師の働きを重んじ
る」ということです。牧師の「人間性」ではなく、「牧師の働
き」です。何故なら、牧師の人間性にだけ注目してしまえば、
皆さんはきっとつまずくことでしょう。そうならないためにも
「牧師の働き」のためにお祈りください。
この上記の3点に関し、私には至らない部分が多くあること
に気付かされます。また、牧師の働きをするためには非常な努
力を要することも強く感じます。どうぞ、大久保教会の牧師の
働きと霊性のために引き続きお祈り下さい。お願い致します。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎