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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ #53 使徒行伝16章1節~5節

2009-05-27 23:29:28 | 聖書
みことば:「彼(テモテ)は、リュストラとイコニオンの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。

パウロはこの者を一緒に(伝道旅行)に連れて行きたいと思った。」

使徒16:3 岩波訳

 今夜と明朝の祈祷会は、を学びます。ここから使徒パウロたちの第二回目の伝道旅行が始まります。

旅の目的は、第一回目の伝道旅行で訪れた町々を再訪し、力づけることでした。

バルナバはマルコを連れてクプロへ、パウロはシラスと共にデルベ、ルステラへと旅立ちます。

このルステラに、その町とイコニオムのクリスチャン・コミュニティーの中でとっても評判の良いテモテという若者がいました。

現在の情報社会とは当時はまったく違います。

ルステラとイコニオムという2つの町で評判が良かったというのは、非常に評判が良かったということです。

職場でも、教会でも、何処ででも、評判の良い人と働きたいですよね。

パウロはこの若者はきっと役に立つ将来有望な逸材だと思ったのでしょう。

テモテを旅に同伴させ、旅の中で彼を主に仕える働き人として訓練すれば、キリストの福音はもっと早く、広く、世界の隅々にまで伝えられると考えたのでしょう。

テモテを同伴させたいと思いました。

 しかし、テモテを同伴させる時に一つの問題がありました。

それはテモテが割礼を受けていなかったということです。

テモテは純粋なユダヤ人ではなく、ユダヤ人の母とギリシャ人の父をもつ者でした。

しかし、たとえ父親が異邦人であっても母親がユダヤ人であれば、ユダヤの律法によればテモテはユダヤ人であり、割礼を受けていなければならなかったのです。

ユダヤ社会において割礼を受けていないユダヤ人男性はありえず、そのような者は「背教者」と見なされたのです。

パウロは旅に出る前にテモテに割礼を受けさせました。

異邦人が救われてクリスチャンになるには割礼は必要ないと主張し続け、エルサレム教会にもそのような結論にいたらせたパウロが何故テモテには割礼を受けさせたのか。

言っていることと矛盾すると私たちは考えます。

しかし、パウロはこれが今後の伝道に必要だと考えたのです。

パウロたちの伝道は、ユダヤ人の会堂を手掛かりとしました。

テモテを同伴させるにあたって、伝道活動をする上でユダヤ人の躓きとならないようにしたのです。

テモテの割礼は、ユダヤ人にも伝道するためであったのです。

テモテが割礼を拒んだとは記されていません。

異邦人だけでなく、ユダヤ人にもキリストの福音を伝える為に、パウロの勧めに従ったクリスチャン、キリストの弟子テモテの信仰の姿勢が学びとれます。


 さて、教会の中で「評判の良い人」とは、どのような人でしょうか。

元気で笑顔が絶えない人? 優しい人? 愛をもって寄り添い励ます人? 気前の良い人? 誠実な人?人を愛し、人からも愛された人? 色々なことが言えます。

しかし、信仰をもって主と教会に忠実に仕える人ではないかと思うのです。

仕えるためには、御言葉に聞くことと祈ることが必要です。

イエス様は、自分の役割、地上で果たすべき使命をしっかり知っていた方でした。

神様から委ねられた使命に忠実に生きた方がイエス様です。

このお方を私たちは「主」と信じて従うのです。

私たちは、自分の地上での使命、役割を知っているでしょうか。

これが理解できないと、「仕える者」ではなく、神様を含めて、誰かを自分の為に「仕えさせる」者になるのです。

そんな自己中心的で傲慢な人が「評判の良い人」になりえるでしょうか。

「評判の良い人」とは、神様を愛し、神様に愛されている恵みに喜んで生きている人、喜びと感謝をもって主と教会に仕えている人ではないでしょうか。

私たちも、教会でも、地域でも、職場でも、何処ででも評判の良い人になりなさいと神様に求められていると示されます。


 週の後半も主が共にいてあなたを守り導いて下さるようにお祈り致します。

 主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#52  使徒行伝15章36節~40節

2009-05-20 18:15:00 | 聖書
 みことば:「パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みに委ねられて出発し、シリアとキリキアをめぐりながら、教会を力づけた。」使徒15:40 岩波訳


 今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝15章36節~40節を学びます。

ここは、使徒パウロたちの第二回目の伝道旅行の序章部分になります。

今回の伝道旅行の目的は、第一回目の伝道旅行で訪れた町々を再訪し、力づけることでした。

パウロの提案にバルナバも賛成したのですが、同行するスタッフの人選でトラブル発生!

 パウロとバルナバは、これまでのパートナーシップを解消し、それぞれの道を行くことになりました。

そもそもの原因は、第一回目の伝道旅行の途中のパンフリアで離脱したマルコと呼ばれるヨハネを再度同伴させようというバルナバの提案にパウロが異論を唱えたからです。

一回離脱し、「働きを共にしなかった者」は信用できない、使い物にならないとでも考えたのでしょうか。

理由は明記されていませんが、激論が起こり、バルナバはマルコ・ヨハネを連れて、パウロはシラスを連れて行くことになりました。

パウロとバルナバのコンビ解消の原因は、バルナバの従弟マルコ・ヨハネを同行させるか否かだけでなかったようです。

興味のある方は、ガラテヤ2:11から13を読んでください。

 私たちは、このコンビ解消を非常に残念なことと捉えやすいです。

伝道の力の減少、伝道旅行にマイナスになったのではと思いやすいですね。

しかし、これも神様の御手の中で起こった出来事です。決してマイナスにならないのです。

 伝道にプラスになったことを今回の出来事から学びましょう。

1)伝道隊が一つから二つになった(パウロのグループとバルナバのグループ)、

2)働き人が二人から四人になった(マルコ・ヨハネとシラスの加入)、

3)パウロが回れなかった町をバルナバが回った(クプロ)。

そして、それぞれの場所でクリスチャンたちが励まされ、力づけられた。

つまり、神様がパウロとバルナバにお与えになった目的は果たされたのです。

そしてこれからも果たされ続けるのです。

 バプテストは、セパレティスト(分離する者たち)とからかわれ半分、皮肉半分によく言われます。

互いの意見を持ち合い、時に激論になることもあります。

その結果、分離してきました。

私たちは、「激論」とか「分離」と聞くとマイナスのイメージを持ってしまいます。

しかし、私たちのイメージではなく、神様の御旨、ご計画を第一にしてゆきましょう。

教会のイメージを良くするために神様の御旨が蔑ろにされては本末転倒です。

神様が大久保教会を新宿の地に建てられているその目的を知り、神様のご意志を優先し、キリストのからだなる教会を建て上げて行く業に参与して行きましょう。

 週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。


 主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ#51 使徒行伝15章22節~35節

2009-05-13 18:14:40 | 聖書
 みことば:「ユダとシラスは、彼らも預言者であったので、多くの言葉をもって兄弟たちに勧めをなし、また力づけた」使徒15:32 岩波訳

 前回、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの主にある交わりが祝福されるようにとヤコブの提案がなされたことを学びました。

ヤコブは、ユダヤ人が神のみ前につねに大切にしていること、

1)偶像に供えた肉は食べない、

2)性的不道徳をさける、

3)絞め殺して血抜きしていない動物の肉は食べない、

4)血を食べない

という4つの禁令を理解してもらい、また避けてもらう教令/お願いをしようと提案しました。


この提案は、ユダヤ人と異邦人の交友を傷つけることなく、異邦人への伝道を守る為の最善の提案でした。

エルサレム教会のクリスチャンたちはこれに賛同、採択し、書簡の形で発布します。

これは「使徒教令」とも言われます。

この書簡をエルサレム教会を代表するバルサバ・ユダとシラスに託し、パウロたちと一緒にアンテオけ教会へ派遣します。

この書簡を受け取った異邦人クリスチャンの兄弟姉妹は安堵し、喜び、エルサレム教会からの勧めを受け入れたと31節にあります。

 書簡の内容をみましょう。まず異邦人クリスチャンたちを兄弟(姉妹)と呼びます。

私たちは、主イエス様によって神の子とされ、神の家族となさせていただきました。

人種とか血筋は関係ないのです。主イエス様の十字架の血潮によって神の家族の一員とされています。

神様の愛は血筋よりも強いのです。

 異邦人クリスチャンたちに「割礼」を強要し、彼らの心を騒がし乱した人たちのことを「わたしたち使徒たちの指示もない」人たちと使徒たちが呼びます。

「乱した」というギリシャ語は「略奪する/横領する」、「破壊する」という意味があります。

私たちも教会を破壊したり、大切なものを教会から略奪しようとする者を警戒し、お互いの信仰と心が守られる様に祈りましょう。

 エルサレム教会の使徒たちは使徒パウロとバルナバのことを「主イエス・キリストのために命を投げ出した」兄弟たちと呼びます。

イエス様は私たちを救う為に命を投げ出してくださいました。私たちは小さな者ですが、それでも献身してゆけるように祈り、主の導きを祈りましょう。

 28節に「聖霊と私たちとは」とあります。

自分たちが決議したことは聖霊の力と導きによってである、

つまり神様の力が与えられてできたことと証しします。

聖霊が大久保教会を守り導いてくださるように心を尽くして祈りましょう。

 エルサレム教会から派遣されたユダとシラスはただエルサレム教会と使徒の意向を伝えただけでなく、多くの言葉を持って異邦人クリスチャンたちを励まし、力づけたとあります。

教会の交わりも同じです。主イエス様にあって、互いに寄り添い、言葉を交わし、励まし合い、祈り合い、力づけることなのです。

 エルサレム教会での使徒会議から2つのことが学べます。

一つは、聖霊なる神様が異邦人伝道を導いておられるとエルサレム教会と使徒たちが信じて受け入れていること。

神様のお導きにオープンであるということです。

主なる神様のお導きを求め、聖霊の導きに従うクリスチャンの群れには一致があるということです。

主の御言葉に聞き従い、聖霊のお導きに心を開く教会に一致と成長と伝道の収穫があるのです。

 もう一つは、エルサレム教会の使徒とリーダーたちにも世界伝道へのスピリットがあったということです。

律法と割礼を重んじ、伝統と言い伝えに固執し、異邦人にも強要するような頑さがあったら、キリストの福音は前進しなかったでしょう。

聖霊の励ましと導きと力によって彼らの心が柔らかく、また広くされ、異邦人を受け入れたことによって全世界へと神様の愛が、キリストの福音が広まったのです。

私たちも聖霊という神の働きと力を祈り、聖霊の力強い導きに信仰をもって従いましょう。

大久保教会と私たちの成長は、聖霊の力が注がれる時にあるのです。

 週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。

 主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ #50 使徒行伝15章12節~21節

2009-05-06 17:52:37 | 聖書
 さて、今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝15章12節~21節を学びます。

前回、クリスチャン異邦人たちへの「割礼」が必要か否について、エルサレム教会のリーダー・使徒ペテロが立ち上がり、彼自身がカイザリヤで10年程前に体験した異邦人の救いを証ししたことを学びました。ペテロは、ユダヤ人クリスチャンたちに「神様は異邦人をも分け隔てなく救われるのだから、私たちも彼らをそのまま受け入れよう。私たちに負いきれない律法というくびきを負わせてはいけない。私たちと同様に、彼らも主イエスの恵みによって救われたのだから」と訴えます。すると、全会衆は黙ってしまったのです。エルサレム教会のリーダー的人物である使徒ペテロが異邦人クリスチャンには割礼は必要ないというのです。

 使徒と長老の前で伝道旅行の証しを4節でした使徒パウロとバルナバは、神様が先立ちたもうて行われた救いの御業を今度は12節で教会全体に証しします。その後に長老の中でもリーダー的存在であったイエス様の異父兄弟ヤコブが立ち上がり、長老の意見を聞いて欲しいと教会全体に呼びかけます。

 使徒ペテロと長老ヤコブは、イエス様が私たちと神様の間に立って仲介して下さった様に、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に立つ者、異邦人への割礼強要賛成者と反対者の間に立つ仲介者とされたのです。

初代キリスト教会には、この時、冷静に教会が抱えている課題を客観的に判断できる人が必要であったのです。

今の時代にも、そのような人が大久保教会に必要とされています。

また、社会のどろどろとした人間関係の中でも、クリスチャンの存在は必要なのです。クリスチャンとして社会に派遣されていることを覚えましょう。

 使徒パウロは、ガラテヤ2:9において、長老ヤコブと使徒ペテロとヨハネは、今回の件で自分たちに交わりの親しい手を差し伸べてくれたエルサレム教会の「柱」だと言っています。

大久保教会が主イエス・キリストのからだなる教会として建て上げられるためには何本もの「柱」が必要です。お祈りください。「柱」とは牧師や執事やリーダーだけでは決してありません。私たち一人ひとりにはそれぞれ神様から賜物が与えられ、大久保教会の柱の一本とされているのです。

 さて、ペテロは自らの体験の語り、自分が目撃した神様の異邦人への救いの業を証ししましたが、ヤコブは異邦人が救われて神の民の一員になることが神様の御心であることを聖書の御言葉(アモス9:11-12)によってはっきりと示します。ヤコブは、ペテロと同じ立場をもっていますが、その立場を御言葉で固めているのです。ヤコブとペテロは同じ結論をもっています。すなわち、イエス・キリストを救い主と信じ、悔い改めて神に立ち返っている異邦人に律法という「わずらい」をかけてはいけないというものです。

 ただ、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの今後の関係が深まり、主にある交わりが親しくできるように一つの依頼を異邦人クリスチャンたちにしようと提案します。それはユダヤ人たちが重んじている律法を、異邦人クリスチャンにも理解し尊重して欲しいというもの、すなわち偶像に供えた物は食べない、不品行を避ける、絞め殺して十分に血抜きをしていない動物の肉を食べないということです。これらは異邦人の目から見れば
「ユダヤ人の習わし」かもしれないが、ユダヤ人クリスチャンにとっては大切にしていることだから、互いに交わりを持つ時は十分な配慮を持って欲しいと願おうとの提案です。ユダヤ人クリスチャンたちの立場を理解するためにレビ記17・18章を読んで見て下さい。ユダヤ人として生きることも大変なのです。

 神様は、ユダヤ人として従順に主の御言葉に聞き従おうとしているクリスチャンの思いを尊重するように、私たちも互いに尊重してゆきなさいと言われています。それぞれが大変な日々を送っています。主の平安を祈りましょう。

 週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。
 主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎