大久保教会の兄弟姉妹へ 2011年1月19日
寒い日々が続きますね。お変わりないでしょうか。
主の伴いと恵みがあなたの上に豊かにあるよう祈ります。
*23日は派遣式を執り行います。
来週25日から2年間、タンザニアへ派遣される倉辻忠俊兄のために
今夜は、テサロニケ人への第一の手紙の最後の部分5章23節~28節を学びます。使徒パウロは、「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」と4章3節で云って、テサロニケの兄弟姉妹たちだけでなく、今の時代にキリスト者として召されている私たちが主の御前に清く生きてゆくことが求められていることを学びました。どのように歩んでゆけば私たちは神様に喜ばれる清い者として生きてゆけるかというアイデアをパウロは色々と手紙の中で示してくれました。しかし、いくら頭で理解していても、実行に移せないのが私たちです。どうしても肉体的・精神的弱さがあり、またたくさんの誘惑が私たちの周りにはあります。どうしてもこの世と妥協してしまう、せざるを得ないことがあります。私たちはそういう中で「自分にはそこまでできない」、「自分にはとうてい無理」と思い込み、自分の不甲斐なさを責めて教会から少し身を引いたり、少し距離を置くようになります。
しかし使徒パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちへの励ましの手紙を閉じるにあたり、キリストを主と信じるクリスチャンたちに大切なことを思い起こさせようとします。つまり私たちは「人間の努力や信仰だけでは神に喜ばれる者にはなれず、神様の御力が必要であり、神様が私たちを清くしてくださる」ということです。
パウロは、「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く清めて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にしてくださるように」と23節で神様に祈ります。ここに大切なことが二つ示されています。一つは「わたしたちを全く清めてくださるのは平和の神である」ということです。「全く」というのは「完全に、永遠に」という意味で「私たちを完全に清くし、永遠に清くして下さるのは平和の神である」ということです。「平和の神」の「平和」とは「神と一致、協和する」という意味です。ですから、私たちを清くしてくださり、神様と私たちを一致させ、協和させて下さるのは神様ご自身であられるということです。
私たちが清くなる事が神の御心であり、私たちが清くなるために御子さえも惜しまずに与えて下さった神様の愛と思いに対して、私たちも神様に対する愛と信仰の決意をもって誠実に応えてゆかなければなりません。神様が私たちを清めてくださると決心し、主イエス様によって実行に移して下さるのですから、私たちも主イエス様とご聖霊によって清められ、新しくされてゆくことに全幅の信頼をもって喜んで委ねてゆく決心が必要です。素晴らしい祝福が約束され、準備されているのですから、今のままの私でも神様は受け入れてくれるだろうという甘い考えを持つ事、今の信仰姿勢と応答で充分だと思い込んだり、自己満足に陥ってはいけないのです。
もう一つ示されていることは「神様ご自身がわたしたちの霊と心とからだを完全に守ってくださり、責められることのない者にしてくださる」ということです。「わたしたちの霊と心とからだ」とは、神様がわたしたちを全人的に、教会を全体的に捉えておられるということです。私たちは神様に愛され、守られて生かされています。私たちのうちに神の愛の霊、聖霊が与えられ、それによって守られています。自分の力だけでは神様の御前に責められることのない者にはなれません。ですから、主イエス様の十字架とその血潮によって清められ、イエス様の贖いの十字架と復活を信じる信仰によって清められ、義とされるというキリストの福音が私たちすべての人に与えられたのです。イエス・キリストを救い主と信じる者は、神様によって清められ、守られます。主にある者の将来、未来は祝福が約束されています。
24節に「あなたがたを召された方(神様)は真実なお方であるから、このことをしてくださる」と保証の言葉がつづられています。神様は真実であり、私たちに対していつも誠実です。神様は永遠に不変な愛の神です。私たちはこの真実なる神様の御前に喜ばれる存在として主イエス様に似る者へと変えられてゆく必要があります。神様に祈り求めれば神様は真実なるお方ですから必ず私たちを変えてくださいます。問題は、私たちが「主によって変えられたい。変わりたい」と切に主の愛を求めるか否かです。求める者に神様は必ず応えてくださいます。
パウロは「わたしたちのために祈ってほしい」と祈りの要請を25節でします。兄弟姉妹に祈ってもらうことの重要性を示します。互いのために祈り合うことが互いに愛し合うことであり、祈りによって一つとさせられることが示されます。「おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」というように、「おのおの自分のことばかりを祈るのではなく、兄弟姉妹や隣人のために祈る」ことによって私たちは神様に喜ばれる者へと変えられてゆくのではないでしょうか。
26節の「きよい接吻」は主にある(主を中心とした)親しい交わりを指しています。教会の一致は、イエス・キリストを通して神の愛を受けた者たちが互いに愛し合い、受け入れ合い、祈り合い、仕え合うことによってその中に神様の愛が働き、生み出されてゆきます。
27節に「この手紙を、みんなの兄弟姉妹に読み聞かせなさい」と命じられています。自分だけ聖書の御言に聴くだけでは教会は形づくられません。兄弟姉妹と共に聖書を読み、御言に聴き、御言に従ってゆく中で教会は形づくられます。
共に集って主に礼拝をささげ、共に聖書を読み、共に祈り、共に主と教会と隣人に仕えてゆく時に、神様の愛の大いなる力が働き、主イエス様のからだなる教会は建て上げられます。主を見上げて御言に聞き従ってゆきましょう。
「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」28節
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎
寒い日々が続きますね。お変わりないでしょうか。
主の伴いと恵みがあなたの上に豊かにあるよう祈ります。
*23日は派遣式を執り行います。
来週25日から2年間、タンザニアへ派遣される倉辻忠俊兄のために
今夜は、テサロニケ人への第一の手紙の最後の部分5章23節~28節を学びます。使徒パウロは、「神のみこころは、あなたがたが清くなることである」と4章3節で云って、テサロニケの兄弟姉妹たちだけでなく、今の時代にキリスト者として召されている私たちが主の御前に清く生きてゆくことが求められていることを学びました。どのように歩んでゆけば私たちは神様に喜ばれる清い者として生きてゆけるかというアイデアをパウロは色々と手紙の中で示してくれました。しかし、いくら頭で理解していても、実行に移せないのが私たちです。どうしても肉体的・精神的弱さがあり、またたくさんの誘惑が私たちの周りにはあります。どうしてもこの世と妥協してしまう、せざるを得ないことがあります。私たちはそういう中で「自分にはそこまでできない」、「自分にはとうてい無理」と思い込み、自分の不甲斐なさを責めて教会から少し身を引いたり、少し距離を置くようになります。
しかし使徒パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちへの励ましの手紙を閉じるにあたり、キリストを主と信じるクリスチャンたちに大切なことを思い起こさせようとします。つまり私たちは「人間の努力や信仰だけでは神に喜ばれる者にはなれず、神様の御力が必要であり、神様が私たちを清くしてくださる」ということです。
パウロは、「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全く清めて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にしてくださるように」と23節で神様に祈ります。ここに大切なことが二つ示されています。一つは「わたしたちを全く清めてくださるのは平和の神である」ということです。「全く」というのは「完全に、永遠に」という意味で「私たちを完全に清くし、永遠に清くして下さるのは平和の神である」ということです。「平和の神」の「平和」とは「神と一致、協和する」という意味です。ですから、私たちを清くしてくださり、神様と私たちを一致させ、協和させて下さるのは神様ご自身であられるということです。
私たちが清くなる事が神の御心であり、私たちが清くなるために御子さえも惜しまずに与えて下さった神様の愛と思いに対して、私たちも神様に対する愛と信仰の決意をもって誠実に応えてゆかなければなりません。神様が私たちを清めてくださると決心し、主イエス様によって実行に移して下さるのですから、私たちも主イエス様とご聖霊によって清められ、新しくされてゆくことに全幅の信頼をもって喜んで委ねてゆく決心が必要です。素晴らしい祝福が約束され、準備されているのですから、今のままの私でも神様は受け入れてくれるだろうという甘い考えを持つ事、今の信仰姿勢と応答で充分だと思い込んだり、自己満足に陥ってはいけないのです。
もう一つ示されていることは「神様ご自身がわたしたちの霊と心とからだを完全に守ってくださり、責められることのない者にしてくださる」ということです。「わたしたちの霊と心とからだ」とは、神様がわたしたちを全人的に、教会を全体的に捉えておられるということです。私たちは神様に愛され、守られて生かされています。私たちのうちに神の愛の霊、聖霊が与えられ、それによって守られています。自分の力だけでは神様の御前に責められることのない者にはなれません。ですから、主イエス様の十字架とその血潮によって清められ、イエス様の贖いの十字架と復活を信じる信仰によって清められ、義とされるというキリストの福音が私たちすべての人に与えられたのです。イエス・キリストを救い主と信じる者は、神様によって清められ、守られます。主にある者の将来、未来は祝福が約束されています。
24節に「あなたがたを召された方(神様)は真実なお方であるから、このことをしてくださる」と保証の言葉がつづられています。神様は真実であり、私たちに対していつも誠実です。神様は永遠に不変な愛の神です。私たちはこの真実なる神様の御前に喜ばれる存在として主イエス様に似る者へと変えられてゆく必要があります。神様に祈り求めれば神様は真実なるお方ですから必ず私たちを変えてくださいます。問題は、私たちが「主によって変えられたい。変わりたい」と切に主の愛を求めるか否かです。求める者に神様は必ず応えてくださいます。
パウロは「わたしたちのために祈ってほしい」と祈りの要請を25節でします。兄弟姉妹に祈ってもらうことの重要性を示します。互いのために祈り合うことが互いに愛し合うことであり、祈りによって一つとさせられることが示されます。「おのおの自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい」というように、「おのおの自分のことばかりを祈るのではなく、兄弟姉妹や隣人のために祈る」ことによって私たちは神様に喜ばれる者へと変えられてゆくのではないでしょうか。
26節の「きよい接吻」は主にある(主を中心とした)親しい交わりを指しています。教会の一致は、イエス・キリストを通して神の愛を受けた者たちが互いに愛し合い、受け入れ合い、祈り合い、仕え合うことによってその中に神様の愛が働き、生み出されてゆきます。
27節に「この手紙を、みんなの兄弟姉妹に読み聞かせなさい」と命じられています。自分だけ聖書の御言に聴くだけでは教会は形づくられません。兄弟姉妹と共に聖書を読み、御言に聴き、御言に従ってゆく中で教会は形づくられます。
共に集って主に礼拝をささげ、共に聖書を読み、共に祈り、共に主と教会と隣人に仕えてゆく時に、神様の愛の大いなる力が働き、主イエス様のからだなる教会は建て上げられます。主を見上げて御言に聞き従ってゆきましょう。
「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」28節
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎