コロサイ教会はイエス・キリストを救い主と信じる信仰に立ち、キリストに根ざした「愛」をもって互いに愛し合い、キリストのからだとして「成長」し、神が望んでおられる「実」を結んでいる教会でしたが、異教の影響が強い地域に建てられた教会で、特殊な世界観と救済論をもつグノーシス派の考えが入り込んで来ていました。そのような異端的な教えに対して、使徒パウロはキリスト教の福音、真理とは何かを明らかにしようとコロサイ教会の兄弟姉妹に手紙を書きます。そしてイエス・キリストとはどのようなお方であるかをここで説き明かすのです。
パウロは15節で「御子イエス・キリストは、見えない神のかたちであり、すべての造られたものに先立って生まれた方である」と主張します。第一にキリストは目に見えない神を完全に
啓示される方であり、第二にキリストは神の被造物ではなく、神の子としての特権を持つ方であると主張します。創造主であられるのです。
16節では、「いっさいのものは御子によって造られ、御子はすべてを統括する方であり、すべてのものは御子のために造られた」とあります。私たちは「イエス・キリストのために造ら
れた」とはどういう事でしょうか。私たちは神を愛する者として造られ、神に愛され、生かされている存在であります。それは神と隣人を愛し、神と人に仕えるため、キリストの福音を伝
えるためであります。
17節では「万物は御子にあって成り立っている」と言います。イエス・キリストはすべてを創造しただけでなく、万物を保持し、成り立たせておられる方だとパウロは主張するのです。
主イエス様は私たちといつも共にいて下さり、私たちを豊かなる神の愛によって支えて下さっています。主の恵みと伴いなしに私たちは自分の力だけで生きてゆく事はできないのです。罪人である私たちが救われるために、主イエス様は十字架に架かり死んで下さり、三日目に復活されました。
18節では、そのキリストは「そのからだなる教会のかしらである」と主張します。大久保教会の頭はキリスト・イエスです。この主に命じられ、委ねられたことを忠実に行ってゆく事が求められています。教会は主イエス様の新しい創造の業です。教会は主イエス様の十字架の贖いと復活によって創造され、その教会に聖霊の息が吹き込まれて誕生したことを覚え、感謝しましょう。
19節で、「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ち満ちた徳を宿らせた」とパウロは兄弟姉妹に言います。グノーシス派は「キリストは神かもしれないが、人であったのも事実
だから完全な神ではなく、神と人間の中間的存在である」という考えを持っていましたが、それに対してパウロは「イエス・キリストには満ち満ちた神の本質、完全なる神の本質をもつお
方である」と反論したのです。
20節では、キリストは「その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち地にあるもの、天にあるものを、ことごとく神と和解させてくださった」と告白します。イエス・キリストによって創造された私たち人間は、罪を犯し、神に敵対する者となり、神と私たちとの間には越える事のできない溝ができてしまったが、両者の間を和解するために神が十字架の出来事
をお越し、イエス様によって神との平和が回復された、これこそキリストの福音であると解き明かしをするのです。十字架と復活の福音を私たちが日々出会ってゆく人々に伝えてゆきましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎