みことば:「兄弟たち、ならびに父たちよ、今から申し上げる私の弁明を聞いて下さい」22章1節 岩波訳
自分に対して不信の念を抱くユダヤの同胞たちに、自分はモーセの律法を厳守している者だという事を証明しようと、使徒パウロはエルサレム教会の長老・ヤコブの助言に従い、「ナジル人の誓願」を立てた4人と一緒に神殿で清めに与りましたが、そのような人間的工作は失敗に終わりました。失敗に終わったのはパウロに原因があったのではなく、パウロに対する「憎しみ」がユダヤ人たちにあったが故であると先週学びました。パウロは今度、言葉によって「弁明、証し」するのです。ある意味においては、22章からの残りの使徒行伝はパウロの弁明であると理解しても良いでしょう。
ユダヤ人の暴徒たちの魔の手からローマ兵たちによって救い出された使徒パウロがここにいます。神様が異邦人を用いてパウロの命を守られたのです。パウロは、暴徒たちによって殴られたり、蹴飛ばされたり、石で打たれたりと多くの傷を負っていたのではないでしょうか。神を信じている人々が、同じく神に造られ、命与えられている者の命を奪おうとする。私たちにとっては非常に恐ろしいことであり、神様には悲しみではないでしょうか。被害者のパウロは、この時、心に何を感じていたのでしょうか。パウロの身体は傷つき、痛んでいましたが、彼の心は傷ついてはいませんでした。むしろ、彼の心には自分を傷つけ、自分の命をも奪おうとする者たちのために祈り、彼らを愛していたのではないかと感じます。そうでなかったら、「もう一度、ユダヤの人々に弁明をさせてほしい」とローマ兵に願い出なかったでしょうし、加害者たちに対して「兄弟たち、ならびに父たちよ」と呼びかけることはできなかったでしょう。お恥ずかしいですが、今の私には、パウロのような愛がありません。自分を傷つけ、命を奪おうとする者たちのために祈り、また「兄弟姉妹たちよ、父母よ」などと口が裂けても言えない。そのような人たちから出来るだけ素早く逃げ、身を隠す事を第一に考えます。そこにクリスチャンとしての私の弱さがあるのだと思います。しかし、なぜパウロにはそのようにできたのでしょうか。ローマ12:14に「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、呪ってはならない」とパウロ自身が言っていますが、彼は自分の言葉をただ守ったのでしょうか。そうかもしれません。しかし、パウロは救い主イエスが来られたのに心を頑なにして救い主を受け入れない、信じないユダヤ人の同胞の救いを最後の最後まで諦めずに祈り続け、また彼ら愛し続け、彼らにも神様の憐れみと救いが必要だと強く感じていたからではないでしょうか。
使徒パウロはユダヤの同胞たちに対して、1)自分は厳正な正統派ユダヤ人として教育を受け(3-4節)、2)「この道」=キリスト教を迫害する者であったけれどもダマスコ途上で救い主イエスに出会って回心し(5-16節)、3)主から異邦人への伝道の委託を受けた事(17-21節)を話します。
この証しの中で、自分はクリスチャンたちを迫害して来た張本人であることを告白します。また、ダマスコに隠れているクリスチャンたちを捕らえに行く途中に、真っ昼間にも関らず、突然、天から強烈な光が自分を照らしたので地面に倒れてしまったが、そのような私に主が直に語られたとパウロは言います。このまばゆい光によってパウロは盲目なり、アナニアが彼を訪ねて彼のために祈るまで、パウロは闇の中に置かれます。しかし、この闇を経験する中で、先頭に立ってクリスチャンを迫害して来た自分に主が憐れみ、罪を赦し、新しい使命を与えられることに驚き、主の憐れみ、愛の力によって心が砕かれていったと証しします。主イエス様が「私はお前を遠くの異邦人のもとに遣わすからそこへ行け」と命じてくださったと異邦人伝道に召し出されたことを証しするのです。
自分を憎み、自分の命を狙うユダヤ人たちを「兄弟姉妹、父母」と呼べたのは、「私のような罪人が主の憐れみによって救われたということを思う時、どんな人でも、すべての人が救われると信ぜずにはいられない」とパウロは心から感じていたから、そのように呼びかけることができたのではないでしょうか。榎本保郎牧師は、「あんな人はだめだ(あんな人は救われない)などと考える人は、(自分自身が)神の前におけるみじめな自分であるかを忘れている人である」と言っています。人ではなく、今日、主イエス様を自分がどのように向き合っているかを考えてみましょう。また、神様の憐れみ、恵みによって、主イエス様によって罪赦された自分である原点にいつも戻るようにさせていただきましょう。その時、私たちを苦しめる人のために祈り、主から助けられて相手を赦し、敵と思う人を愛してゆけるのだと今回の箇所から示されます。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎
自分に対して不信の念を抱くユダヤの同胞たちに、自分はモーセの律法を厳守している者だという事を証明しようと、使徒パウロはエルサレム教会の長老・ヤコブの助言に従い、「ナジル人の誓願」を立てた4人と一緒に神殿で清めに与りましたが、そのような人間的工作は失敗に終わりました。失敗に終わったのはパウロに原因があったのではなく、パウロに対する「憎しみ」がユダヤ人たちにあったが故であると先週学びました。パウロは今度、言葉によって「弁明、証し」するのです。ある意味においては、22章からの残りの使徒行伝はパウロの弁明であると理解しても良いでしょう。
ユダヤ人の暴徒たちの魔の手からローマ兵たちによって救い出された使徒パウロがここにいます。神様が異邦人を用いてパウロの命を守られたのです。パウロは、暴徒たちによって殴られたり、蹴飛ばされたり、石で打たれたりと多くの傷を負っていたのではないでしょうか。神を信じている人々が、同じく神に造られ、命与えられている者の命を奪おうとする。私たちにとっては非常に恐ろしいことであり、神様には悲しみではないでしょうか。被害者のパウロは、この時、心に何を感じていたのでしょうか。パウロの身体は傷つき、痛んでいましたが、彼の心は傷ついてはいませんでした。むしろ、彼の心には自分を傷つけ、自分の命をも奪おうとする者たちのために祈り、彼らを愛していたのではないかと感じます。そうでなかったら、「もう一度、ユダヤの人々に弁明をさせてほしい」とローマ兵に願い出なかったでしょうし、加害者たちに対して「兄弟たち、ならびに父たちよ」と呼びかけることはできなかったでしょう。お恥ずかしいですが、今の私には、パウロのような愛がありません。自分を傷つけ、命を奪おうとする者たちのために祈り、また「兄弟姉妹たちよ、父母よ」などと口が裂けても言えない。そのような人たちから出来るだけ素早く逃げ、身を隠す事を第一に考えます。そこにクリスチャンとしての私の弱さがあるのだと思います。しかし、なぜパウロにはそのようにできたのでしょうか。ローマ12:14に「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、呪ってはならない」とパウロ自身が言っていますが、彼は自分の言葉をただ守ったのでしょうか。そうかもしれません。しかし、パウロは救い主イエスが来られたのに心を頑なにして救い主を受け入れない、信じないユダヤ人の同胞の救いを最後の最後まで諦めずに祈り続け、また彼ら愛し続け、彼らにも神様の憐れみと救いが必要だと強く感じていたからではないでしょうか。
使徒パウロはユダヤの同胞たちに対して、1)自分は厳正な正統派ユダヤ人として教育を受け(3-4節)、2)「この道」=キリスト教を迫害する者であったけれどもダマスコ途上で救い主イエスに出会って回心し(5-16節)、3)主から異邦人への伝道の委託を受けた事(17-21節)を話します。
この証しの中で、自分はクリスチャンたちを迫害して来た張本人であることを告白します。また、ダマスコに隠れているクリスチャンたちを捕らえに行く途中に、真っ昼間にも関らず、突然、天から強烈な光が自分を照らしたので地面に倒れてしまったが、そのような私に主が直に語られたとパウロは言います。このまばゆい光によってパウロは盲目なり、アナニアが彼を訪ねて彼のために祈るまで、パウロは闇の中に置かれます。しかし、この闇を経験する中で、先頭に立ってクリスチャンを迫害して来た自分に主が憐れみ、罪を赦し、新しい使命を与えられることに驚き、主の憐れみ、愛の力によって心が砕かれていったと証しします。主イエス様が「私はお前を遠くの異邦人のもとに遣わすからそこへ行け」と命じてくださったと異邦人伝道に召し出されたことを証しするのです。
自分を憎み、自分の命を狙うユダヤ人たちを「兄弟姉妹、父母」と呼べたのは、「私のような罪人が主の憐れみによって救われたということを思う時、どんな人でも、すべての人が救われると信ぜずにはいられない」とパウロは心から感じていたから、そのように呼びかけることができたのではないでしょうか。榎本保郎牧師は、「あんな人はだめだ(あんな人は救われない)などと考える人は、(自分自身が)神の前におけるみじめな自分であるかを忘れている人である」と言っています。人ではなく、今日、主イエス様を自分がどのように向き合っているかを考えてみましょう。また、神様の憐れみ、恵みによって、主イエス様によって罪赦された自分である原点にいつも戻るようにさせていただきましょう。その時、私たちを苦しめる人のために祈り、主から助けられて相手を赦し、敵と思う人を愛してゆけるのだと今回の箇所から示されます。
週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎