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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#49 使徒行伝15章6節~11節

2009-04-30 20:40:11 | 聖書
今夜と明朝の祈祷会は、を学びます。

前回、クリスチャンとなった異邦人たちに「割礼」が必要か否かの紛糾と争論がキリスト教会の中で生じたことの発端を学びましたが、

エルサレム教会において教会全体で話し合うことになり、使徒や長老たちなどが一同に介します。

アンテオケ教会からは使徒パウロとバルナバたちが出席し、

伝道旅行で受けた多くの恵みを分ち合い、神様が大いなる業を共にいてしてくださったことを

まず第一にエルサレム教会に報告しました。

先週は、この証しが重要であることをまなびましたが、

その後に本題である異邦人に「割礼」が必要か否かについて激しい争論があったと7節に記されています。

 様々な思いが交差し、それぞれの観点、つまりユダヤ人の立場に立つクリスチャン、

また異邦人の側と言いましょうか、異邦人たちと共に立つユダヤ人クリスチャンたちから多くの意見が述べられ、

議場は激論となったと想像します。

 その後に、使徒であり、エルサレム教会のリーダーであったペテロが立ち上がり、

彼の見解を述べます。

見解というよりも、彼は自分が体験したことを「証し」し始めるのです。

使徒ペテロの証しの内容は10章に記されています。

すなわち、カイザリヤのコルネリオというイタリヤ隊百卒長との出会い、

コルネリオとその親族や友人たち多くが

イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとなったこと、

その後にペテロの目前で彼らの上に聖霊が注がれたことです。

 聖霊の賜物が異邦人の上に注がれたという事実は、神様の御業です。

つまり、全知全能であられる主なる神様が、異邦人を愛し、救いへと招かれているという明確な証しです。

その事実を使徒ペテロは目撃しているのです。

 その体験から今回の議会での証しの間には、約10年の歳月がすでに経過しています。

しかし、つい先日体験したかのようにペテロは生き生きと証しをし、

「事実、神様は人を偏り見られる方ではない。

ユダヤ人に与えられた聖霊と力を同じく異邦人にも与えられ、彼らの心は清められた。

異邦人もユダヤ人同様、神の救いのご計画の中にある。

モーセの律法を負いきれない苦しみから

主イエス様という神様の愛と憐れみによって救われた私たちが、

どうして同じ苦しみを異邦人の兄弟姉妹に強いることができるでしょうか。

そのような行為は異邦人たちではなく、神を試みることになる。

そのようなことは止めて、

主を信じ、主の恵みに生きる異邦人の兄弟姉妹をそのまま受け入れましょう」

とエルサレム教会のユダヤ人クリスチャンたちにお勧めをするのです。

 使徒ペテロは自らが体験した10年前の異邦人伝道を通して、

「神は外見の割礼には興味がなく、

肉眼では見えない『心の割礼』が人々にあるか

を御覧になられる。」ことを思い起こして、

神様には「誰をどのような形でいつ救うかを決める自由」がお有りであるのに、

自分たちの考え、信念、都合を優先することは神様を試みることだと聞こえて来ます。

「心の割礼」とは、神の御言葉である主イエス・キリストに対して心を開き、

御言葉を素直に受け入れる従順さのことです。

 形式的・儀式的な外見の割礼や行いによって人は救われるのではなく、

私たち一人一人の心のうちにキリストがおられるかを神様が御覧になられ、

神様の憐れみよって救われるのです。

エレミヤ4:4と9:26、またロマ2:25以降をお読み下さい。

そこには、たとえ割礼を受けた人であっても、

主の御言葉に聞き従わない人は無割礼の者であって、

割礼は受けていないけれども、主の御言葉に聞き、そして従う人が神に喜ばれる、

心に割礼のある者であると言われているのです。

御言葉と聖霊によって内面をきよめていただきましょう。

 週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。

 主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#48 使徒行伝15章1節~5節

2009-04-22 18:15:21 | 聖書
 今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝15章1節~5節を学びます。

13章から14章までは使徒パウロとバルナバの第一回目の伝道旅行の出来事が記されていましたが、

各地で大胆に福音が語られ、多くの人々がイエス・キリストを救い主と信じましたが、同時にユダヤ人たちからの激しい迫害に苦しみました。

この伝道旅行でクリスチャンになった人々の大半は異邦人でしたが、この15章においてユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に隔たりが生じます。

どちらかと言うと、ユダヤ人クリスチャンたちが隔たりを作り出します。

この15章は使徒行伝のちょうど中間地点となりますが、エルサレム教会を中心としてなされてきたユダヤ人への福音宣教が、

アンテオケ教会を中心とする異邦人伝道へと移行してゆく分岐点ともなります。

 1節に「ある人たちがユダヤから下って来て、兄弟たちに『あなたがたも、モーセの慣例に従って割礼(かつれい)を受けなければ、救われない』と説い」たとありますが、

この「ある人」とは、24節にあるようにエルサレム教会とその使徒たち、長老たちの指示もないのに勝手にエルサレムからアンテオケ教会へ来て、

「クリスチャンとなるためにはまず割礼を受け、ユダヤ教へ改宗し、ユダヤ人となり、モーセの律法を守る義務がある」との持論を説く人々、

たぶん5節に登場する「パリサイ派から信仰に入ってきた人々と考えます。

割礼は律法を忠実に守る事であり、救いには必要不可欠だと主張するのです。

このことで紛糾と争論が彼らとパウロたちの間で生じます。

著者ルカはここで「モーセの慣例」と記します。

ユダヤ人と彼らで構成されるエルサレム教会は、ある意味で、まだユダヤ教の慣例、言い伝えに縛られていた事が判ります。

 大久保教会にも44年という歴史があります。

しかし、慣例の上に私たちの教会は建てられているのではなく、イエス様の十字架と復活の上に、この素晴らしい福音を信じる信仰の上に建てられています。

私たちが守らなければならない戒めはモーセの律法ではなく、イエス様の言葉、戒めです。

すなわち、神を愛し(礼拝)、隣人を愛し(伝道)、互いに愛し合う事(奉仕と交わり)です。

このことに忠実であるゆえに教会は成長するのです。

人々が作り出した伝統や慣例ではないはずです。慣例や伝統、言い伝えを重んじるユダヤ人クリスチャンたちが自分たちの考えを押し付けようとします。

私たちの生活でも様々に人々によって慣例や伝統が押し付けられ、強要される事があります。

しかし、大切なのは、神様の御旨なのです。

「割礼を受けなければ救われない」というのは人間の傲慢さの表れです。

人の行いとか儀式などによって私たちは救われるのではなく、イエス・キリストを贖い主、救い主と信じる信仰によって、神様の愛と恵みによって救われるのです。

 使徒パウロとバルナバは、この問題についてエルサレム教会と協議するために、

テトスを伴え(ガラテヤ2:1参照)てアンテオケ教会からエルサレムへの徒歩400キロの旅に出ます。

彼らはこの長旅を最大限に利用し、ピニケやサマリヤなど道すがらのクリスチャンの諸集会で異邦人伝道の大きな成果と

神様が共にいてなされた御業を詳しく説明しながらエルサレムへ上ります。

3節の「すべての兄弟たちを大いに喜ばせた」という事実は、彼らが異邦人たちの救いを受け入れ、喜んだということです。

すなわち、割礼という儀式や慣例を重んじるよりも、人々が救われたという主の御業を恵みと喜んだということです。

彼らは、エルサレムに到着しても、問題提議をまず最初にするのでなく、


4節にあるように「神が彼らと共にいてなされたことを、ことごとく報告/証し」するのです。


私たちの教会も、神様の恵みを証しすることを常に心がけたいですね。

まず、御言葉に聴くことと祈りから始めましょう。

 週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。

 主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ #47 使徒行伝14章19節~28節

2009-04-15 19:09:27 | 聖書
使徒行伝14章19節~28節から使徒パウロとバルナバの第一回目の伝道旅行の最終部分を学びます。

伝道旅行では、ピシデヤ・アンテオケ、イコニオム、ルステラなどで大胆に福音が語られ、多くの人々がイエス・キリストを救い主と信じましたが、同時にユダヤ人たちからの迫害に苦しみました。

今回は、イコニオムや160キロも離れたピシデヤ・アンテオケから迫害者がパウロたちを追いかけてルステラにきて、群衆をそそのかしてパウロを石で打ち、殺そうとするのです。

160キロもの道のりを何日もかけて追いかけてくる執念、とても恐ろしいですよね。

神様は私たちを人の命を奪う為に造られ生かして下さっているのではありません。

私たちは愛し合って、互いに生かし合うために、仕え合うために生かされているのです。私たちはそのような思いや時間や能力を人の命を狙ったり、奪うことに使わないで、人の命のために、神様の祝福が人々にあるようにとの働きのために私たちは使いたいですね。

迫害者たちに石で打たれてひん死の状態になった使徒パウロでしたが、命は守られました。

神様が守られたのです。

その理由は、神様にはパウロ先生をもっと用いる多くのご計画があったからです。

私たちが日々命が与えられていることにも神様の目的があります。

福音の種まき人として私たちを用いる事です。
イエス様の十字架と復活の証し人としてこの世につかわされているのです。
翌日パウロ先生たちはルステラを出て、デルベに向い、そこでキリストの福音を伝えます。
大勢の人が弟子となったとあります。

デルベという町は伝道旅行の中でも最も東南に位置し、パウロ先生たちを派遣したシリア・アンテオケ教会に最も近いのですが、パウロ先生たちは最短の道を通って帰ろうとはせずに、命の危険をも顧みずに伝道によって生まれたルステラ、イコニオム、ピシデヤ・アンテオケで救われた兄弟姉妹を再訪します。

自分たちの命よりも、新しくクリスチャンとして生まれた兄弟姉妹へのケアを最優先してゆくのです。

この姿勢は牧師である私が見習わなければならない大切なことです。

また大久保教会が成長する為に、新来者や求道中の方々、教会員への配慮が大切だという事です。

牧師と一緒にケア・配慮の一端を担っていただけないでしょうか。

ミニストリーチームに加わって下さい。またお祈りください。

21節から23節でパウロ先生とバルナバ先生は3つのことを各教会に戻ってしています。

1)弟子たちを力付けたと22節にあります。クリスチャンは一人では成長できません。
  互いの存在と励ましが不可欠なのです。

2)次に「信仰をもち続けるようにと奨励し」たとあります。

3)最後に教会に長老をリーダーとして任命しました。各教会にはリーダーが必要です。

今の日本には牧師が不在の教会・伝道所がたくさんあります。その群れの信仰が守られるようにお祈りましょう。

パウロ先生たちは奨励の中で「わたしたちクリスチャンが神の国に入るのには、多くの苦難を経なければならない」と語りました。

皆さんにもクリスチャンであるが故に苦難があると思います。

クリスチャンでなくても色々と人には言えない苦しみが多くあるでしょう。

しかし、クリスチャンとクリスチャンでない人には大きな違いが2つあります。

1つは「神の国へ招かれる」という永遠の祝福です。

もう1つは第二テモテ3:10-12にあります。迫害や苦しみから主が救い出してくださるという約束です。

この祝福の約束を信じて歩みましょう。

週の後半も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。

主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#46 ルカ福音書23章32節~56節

2009-04-09 10:17:54 | 聖書
受難週ですので、ルカ福音書23章32節~56節からイエス様の十字架の死について学びます。

イエス様は十字架上で7つの言葉を言われましたが、ルカにはそのうちの3つが記されています。

34節の「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」が最初です。

イエス様は私たちの罪/罪深さ/無知のために神様に執り成してくださっています。

この言葉は、主を十字架につけた者、主を嘲り、罵る罪人たちへの赦しの言葉でもあります。
罪人を愛し、赦す事なくして、このような執りなしの言葉を神様におっしゃることはできなかったでしょう。

私たちは、主イエス様に愛されているのです。

 第二は、43節の「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」です。

イエス様と共に十字架にかけられた犯罪人の一人が、自分の罪を認め、悔い改めたことに対する罪の赦しの宣言です。
どのような罪人であっても、どのような弱さがあっても、どのような卑しさがあっても、悔い改めるならば私たちは主イエス様によって罪赦された者となりえるのです。

このイエス様の言葉は、罪人であるために希望を失った人々への福音の言葉、愛の言葉です。

 第三は、46節の「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」という声高く叫ばれた言葉です。

人はイエス様の身体を十字架につけ、命を奪う事はできても、主イエス様の霊を奪い、そして殺す事はできないのです。
私たちは、私たちの命を奪うことはできても霊を奪うことのできない者を恐れます。

しかし、私たちに命と霊、そしてイエス様を通して永遠の命を与えると約束してくださる神様を畏れるべきなのです。

命も、霊も、そして地上で残された人生をも神様に委ねる時、永遠の祝福が私たちの上に惜しみなく注がれるのです。

 46節のイエス様の言葉は、神殿の聖所の幕が真ん中から裂けたと同時にありました。

この幕は祭司が入れる聖所と選ばれた祭司長と祭司しか入れない至聖所を隔てるために天井から下げられていた幕で、「隔ての幕」とも呼ばれ、13枚の布を合わせた厚い幕でした。
人間の力では裂くことの出来ないもの、しかし人間が作り出した弊害でした。
それが裂けた、いえ神様によって裂かれたのです。

イエス様が十字架上で流された血潮と贖いの死によって、神様と私たち人間の交わりが回復したことを象徴しています。

イエス様の十字架の力、愛の力によって破られたと言っても過言ではないでしょう。

ハレルヤ!主を讃美し、礼拝をささげましょう。

礼拝を大切にしましょう。

私たちは神様を、イエス様を礼拝する為に生かされているのです。

主の日の礼拝を大切にしましょう。
 
受難週の後半とイースターまでの日々も主が共にいて一人ひとりを守り導いて下さいますようにお祈り致します。

 主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎