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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

コロサイ人への手紙1章15節~20節

2010-04-28 19:08:15 | 聖書

コロサイ教会はイエス・キリストを救い主と信じる信仰に立ち、キリストに根ざした「愛」をもって互いに愛し合い、キリストのからだとして「成長」し、神が望んでおられる「実」を結んでいる教会でしたが、異教の影響が強い地域に建てられた教会で、特殊な世界観と救済論をもつグノーシス派の考えが入り込んで来ていました。そのような異端的な教えに対して、使徒パウロはキリスト教の福音、真理とは何かを明らかにしようとコロサイ教会の兄弟姉妹に手紙を書きます。そしてイエス・キリストとはどのようなお方であるかをここで説き明かすのです。


パウロは15節で「御子イエス・キリストは、見えない神のかたちであり、すべての造られたものに先立って生まれた方である」と主張します。第一にキリストは目に見えない神を完全に
啓示される方であり、第二にキリストは神の被造物ではなく、神の子としての特権を持つ方であると主張します。創造主であられるのです。


16節では、「いっさいのものは御子によって造られ、御子はすべてを統括する方であり、すべてのものは御子のために造られた」とあります。私たちは「イエス・キリストのために造ら
れた」とはどういう事でしょうか。私たちは神を愛する者として造られ、神に愛され、生かされている存在であります。それは神と隣人を愛し、神と人に仕えるため、キリストの福音を伝
えるためであります。

17節では「万物は御子にあって成り立っている」と言います。イエス・キリストはすべてを創造しただけでなく、万物を保持し、成り立たせておられる方だとパウロは主張するのです。
主イエス様は私たちといつも共にいて下さり、私たちを豊かなる神の愛によって支えて下さっています。主の恵みと伴いなしに私たちは自分の力だけで生きてゆく事はできないのです。罪人である私たちが救われるために、主イエス様は十字架に架かり死んで下さり、三日目に復活されました。

18節では、そのキリストは「そのからだなる教会のかしらである」と主張します。大久保教会の頭はキリスト・イエスです。この主に命じられ、委ねられたことを忠実に行ってゆく事が求められています。教会は主イエス様の新しい創造の業です。教会は主イエス様の十字架の贖いと復活によって創造され、その教会に聖霊の息が吹き込まれて誕生したことを覚え、感謝しましょう。

19節で、「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ち満ちた徳を宿らせた」とパウロは兄弟姉妹に言います。グノーシス派は「キリストは神かもしれないが、人であったのも事実
だから完全な神ではなく、神と人間の中間的存在である」という考えを持っていましたが、それに対してパウロは「イエス・キリストには満ち満ちた神の本質、完全なる神の本質をもつお
方である」と反論したのです。

20節では、キリストは「その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち地にあるもの、天にあるものを、ことごとく神と和解させてくださった」と告白します。イエス・キリストによって創造された私たち人間は、罪を犯し、神に敵対する者となり、神と私たちとの間には越える事のできない溝ができてしまったが、両者の間を和解するために神が十字架の出来事
をお越し、イエス様によって神との平和が回復された、これこそキリストの福音であると解き明かしをするのです。十字架と復活の福音を私たちが日々出会ってゆく人々に伝えてゆきましょう。

週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


コロサイ人への手紙1章9節~14節を学び

2010-04-21 18:48:14 | 聖書

使徒パウロはコロサイ教会の信仰と、

互いに愛し合う愛 と福音に聞き従って実を豊かに結んでいることを神様に感謝した後、

9節からコロサイ教会のためにお祈りをします。

パウロ が神様に祈り求めたことは、コロサイ教会の兄弟姉妹が

1)霊 的な知恵と理解力とをもって神の御旨を深く知り、

2)主の御 心にかなった生活をして真に主を喜ばせ、

3)善い業を行って 実を結び、

4)神を知る知識が増し加えられ、

5)神から賜る 力によって強くされ、

6)何事も喜んで耐えかつ忍び、

7)ク リスチャンとなり、聖徒の特権にあずかる者として下さった神 様に感謝することです。

   霊的な知恵と理解力は、神様から与えられるものであり、神様に求めるものです。

この霊的知恵と理解力は神様から与えら れますが、

私たちの至福のために用いるものではなく、

神様の 御旨を知り、その御旨に応答して生きるためのものです。

そし てこの霊的知恵と理解力は

神様との個人的・深く親しい交わり の中で与えられるものです。

私たちクリスチャン一人ひとりの 神様に対する責任は、

神様がご自身の御心をあらわされる環境 の中に自分自身を置くことです。

ですから、礼拝と諸集会に出 席すること、

御言葉を読む時、

祈る時を大切にしなければなり ません。

礼拝をささげることで主の御前に自身を置くのです。

それがないと霊的成長がなく、神様の求めておられる実を結ぶ事ができなくなります。

不健康な信仰生活は、信仰を蝕み、い つか神様の恵みから離れて、

与えられた信仰を捨てる事になり かねません。

礼拝をささげることと主と隣人と教会に忠実に仕 えることを大切にしましょう。

霊的成長と神様を個人的にもっ と良く知るベストな方法、

それは信仰をもって神様と教会を愛 し、

忠実に仕えることなのです。

自分を顧みず、主と教会と隣 人に仕えてゆく時に、

神様はあわらしてくださり、御心を示し て下さいます。

神の御心を求めて歩む者に、3つの祝福が神様から与えられ ます。

1)クリスチャンとして成長し続ける恵みに与る。

2) 神様から力与えられて耐え、忍ぶことができる。

耐えるとは、 試練や試みに信仰をもって耐えるということです。

忍ぶとは、 試みる人々に愛をもって忍耐するということです。

3)神様に 感謝し続ける人生、神様の恵みの中で生かされ続けます。

私た ちが神様に感謝する3つの恵みが13節と14節に記されています 。

1)闇の力から救い出され、

2)御子イエス様の支配下に移 され、

3)この御子によって贖われ、罪の赦しを受けて生かさ れています。

悩みや悲しみよりも、数えきれないほどの恵みを

日々わたしたちは神様からイエス様を通して受けています。

いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝して歩みましょう 。

 

週の後半の日々も主の導きとお守 りがあるようにお祈り致します。

主に在りて  大久保教会牧師 河野信一郎


コロサイ人への手紙 1章1節から8節

2010-04-14 18:40:22 | 聖書

コロサイ教会は、 エパフラスという伝道者によって開拓された教会で、

パウロは コロサイ教会の兄弟姉妹に会った事はありません。

しかし、パ ウロは弟子テモテとの共同作業で彼らに手紙を出します。

パウ ロたちは挨拶の後、コロサイ教会のことで神に感謝し、祈って いると言います。

エパフラスを通して「福音」を聞き入れて以 来、

コロサイ教会の兄弟姉妹はイエス・キリストを信じる信仰 に立ち、

キリストに根ざした「愛」をもって互いに愛し合い、

キリストのからだとして「成長」し、

神が望んでおられる「実 」を結んでいると聞きます。

コロサイ教会は、健康な教会であ ったのです。

キリストを救い主と信じる信仰に堅く立ち、

神と救い主イエ スを心から愛し仕え、

兄弟姉妹の中で互いに愛し仕え、

そして 「福音」を隣人に伝えることで多くをキリストに導き、

教会の 家族に加えていった。

それが彼らの結んだ「実」です。

私たちも健康な教会へなるように、

神とキリスト・イエスを 愛し、

隣人を愛し、

福音の種まきを続けましょう。

主を信じ、 主の声に聞き従い、

互いに愛し合う事で隣人たちに証ししてゆ きましょう。

主の日の礼拝を守り、

日々聖書を読み、

いつも喜 び、

たえず祈り、

すべてのことに感謝しましょう。

大久保教会でも苦しみの中にある方々が多くおられます。

上 記の「教会の祈り」にある方々だけでなく、

他にも祈りを必要 としている方々が多くおられます。

キリスト教会の特色の一つ は、

「他の人のために祈る」こと、

「私たちが人のためにでき る最大のことは、祈ることではないか」と

榎本保郎牧師は言っ ています。

確かに「祈る」ことは隠れたクリスチャンの業です

から人から感謝されるものではありませんが、

しかし「一生懸 命に祈ることは、

価を求めないで愛していくということ」その ものとも

榎本牧師は言っていました

私たちも互いに祈り合う ことから始めましょう。

週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致し ます。

主に在りて  大久保教会牧師 河野信一郎


木曜 聖書の学び 4月15日より

2010-04-01 14:24:59 | 聖書
現代を生きる、わたしたちの学び

聖書の信仰と祈りと知恵

木曜:聖書の学び

午前10時30分~12時

4月15日より

大久保バプテスト教会 協力牧師 牧野伊



大きな事を成し遂げるために 
力を与えてほしいと神に求めたのに  
謙虚を学ぶようにと弱さを授かった  


より偉大なことができるようにと健康を求めたのに 
より良きことができるようにと病弱をあたえられた 

幸せになろうとして富を求めたのに
 賢明であるようにと貧困を授かった  

世の人の称賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった

 求めた物は一つとして与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられた

 神の意に添わぬ物であるにかかわらず  
心の中で言い表せないものは全て叶えられた 

私はあらゆる人の中で  
最も豊かに祝福されていたのだ




河野牧師不在の時、「木曜、聖書の学び」をすることになりました。

わたしは、歳を重ねる今、

過ぎてきた人生を振り返り、私は何をしてきたのだろうと反省し、

また残されるわずかな時間に何をしなければならないのかと自問しています。

どの人もこの世に生まれ、この世を去るまでの生涯は、

誕生という始めと、死という終わりとに区切られる限られた人生であります。

人の生は、誰も限られた制を生きるのですが、
その中で様々なことが起こり、いろんなことを人は経験するのです。

もちろん、嬉しいこと、幸なことだけが待っているとは限らないし、
苦しいこと、悲しいことも起こるのです。

でも人は、それらのことを前もって決めていくことは出来ないのです。

私たちはどのように、それらに対処したらよいか、
そこに、宗教・信仰という事が生の根源として、
私に、あなたに問い掛けてくるはずです。

イエスは「悲しむ者は、幸いである。あなたは慰められるであろう」と云われ

悲しむ者を、幸いとしてしまう。

逆説(そんなばかなといわれる)言葉で語りました。

上に揚げた詩は、まさに逆説の幸いです。

主イエスの言葉は、きっと、私たちの貧しい心を豊かにされます。

そのように聖書を学び、真実の幸いを受け取りたいのです。

混迷に満ちた世ですから、なおさらに、私たちを生かす聖書の言葉を学びたい。

どなたでもいらしてください。教会は「扉」をあけています。