みことば:「彼ら(パウロ殺害のために徒党を組んだユダヤ人たち)は、祭司長たちや長老たちのもとに行って、こう言った、『私たちは、パウロを殺害するまでは、何も口にしないという誓約を立てました。』」23章14節 岩波訳
前半は、使徒パウロを何とか殺害しようと策略を企てるユダヤ人たちが描かれ、後半はその策略を知った千卒長がパウロをカイザリヤへ護送する出来事が記されています。
これからも試練が降り掛かり、その道が当分終わらないと予測される中で、主イエス様はパウロに臨み、「しっかりしなさい。あなたにはわたしがついている。ローマであなたはわたしを証しする」と11節でおっしゃられます。この主の言葉は、その時に応ずる大きな励まし、ご加護の約束、宣教使命の再伝達であったと思います。ですから、たとえ今私たちが試練の中にあったとしても、またその試練がまだ続きそうな状況の中でも、主イエス様は私たちと共にいて私たちを支え、強め、守り導いてくださるお方なのです。このアドベント・待降節の時に「インマヌエル」であるイエス様の愛を心に感じ、その愛で心の内を温めていただきましょう。クリスマスは、私たち一人ひとりの心に神様の愛の光が与えられる素晴らしい時です。
さて、パウロを敵視するユダヤ人たちの心は怒りで燃え上がっていました。パウロを殺し、闇に葬るまで絶食するという40人の決意と誓いが記されています。「誓い合う」というギリシャ語は非常に強い意味があって、「もし何々にならなかったら、自分の身がどうなっても良い」という自分自身に呪いをかける意味があるそうです。しかし、実際にはパウロは彼らに殺されませんでしたから、あの40人は誓いを守り絶食のまま死んだのかと思う人も多いと思います。しかし、憐れみの神様はそのような人たちの為に逃れる道を用意されます。ユダヤ教のもう一つの教典・ミシュナに「不測の事態によって履行できなかった時は、その誓いから解かれる」という律法がありました。千卒長によってパウロがカイザリヤへ護送されたことは彼らの不測の事態であったので、彼らは死なずにすんだはずです。彼らは自らかけた呪いから解放されたのです。これも神様の憐れみであり、逃れる道を備えたもう神様の愛なのです。この神の愛に対して悔い改めることが常に求められるのです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とイエス様はおっしゃいました。
このことから私たちは何を学びましょう。それは人間のその時の感情によって容易く「誓う」べきではないということです。人から誘われても、よく聖書を読み、よく祈り、よく熟考することです。主は何と言われるかを求めるのです。私たちが立てる誓いによって自分自身を苦しめるだけでなく、周囲の人々さえも苦しめ、傷つけてしまうのです。私たちはただ、救い主イエス様に対して「主よ、あなたを信じて、あなたの声と言葉に聴き従ってゆきます」という誓いをしようではありませんか。喜びと感謝をもって主に従って行くことは、主の贖いの血潮によって罪と死の呪いから解放された者の歩むべき道です。
パウロ殺害を目論む陰謀者たちは、自分たちの誓いを果たす為にサンヘドリンのユダヤ大議会の協力を仰ぎます。そして祭司長や長老たちとサドカイ派の祭司たちが要請を受けてしまいます。大議会は、一人の人の命を奪うことに加担してしまい、大議会の本来の目的と使命を見失ってしまいます。このことを教訓にしたいと思います。キリスト教会は人の命を守り、人々に福音を伝えることを通して祝福すべき「神の愛に生きる群れ」です。東京・新宿の地に福音を伝えることが大久保教会の使命であることをもう一度確かめ合いたいと思います。
彼らのパウロ暗殺の計画はパウロの姉妹の子・甥をとおしてパウロの耳に届きます。ここでパウロの親族が最初で最後の登場をします。そしてパウロの指示によってこの陰謀が千卒長の耳に届きます。千卒長は、極刑に当たる罪をパウロに認めることができず、パウロがローマ市民であるので、その地方を治めている総督ペリクスに最終判断を委ねるため、パウロをカイザリヤへ護送することにしました。護送に付かせた兵卒の数は実に470名、千卒長部隊の約半分です。彼は総督への書状の中でパウロが訴えられているのはユダヤの律法に関することであって、ローマ帝国の法律を違反するものではないということでした。神様は、いつも真実を示してくださるお方です。神様は、私たちの生活の中でも誠実に真実を表してくださり、私たちを真理へと導いて下さるのです。主を信じて、主に聴き従いましょう。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎
前半は、使徒パウロを何とか殺害しようと策略を企てるユダヤ人たちが描かれ、後半はその策略を知った千卒長がパウロをカイザリヤへ護送する出来事が記されています。
これからも試練が降り掛かり、その道が当分終わらないと予測される中で、主イエス様はパウロに臨み、「しっかりしなさい。あなたにはわたしがついている。ローマであなたはわたしを証しする」と11節でおっしゃられます。この主の言葉は、その時に応ずる大きな励まし、ご加護の約束、宣教使命の再伝達であったと思います。ですから、たとえ今私たちが試練の中にあったとしても、またその試練がまだ続きそうな状況の中でも、主イエス様は私たちと共にいて私たちを支え、強め、守り導いてくださるお方なのです。このアドベント・待降節の時に「インマヌエル」であるイエス様の愛を心に感じ、その愛で心の内を温めていただきましょう。クリスマスは、私たち一人ひとりの心に神様の愛の光が与えられる素晴らしい時です。
さて、パウロを敵視するユダヤ人たちの心は怒りで燃え上がっていました。パウロを殺し、闇に葬るまで絶食するという40人の決意と誓いが記されています。「誓い合う」というギリシャ語は非常に強い意味があって、「もし何々にならなかったら、自分の身がどうなっても良い」という自分自身に呪いをかける意味があるそうです。しかし、実際にはパウロは彼らに殺されませんでしたから、あの40人は誓いを守り絶食のまま死んだのかと思う人も多いと思います。しかし、憐れみの神様はそのような人たちの為に逃れる道を用意されます。ユダヤ教のもう一つの教典・ミシュナに「不測の事態によって履行できなかった時は、その誓いから解かれる」という律法がありました。千卒長によってパウロがカイザリヤへ護送されたことは彼らの不測の事態であったので、彼らは死なずにすんだはずです。彼らは自らかけた呪いから解放されたのです。これも神様の憐れみであり、逃れる道を備えたもう神様の愛なのです。この神の愛に対して悔い改めることが常に求められるのです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とイエス様はおっしゃいました。
このことから私たちは何を学びましょう。それは人間のその時の感情によって容易く「誓う」べきではないということです。人から誘われても、よく聖書を読み、よく祈り、よく熟考することです。主は何と言われるかを求めるのです。私たちが立てる誓いによって自分自身を苦しめるだけでなく、周囲の人々さえも苦しめ、傷つけてしまうのです。私たちはただ、救い主イエス様に対して「主よ、あなたを信じて、あなたの声と言葉に聴き従ってゆきます」という誓いをしようではありませんか。喜びと感謝をもって主に従って行くことは、主の贖いの血潮によって罪と死の呪いから解放された者の歩むべき道です。
パウロ殺害を目論む陰謀者たちは、自分たちの誓いを果たす為にサンヘドリンのユダヤ大議会の協力を仰ぎます。そして祭司長や長老たちとサドカイ派の祭司たちが要請を受けてしまいます。大議会は、一人の人の命を奪うことに加担してしまい、大議会の本来の目的と使命を見失ってしまいます。このことを教訓にしたいと思います。キリスト教会は人の命を守り、人々に福音を伝えることを通して祝福すべき「神の愛に生きる群れ」です。東京・新宿の地に福音を伝えることが大久保教会の使命であることをもう一度確かめ合いたいと思います。
彼らのパウロ暗殺の計画はパウロの姉妹の子・甥をとおしてパウロの耳に届きます。ここでパウロの親族が最初で最後の登場をします。そしてパウロの指示によってこの陰謀が千卒長の耳に届きます。千卒長は、極刑に当たる罪をパウロに認めることができず、パウロがローマ市民であるので、その地方を治めている総督ペリクスに最終判断を委ねるため、パウロをカイザリヤへ護送することにしました。護送に付かせた兵卒の数は実に470名、千卒長部隊の約半分です。彼は総督への書状の中でパウロが訴えられているのはユダヤの律法に関することであって、ローマ帝国の法律を違反するものではないということでした。神様は、いつも真実を示してくださるお方です。神様は、私たちの生活の中でも誠実に真実を表してくださり、私たちを真理へと導いて下さるのです。主を信じて、主に聴き従いましょう。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎