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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

コロサイ人への手紙2章1節~5節

2010-05-17 19:27:31 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年5月19日

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙2章1節~5節を学

びます。使徒パウロは、1節で、まだ直接に会った事のないコロサイ教会とその姉妹教会のラオデキア教会のために、「どんなに苦闘しているか、分かってもらいたい」と訴えます。1:29にも「苦闘」という言葉が記されていましたが、この「苦闘」という言葉から、パウロがいかにコロサイとラオデキア教会の兄弟姉妹を大切に思い、彼らのために日夜祈り続けていたか分かります。また、パウロがいかにコロサイとラオデキアの主にある兄弟姉妹たちにイエス・キリストという「神の奥義」、真理を伝えたかったのかという情熱が伝わってきます。たとえ遠く離れていても、彼らのために祈り、励まし、心から仕えたいというパウロの真剣な思いが伝わってきます。もしコロサイとラオデキア教会のことをパウロがそこまで愛していなかったら、どうでも良かったら、彼は苦闘することはなかったでしょう。パウロは、まだ会った事もない兄弟姉妹たちのことを大切に思い、彼らのために祈り、手紙によってイエス・キリストという真理を伝えようとしたのです。今回は、「苦闘」ということから大久保教会の皆さんと二つのことを実践したいです。

まず、共に大久保教会のために「苦闘」しましょう。大久保教会の兄弟姉妹、子どもたち、求道者の方々、地域の人々のことを大切に思い、その人々のために日夜祈り続け、イエス・キリストという神の愛=「神の奥義」、福音を伝えてゆきましょう。これは強制ではなく、神様から委ねられている私たちの使命であり、主からの恵みです。たとえ教会に戻って来る事が様々な事情でままならなかったり、週に一度であったり、仕事があって祈祷会に出席できなくても、諦めずにまずそれぞれの場で祈りましょう。心を合わせましょう。それぞれの場にあって最大限の努力をしてみましょう。それが「苦闘」ではないでしょうか。また、「命」、「健康」、「時間」、「才能」、「富」など、神様から頂いている賜物は様々ありますが、それらを主のために聖別し、信仰をもって主にささげてゆきましょう。それは大変苦しいことかもしれません。しかし、それが「信仰の苦闘」ではないでしょうか。


 もう一つの「苦闘」、それは神学校と世界宣教を覚えて祈り、信仰をもってささげてゆくということです。私たちは、東京バプテスト神学校より教会実習生としてI兄を9月までお迎えしています。しかし、西南学院大学神学部や東京バプテスト神学校で学ばれている他の神学生たちとの面識はありません。また、世界祈祷週間の時に海外の宣教の働きのために祈り、献金をささげますが、インド・プリ子どもの家の子どもたちやスタッフ、タイやインドネシア、ルワンダの兄弟姉妹に会ったこともありません。しかし、その人々を大切に思い、覚えて祈り、イエス・キリストの福音を伝える働きのために信仰をもってささげてゆくこと、それが「信仰の苦闘」ではないでしょうか。
大久保教会のことがどうでも良ければ、苦闘する必要はありません。

アジアやアフリカの人々のことがどうでも良ければ苦闘する必要もありません。

しかし、私たちの救い主、イエス・キリストの苦闘、十字架の贖罪の死と復活を信じ、感謝し、喜ぶ者は、神様の愛しておられる人々、主の教会の兄弟姉妹のために苦闘するようにと招かれています。主がその命をささげて下さったように、私たちが自分をささげてゆくようにと招かれています。その始めの一歩が「祈る」ということです。


パウロは自分自身の「苦闘」は、コロサイ教会の兄弟姉妹をはじめ、全世界の人々がイエス・キリストの福音とその力によって「心が励まされ、神の愛によって結び合わされ、豊かな理解力がじゅうぶんに与えられ、神の奥義なるキリストを知るに至るため」(2節)であると言っています。主の栄光のために、隣人のために私たち一人ひとりにできる「苦闘」とは何でしょうか。祈り求めましょう。


週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


コロサイ人への手紙1章24節~29節

2010-05-12 19:23:19 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年5月12日

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙1章24節~29節を学びます。この箇所にはたくさん学ぶべきことが記されています
が、24節の「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている」という言葉に今回は集中したいと思います。もう一度この24節をお読み下さい。ここに注目すべき2つのポイントがあります。1)パウロの苦難と2)「キリストの苦しみのなお足りな
いところを」というポイントです。


使徒パウロの苦難ということですが、このコロサイ教会へ手紙を記している最中も、パウロはローマで囚われの身、軟禁状態でしたし、使徒として主と教会に仕えている間に数々の苦難を経験してきました。使徒としての苦労の多さ、投獄とむち打ちと死に直面した回数が2コリント11:23–27に記されています。一つひとつは大きな苦しみであったでしょう。

しかし、パウロはそれらの苦難を「喜んで受けている」と言います。


それは、「コロサイ教会のため、キリストのからだなる教会のために」と言っています。
私たちも日々の生活で、また教会生活をしてゆく上で苦労や困難があります。現在の大久保教会では、限られた教会員と執事たちが複数の奉仕をそれぞれ担ってくれています。これはとてもしんどいこと、大変なことです。時には「もう投げ出してしまいたい」と思う事もあるでしょう。「私の苦労は何のために?」ということが分からないとくじけるだけで、喜びなどわ
き上がってきません。しかし、パウロは苦難を喜ぶと言います。彼自身は自分の苦難の意味、目的をはっきり理解していました。それはコロサイ教会をはじめ異邦人教会と異邦人の兄弟姉妹のため、またキリストのからだなる教会のために働いていると自分の使命を理解して、神様からの「召し」を喜び、たとえ苦労と困難が多くとも、この働きを心から喜んだのです。

先に申しました様に、現在の大久保教会では限られた兄弟姉妹が複数の奉仕を担っています。本当にアップアップの状態であります。大久保教会のすべての人が喜びに満たされ、共に礼拝をささげ、共に伝道をし、共にキリストのからだなる教会を建て上げてゆくためにご協力をお願いできないでしょうか。あなたの賜物をささげていただけないでしょうか。この事に関してお祈り下さい。
さて、「キリストの苦しみのなお足りないところを」とはどういう意味でしょうか。私たちの罪を贖うためには「主イエス様の十字架の苦しみが足りなかった」ということでしょうか?
そうではありません。主の十字架の贖いは充分すぎる救いの業です。ここでパウロが伝えたかったことは、主の十字架の苦しみ、贖罪の意味をユダヤ人も異邦人も分かっていない、理解が「足りない」という意味だと思います。

パウロが何故これほどまでに苦難に遭わなければならなかったのか。それはパウロがイエスこそ神の子、キリスト・メシアだと宣べ伝え、ユダヤ人が受けるべき神の救い、恵みを異邦人にまで分け与えようとしたからであり、異邦人たちも福音に対して心を開く人が少なかったからです。しかし、パウロはくじける事なく、諦める事なく、神の言葉であるキリストの福音を
伝え通したのです。イエス様は、私たちの救い主であり、私たちの栄光の希望です。28節で使徒パウロは自分の使命をこのように言い表しています。「わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵をつくしてすべての人を訓戒し、また、すべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として立つようになるためである。」また「わたしはこのために、わた
しのうちに力強く働いておられる方(キリスト)の力により、苦闘しながら努力しているのである」と29節で言っています。クリスチャンとして主と隣人と教会に仕える時、苦難が伴いま
す。しかし、その顧みは大きく、栄光に富んだものなのです。

共に祈りつつ、キリストのからだなる教会の形成のために仕えましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


コロサイ人への手紙1章21節~23節

2010-05-05 19:12:49 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年5月5日
連休の最終日、いかがお過ごしでしょうか? まだ旅先にある方もおられるかもしれません。主の恵みと平安とがあなたの上にあるように祈ります。
今朝、立夏の日の朝に嬉しいことがありました。気持の良い朝でしたので、草取りと草木に水やりをしていたのですが、教会前でデジカメを手にした80代前半のお父さんと50代後半の息子さん親子と出会いました。今から50年ほど前に富士銀行(現在のみずほ銀行)の社宅に住み、その当時はまだ教会組織も会堂も建築されていませんでしたが、ハロウェー宣教師時代の集会に少し来られていたそうです。息子さんはきれいな色の卵をもらったことを今でも鮮明に覚えていると言ってらっしゃいました。イースターエッグですね。

40周年記念誌をお見せしたりして、お話しが弾み、嬉しい恵みの時間を過ごしました。


この箇所は大きく2つに分ける事ができます。

21節は、クリスチャンとなる前のコロサイ人たちの状態。

22~23節はクリスチャンとされている現在の状態です。

23節後半は現状維持をどうするかが記されています。


イエス様を救い主と信じる前の異邦人・コロサイ人たちは、「神から離れて悪い行いをし」、「心の中で神に敵対して」いる状態であったと使徒パウロは21節で言います。「神から離れて」とは、「神の恵み、祝福の外側にいた」という意味です。
「心で神に敵対する」というのは、性質的に神の御心を行わないで、自分の好き勝手をして生きる」状態を意味しています。
これは主イエス様によって贖われる前の状態でした。

けれども、御子である主イエス・キリストが救いの業を始め、イニシアティブ・主導権をもって下さって、十字架の死によって「あなたがたを神と和解させた」とパウロは現在の恵みは
すべて神とイエスから始まったと語ります。22節に「御子は1)その肉のからだにより、2)その死をとおして、あなたがたを和解させ」とありますが、ここで大切なことは、「主イエス様のからだの犠牲が私たちの救いのためにあった」ということです。グノーシス派はイエス様は肉体を持っていなかったと主張しましたから、パウロは反論すると同時に、主の身体の犠牲があったと言いたかったのでしょう。また、私たちの主は、その身体を犠牲にして私たちを救ってくださったのですから、あなた方も身体を主にささげ、心と身体をもって仕えなさいと言われているようです。もう一つ大切な「死をとおして」とは、主イエス様は「現実に犠牲となってくださり、また完全なる犠牲」であるとのパウロの主張です。「身体、血潮、死」は犠牲の完全なる性質を表す言葉です。主の晩餐式で心に刻む主の恵みです。

主が与えて下さった神様との和解の目的とは何でしょうか。
それは主イエス・キリストにあって、その信仰によって、私たち一人ひとりが神の御前に「聖なる、傷のない、責められるところのない者」と立つことです。これは私たちにできることではなく、ただ神の憐れみ、恵みによって与えられるものです。

パウロは23節で、「あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである」と勧め励まします。神の憐れみ、恵みによって罪ゆるされ、救われ、喜びと平安と希望の内に生かされていることを感謝(礼拝と証し)し、神様との交わり(御言に聴く時間と祈りの時間)を大切にし、神様
の愛の証し人、福音の喜びを伝える者(伝道)として共に神と隣人と教会に仕えてまいりましょう。


週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎