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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#79 使徒行伝23章12節~35節

2009-12-16 21:55:36 | 聖書
 みことば:「彼ら(パウロ殺害のために徒党を組んだユダヤ人たち)は、祭司長たちや長老たちのもとに行って、こう言った、『私たちは、パウロを殺害するまでは、何も口にしないという誓約を立てました。』」23章14節 岩波訳


 前半は、使徒パウロを何とか殺害しようと策略を企てるユダヤ人たちが描かれ、後半はその策略を知った千卒長がパウロをカイザリヤへ護送する出来事が記されています。

 これからも試練が降り掛かり、その道が当分終わらないと予測される中で、主イエス様はパウロに臨み、「しっかりしなさい。あなたにはわたしがついている。ローマであなたはわたしを証しする」と11節でおっしゃられます。この主の言葉は、その時に応ずる大きな励まし、ご加護の約束、宣教使命の再伝達であったと思います。ですから、たとえ今私たちが試練の中にあったとしても、またその試練がまだ続きそうな状況の中でも、主イエス様は私たちと共にいて私たちを支え、強め、守り導いてくださるお方なのです。このアドベント・待降節の時に「インマヌエル」であるイエス様の愛を心に感じ、その愛で心の内を温めていただきましょう。クリスマスは、私たち一人ひとりの心に神様の愛の光が与えられる素晴らしい時です。

 さて、パウロを敵視するユダヤ人たちの心は怒りで燃え上がっていました。パウロを殺し、闇に葬るまで絶食するという40人の決意と誓いが記されています。「誓い合う」というギリシャ語は非常に強い意味があって、「もし何々にならなかったら、自分の身がどうなっても良い」という自分自身に呪いをかける意味があるそうです。しかし、実際にはパウロは彼らに殺されませんでしたから、あの40人は誓いを守り絶食のまま死んだのかと思う人も多いと思います。しかし、憐れみの神様はそのような人たちの為に逃れる道を用意されます。ユダヤ教のもう一つの教典・ミシュナに「不測の事態によって履行できなかった時は、その誓いから解かれる」という律法がありました。千卒長によってパウロがカイザリヤへ護送されたことは彼らの不測の事態であったので、彼らは死なずにすんだはずです。彼らは自らかけた呪いから解放されたのです。これも神様の憐れみであり、逃れる道を備えたもう神様の愛なのです。この神の愛に対して悔い改めることが常に求められるのです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とイエス様はおっしゃいました。

 このことから私たちは何を学びましょう。それは人間のその時の感情によって容易く「誓う」べきではないということです。人から誘われても、よく聖書を読み、よく祈り、よく熟考することです。主は何と言われるかを求めるのです。私たちが立てる誓いによって自分自身を苦しめるだけでなく、周囲の人々さえも苦しめ、傷つけてしまうのです。私たちはただ、救い主イエス様に対して「主よ、あなたを信じて、あなたの声と言葉に聴き従ってゆきます」という誓いをしようではありませんか。喜びと感謝をもって主に従って行くことは、主の贖いの血潮によって罪と死の呪いから解放された者の歩むべき道です。

 パウロ殺害を目論む陰謀者たちは、自分たちの誓いを果たす為にサンヘドリンのユダヤ大議会の協力を仰ぎます。そして祭司長や長老たちとサドカイ派の祭司たちが要請を受けてしまいます。大議会は、一人の人の命を奪うことに加担してしまい、大議会の本来の目的と使命を見失ってしまいます。このことを教訓にしたいと思います。キリスト教会は人の命を守り、人々に福音を伝えることを通して祝福すべき「神の愛に生きる群れ」です。東京・新宿の地に福音を伝えることが大久保教会の使命であることをもう一度確かめ合いたいと思います。

 彼らのパウロ暗殺の計画はパウロの姉妹の子・甥をとおしてパウロの耳に届きます。ここでパウロの親族が最初で最後の登場をします。そしてパウロの指示によってこの陰謀が千卒長の耳に届きます。千卒長は、極刑に当たる罪をパウロに認めることができず、パウロがローマ市民であるので、その地方を治めている総督ペリクスに最終判断を委ねるため、パウロをカイザリヤへ護送することにしました。護送に付かせた兵卒の数は実に470名、千卒長部隊の約半分です。彼は総督への書状の中でパウロが訴えられているのはユダヤの律法に関することであって、ローマ帝国の法律を違反するものではないということでした。神様は、いつも真実を示してくださるお方です。神様は、私たちの生活の中でも誠実に真実を表してくださり、私たちを真理へと導いて下さるのです。主を信じて、主に聴き従いましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ#78 使徒行伝22章30節~23章11節

2009-12-09 22:42:11 | 聖書
 みことば:「兄弟たちよ、・・・。(わたしは)死人の甦りの望みを抱いているために、裁判にかけられているのです。」23章6節 岩波訳

 パウロが同胞のユダヤ人たちに執拗に訴えられるので、その真相を知りたいと思ったローマの千卒長は、非公式でありましたがユダヤの祭司長と全ユダヤ議会を招集させ、パウロをその議会の中心に立たせます。使徒パウロは、まず自分が良心に少しのやましいところなく神の御前に生きてきたと言うのです。クリスチャンであるパウロが神の御前に正しいということは、訴えているユダヤ教ユダヤ人たちが正しくないと主張していると同じだと聞き取った大祭司アナニヤは、パウロの口を打てと人に命じます。ユダヤ人歴史家のヨセフスは、大祭司アナニヤは歴代の大祭司の中で最も卑劣で、金銭にどん欲な祭司であったと彼のユダヤ歴史書の中で記し、アナニヤがパウロの口を打たせようとした人であった事を裏付けています。

 この大祭司に対してパウロは、「白く塗られた壁よ、神があなたを打つであろう」と預言的なことを言います。実際に、10年後のユダヤ戦争勃発前に、ローマとの癒着とどん欲さゆえにローマ寄りであった大祭司アナニヤは、ユダヤの熱心党の手によって打たれて殺されたということです。たとえ表面は白く塗られた壁のようであっても、また敬虔なクリスチャンのように見えても、神様は私たちの心をしっかりと見て、そしてすべてを知っておられる事をここから学び、そしてもし私たちの中に悔い改めるべきことがあれば悔い改めてすぐに主に立ち返りましょう。何故なら、エゼキエル13章10節以降に、偽善のある所には平和はない、すべては神によって明らかにされるとあります。ですから、「いつも塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」とコロサイ4:6にあるように、この言葉に生きましょう。

 アナニヤが大祭司であることを本当に知らなかったのか、嫌みで言ったのか分かりませんが、パウロは大祭司に対し、「あなたは律法に従ってわたしを裁くべきなのに、あなた自身がその律法に背いて私を打てと命じるのか」と問いただします。するとそばに立っていた者が「神の大祭司に対して無礼な事を言うな」とパウロに言います。パウロは、大祭司が偽善者のようであったのでそのように言ったのですが、私たちも気を付けましょう。クリスチャンらしからぬ振る舞いをしていないかを。私たちの主にある価値観、口から出る言葉、そして主と共に歩む行動をもってキリストの香りを醸し出すような者にさせていただきましょう。そのためには主の言葉に聴き従う他にありません。

 自分自身が議会に立たせられているのは、死より復活された救い主イエス・キリストを信じ、この救い主にすべての望みを置いているこの信仰のゆえであると使徒パウロは声を上げて叫びます。わたしたちは望み、希望をどこに置くかによってこれからの人生は変わってきます。滅びゆくものにではなく、アルファでありオメガであられる神様に希望を抱きましょう。暗闇に光として誕生し、この光をもって私たちを永遠に守り導き、永遠の命を与えたもう主イエス様に希望を抱いて歩んでまいりましょう。パウロは、主イエス様に希望を置いたのです。

 私たちは、人生の暗闇を経験する時があります。人生の危機に直面したり、大きな試練の中に置かれる事がこれからの人生の中でも幾多とあるでしょう。クリスチャンであるが故に苦しむ事があるでしょう。逃げ出してしまいたい様なこともあるでしょう。しかし、11節でイエス様は使徒パウロに臨んでこのようにおっしゃるのです。「しっかりしなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなくてはならない」と。とてつもなく広く、高く、深く、分厚い壁に直面し、それを乗り越えなければならない時、その壁を打ち破ることが唯一できる力ある主イエス様にすべてを委ね、祈ることから始めましょう。どんなに頑丈な城壁であっても、神様の時、神様の御手が傾けられる時に、神様のご意志とご配慮の中で壁は崩れ落ち、私たちは神様の愛、祝福へと招き入れられるのです。
 主イエス様から委ねられている私たち大久保教会の使命、それはこの力強き神様、十字架に架かり私たちの罪を贖い清め、三日目に死人の中から初穂として甦られた救い主イエス様を証しすることなのです。まず主に祈りをささげ、主の声に聞きましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#77 使徒行伝22章22節~29節

2009-12-02 21:39:09 | 聖書
 みことば:「そこで、千人隊長が(パウロに)応じた、『私はかなりの金額を払って、この(ローマ)市民権を手に入れたのだ』。パウロは言った、『私は生まれながらのローマ(帝国の)市民です』22章28節 岩波訳

ユダヤ人の暴徒たちの手からローマ兵たちによって救い出された使徒パウロは、それでも諦めずに最後の最後までユダヤ人たちに弁明、証ししたことを先週学びました。クリスチャンたちを迫害していた者がイエス・キリストに出会って、まったく新しい人へと変えられ、キリストの福音を力強く語る者となったということを告白するのですが、ユダヤ人たちはパウロが「行きなさい。わたしがあなたを遠く異邦の民へつかわすのだ」と主イエスがおっしゃったと聞いて怒り心頭となり、大声で「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきではない」と叫びだし、パウロに襲いかかろうとします。

 何故ここまで使徒パウロはユダヤ人たちに嫌われたのか。それはパウロの心が柔らかく、広く、深かったからです。神様の愛、キリストの福音はユダヤ人だけでなく、すべての人々に注がれているとパウロは信じていたからです。ユダヤ人たちはパウロの心の広さが気に食わなかったのです。これは何を物語っているのか。当時の情勢は、ユダヤ人たちのナショナリズム・愛国心が高まっていた最中でした。パウロはユダヤの律法を疎かにしていた訳では決してありませんが、ユダヤ人たちの目には律法を軽んじていると映ってしまったようです。しかし、究極的には、ユダヤ人の心は頑なで、狭く、傲慢であったということです。ですから、命は神から等しくすべての人に与えられているのに、「こんな男は地上から取り除いてしまえ。生かしておくべきでない」と気が狂ったかのように叫ぶのです。

 私たちの心はどうでしょうか。問うてみたいと思います。そして、イエス様の心はどうであったかを聖書から聞いてゆきたいです。イエス様の心と愛は、特に世の中で蔑まれている人々、この世の隅に追いやられている人々、弱っている人々、小さくさせられている人々に豊かに注がれました。私たちの心は、何に注がれているでしょうか。わたくしたちもこのアドベントの期間、心を柔らかくされてゆきたいと願います。頑なで、狭く、傲慢な心には主イエス様の愛が宿る余地はないのです。

 パウロは、心頑なユダヤ人たちに再度襲われそうになりますが、またここでもローマ兵たちによって命が守られます。しかし、今度はこのローマ軍の千卒長からパウロは尋問を受けることになりました。しかし、普通の尋問ではありません。ローマの尋問のスタイルは、むち打ちによるものでした。パウロは近くに立っている千卒長の部下である百卒長に訴えます。「ローマ市民たる者を、裁判にかけもしないで、むち打ってよいのか」と。パウロは、自分はローマの市民であり、市民としての権利を持つ者であると主張します。聖書には、パウロの祖先がユダヤ人であるにも関らずどのようにローマ市民権を得たのかは記しません。ある神学者は、幕屋づくりがローマ軍の遠征などに必要であって、そのような職人たちに市民権を与えたのではと考えています。どちらにせよ、パウロは自分がローマ市民であると主張します。パウロは二重国籍であったのです。神様は、本当に不思議なことをなさいます。当時の常識では考えられないことを備えておられたのです。この時にために主が事前に備えて下さっていたということでしょう。ここから学べる事は、たとえ私たちが人生の危機に陥っても、神様は常識を遥かに越えた備えをもって、私たちを守り、救い出して下さるということです。主を信じて、主に従う者に救いはあるのです。

 千卒長は、「わたしはローマの市民権を、多額の金で買い取ったのに、お前のようなユダヤ人がどうして?」と言わんばかりです。すべてはお金ではないのです。すべては神様の愛とお取り計らいであることを覚え、主に感謝しましょう。

 現代は、お金を積めば市民権を買える時代なのかもしれません。しかし、それは裕福な人だけに限られた差別です。日本にも二重国籍の人も多くいますでしょう。しかし、国籍の無い人がこの日本にも、世界中にも多く存在し、国外退去命令がいつあるか分からないと身を潜め、不安と恐れの中にあることを覚えましょう。また、貧しい人たちが多くおられます。ハンディーを持った人たちがたくさんおられます。目に留められないような孤独な人たちがおられます。そのような人にイエス様はどのように関っていかれるでしょうか。イエス様の心は。このアドベントの時、イエス様の心は誰に注がれるかを祈りつつ求めてゆき、示されたままに歩みましょう。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎