みことば:「私は、(あなたがたに)食事をとるように勧めます。
それは、あなたたちを救うために役立つのですから。
あなたたちの頭の毛一本ですら失われることはありません。」27章34節 岩波訳
使徒パウロたちを乗せた船は遭難してから2週間が経過し、人々は精神的に最も苦しい状況に置かれていました。果てしない苦境の中で食欲を失い、体力的にも弱って来た人々にパウロは食事を取って体力をつける事を勧めます。「食事を取ることがあなたがたを救う事になるのだから」とこの部分を直訳すると、「あなたの救いのために食事は必要です」となります。ここにある「救い」という言葉は神様の救いを象徴する言葉です。遭難によって危険にさらされている乗員・乗客を救われる神は、主イエス・キリストによる究極的な救いと永遠の命をお与えくださる同じ神であられることを私たちに思い起こさせるのです。人生の荒波に長時間もまれ、人生の暗闇の中で途方にくれる時、私たちも喜び、感謝、平安、希望を失い、祈ろうという気持も湧かなくなります。次第に信仰の体力が弱くなり、霊的にも飢え渇きを覚えます。信仰の糧を得ようという食欲が湧かなくなることもあります。しかし、神様は使徒パウロを通してそのような私たちに「聖書の御言葉を食しなさい」と励ましを与えてくれます。この励ましの言葉に生きる希望を見出し、力づけられた人々は皆で食事を取ったとあります。パウロの「神は必ず私たちを救って下さる」という揺るがない信仰とその神への信頼からくる自信と言動の模範が人々を励まします。パウロの信仰が275名の勇気の源となったのです。私たちの信仰と主と共に歩む歩みが隣人の祝福と希望をもって生きる力、励ましになったら何という幸いでしょうか。私たちが隣人を励ますためには、まず私たち一人ひとりが最初に御言葉の食事を日々取る必要がある事をこの箇所から示されます。
夜が明けます。人々はどんなにかこの夜明けを待ちわびていた事でしょう。空が明るくなって数週間ぶりに陸地が目の前に見えました。どこの土地か判らなくても彼らには陸地が大きな喜び、希望に見えたでしょう。入り江に向かって船を進めるのですが、船は浅瀬に乗り上げてしまいます。水夫達が逃げ出そうとした時に小舟をすべて切り離してしまいましたから、陸に上陸するためには泳いで渡るしか方法はありません。しかし、そうなると囚人達が逃走するのではと危惧したローマ兵たちは、脱走すると自分たちが同じ刑に服しなければならいことを重々承知していましたから、囚人達を殺してしまおうとします。しかし、百卒長ユリアスはパウロを救いたいと思っていましたから、ローマ兵たちの意図を退け、泳げる者達には泳がせ、泳げない者たちには浮きになるもので入り江に向かわせます。こうして、276名の者がすべて上陸して救われたと記されています。ここでも、神様は異邦人ユリアスを用いてパウロの命を守られるのです。今までにも使徒パウロの命は幾度となく異邦人たちの働きによって守られてきましたが、すべては神様のお取り計らいであったのです。すべては神様の摂理の中にあったことなのです。私たちの人生も神様のお取り計らいの中にあります。神様の摂理の中に私たちは生かされています。そして主の伴いとお守りとお導きによって前進できています。そのことを神様に感謝致しましょう。時に私たちの信仰は試されます。私たち一人ひとりが主に信頼しているかが苦難を通して試されます。たとえ今苦難の中にあっても、主のご計画と御旨があるのですから、主イエス様に信頼し、主にすべてを委ねましょう。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである。」ローマ8:35、37–39
3週に渡って遭難の箇所を学びました。過去2回の学びの復習になりますが、使徒パウロがその船に乗っていたので275名の人々は救われたのです。パウロにはローマでの宣教の使命があり、また主がパウロと共におられたのですべての乗員・乗客は救われます。使徒パウロは、主が与えられた使命に忠実に生きようとしたからすべての苦しみから守られました。私たちも主がそれぞれに与えてくださっている使命に生きましょう。その時に、家族や友人、隣人が救われるのですから。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎
それは、あなたたちを救うために役立つのですから。
あなたたちの頭の毛一本ですら失われることはありません。」27章34節 岩波訳
使徒パウロたちを乗せた船は遭難してから2週間が経過し、人々は精神的に最も苦しい状況に置かれていました。果てしない苦境の中で食欲を失い、体力的にも弱って来た人々にパウロは食事を取って体力をつける事を勧めます。「食事を取ることがあなたがたを救う事になるのだから」とこの部分を直訳すると、「あなたの救いのために食事は必要です」となります。ここにある「救い」という言葉は神様の救いを象徴する言葉です。遭難によって危険にさらされている乗員・乗客を救われる神は、主イエス・キリストによる究極的な救いと永遠の命をお与えくださる同じ神であられることを私たちに思い起こさせるのです。人生の荒波に長時間もまれ、人生の暗闇の中で途方にくれる時、私たちも喜び、感謝、平安、希望を失い、祈ろうという気持も湧かなくなります。次第に信仰の体力が弱くなり、霊的にも飢え渇きを覚えます。信仰の糧を得ようという食欲が湧かなくなることもあります。しかし、神様は使徒パウロを通してそのような私たちに「聖書の御言葉を食しなさい」と励ましを与えてくれます。この励ましの言葉に生きる希望を見出し、力づけられた人々は皆で食事を取ったとあります。パウロの「神は必ず私たちを救って下さる」という揺るがない信仰とその神への信頼からくる自信と言動の模範が人々を励まします。パウロの信仰が275名の勇気の源となったのです。私たちの信仰と主と共に歩む歩みが隣人の祝福と希望をもって生きる力、励ましになったら何という幸いでしょうか。私たちが隣人を励ますためには、まず私たち一人ひとりが最初に御言葉の食事を日々取る必要がある事をこの箇所から示されます。
夜が明けます。人々はどんなにかこの夜明けを待ちわびていた事でしょう。空が明るくなって数週間ぶりに陸地が目の前に見えました。どこの土地か判らなくても彼らには陸地が大きな喜び、希望に見えたでしょう。入り江に向かって船を進めるのですが、船は浅瀬に乗り上げてしまいます。水夫達が逃げ出そうとした時に小舟をすべて切り離してしまいましたから、陸に上陸するためには泳いで渡るしか方法はありません。しかし、そうなると囚人達が逃走するのではと危惧したローマ兵たちは、脱走すると自分たちが同じ刑に服しなければならいことを重々承知していましたから、囚人達を殺してしまおうとします。しかし、百卒長ユリアスはパウロを救いたいと思っていましたから、ローマ兵たちの意図を退け、泳げる者達には泳がせ、泳げない者たちには浮きになるもので入り江に向かわせます。こうして、276名の者がすべて上陸して救われたと記されています。ここでも、神様は異邦人ユリアスを用いてパウロの命を守られるのです。今までにも使徒パウロの命は幾度となく異邦人たちの働きによって守られてきましたが、すべては神様のお取り計らいであったのです。すべては神様の摂理の中にあったことなのです。私たちの人生も神様のお取り計らいの中にあります。神様の摂理の中に私たちは生かされています。そして主の伴いとお守りとお導きによって前進できています。そのことを神様に感謝致しましょう。時に私たちの信仰は試されます。私たち一人ひとりが主に信頼しているかが苦難を通して試されます。たとえ今苦難の中にあっても、主のご計画と御旨があるのですから、主イエス様に信頼し、主にすべてを委ねましょう。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛から、私たちを引き離すことはできないのである。」ローマ8:35、37–39
3週に渡って遭難の箇所を学びました。過去2回の学びの復習になりますが、使徒パウロがその船に乗っていたので275名の人々は救われたのです。パウロにはローマでの宣教の使命があり、また主がパウロと共におられたのですべての乗員・乗客は救われます。使徒パウロは、主が与えられた使命に忠実に生きようとしたからすべての苦しみから守られました。私たちも主がそれぞれに与えてくださっている使命に生きましょう。その時に、家族や友人、隣人が救われるのですから。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎