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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#68 使徒行伝19章21節~41節

2009-09-23 21:54:25 | 聖書
 秋分の日にも心地好い日でしたね。主イエスの恵みと平安とが、あなたの上に豊かにありますように。
 みことば:「パウロは、マケドニアとアカイアを通って、エルサレムに行く決心をし、こう言ったのである、『私はそこへ行った後、ローマを見なければならない』。」 19章21節 岩波訳

 約3年弱に亘る使徒パウロのエペソでの宣教活動も終わりに近づきました。

今回は4つの点を学びます。

 まず、使徒パウロは、ローマとその先のスペインでの伝道をエペソの地で夢見て、情熱を持っていました。エペソからローマへは、距離的にはそんなに遠くありません。しかし、パウロはローマとは正反対方向のエルサレムへまず向かうことを決断します。

何故か。それはマケドニヤとアカヤ地方の諸教会から集められたエルサレム教会にある貧しい兄弟姉妹への支援金を携えてゆくことを選びとったからです。

つまり、自分の夢や情熱を実現させることよりも、エルサレム教会の兄弟姉妹に仕えることを選びとったのです。「おのおの自分のことばかりでなく、他者のことを考えなさい」という思い(ピリピ2:4)が伝わってきます。私たちも、自分の夢や願いの実現を優先させるよりも、人々に仕えてゆく事を選びとってゆきたいですね。

 次にエペソで騒動が起こります。事の発端は、銀細工師のデメテリオの訴えです。彼をはじめ、多くの銀細工職人が、エペソの女神・アルテミスとそれを祭る神殿の模型を銀で作り、各地からの参拝者たちにそれらを売り、生計を立てていたのですが、パウロが「手で作られたものは神ではない」と教えていることによって、自分たちの生活が脅かされていると訴えます。

ここで注目したいのは、デメテリオたちはアルテミス女神が神であることやこの女神に対する信仰心を第一にしていた訳ではなく、彼ら銀細工職人たちの富、生活の安定が優先されていたことです。デメテリオはエペソの人々の宗教心と愛国心を逆手に取ってパウロたちを追い出すデモを始めます。自分たちの富への欲望と生活の安定の為に、周りの人々の心を利用するのです。ここから学びたいことは、神様の御心を優先してゆくことが、自分たちの生活の安定を優先させるよりも重要であるということです。神様の御旨をどのように知るか、それは聖書から御言葉を聴き、祈ることからです。聖霊が私たち一人ひとりの心に力を注ぎ、主の御旨を教えて下さいます。

 デメテリオたちによって「怒り」を植え付けられたエペソの群衆は、大声で「大いなるかな、エペソ人の神アルテミス」と叫びながらエペソ大劇場に集まります。町中が大混乱に陥り、騒動が暴動へと加速し始めます。「大多数の者は、なんのために集まったのかも分からないでいた」と32節にもあります。

私たちは、イエス・キリストを通して神様に「喜び」を植え付けられました。私たちは、「イエスは主なり」と喜びの叫びをもって教会に集います。主の招きによって呼び集められます。この教会の礼拝から町中が救いの喜びに満たされ、礼拝と伝道を通してすべての人が神様の栄光を表すために生かされている人生の目的を持って生きる為です。

 ここですこし寄り道。エペソの群衆が混乱の中にある時に、ユダヤ人アレキサンデルが彼らの中心に立とうとします。ユダヤ人を代表する彼の主張は、「私たちユダヤ人はクリスチャンとはまったく関係がなく、エペソの人々の仲間である。アルテミス女神を非難するつもりはない」と主張し、自己弁護したかったからです。

 最後に、今回の騒動を暴動に発展させなかった立役者たちを学びましょう。この騒動の中で二人のクリスチャン、ガイオとアリスタルコが捕まり、群衆の前に立たされます。パウロは彼らを助け出そうとしますが、そうするとデメテリオたちの思惑通りになってしまいます。パウロの友人でありアジヤ州の議員たちがパウロを引き止めます。パウロの身の安全を心配し、彼を引き止めることのできる冷静な人たちによって、パウロは守られ、エペソの教会も守られます。教会にはいつも冷静な人が大切です。もう一人はエペソ市の書記官です。彼の職務はローマ帝国とアジヤ属州の架け橋としてその関係を正常に保つことでした。暴動が起こるとエペソはローマ帝国に危険視されてしまいます。彼は、「クリスチャンたちはアルテミス神殿を荒らした訳でも、女神を冒涜した訳ではないのだから、このような騒動はすぐに止め、裁判や正式な議会を通して解決してもらえ」と群衆をなだめ、「そうでないと、クリスチャンではなく、あなたがたが治安を乱す者として罪に定められるおそれがある」と言うのです。このような第三者的に、客観的に教会の出来事を見て、的確に意見出来る人が教会とその歩みにはいつも必要です。世俗的、人間的、あるいは感情的な価値観や思いに流されずに、信仰をもって、キリストのめがねをかけて私たちを取り巻く状況を見てゆき、神様の御旨は何か、また自分が心の中で抱く「怒り」や「不満」は主の御前に正しいかをいつも考え、祈り求めましょう。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ #67 使徒行伝19章23節、19章8節~20節

2009-09-16 18:07:59 | 聖書
主イエスの恵みと平安とが、あなたの上に今も豊かにありますように祈ります。

 みことば:「悪霊は彼らに答えて言った、『私はイエスを知っており、パウロのこともわかっている。しかし、お前たちは何者だ』」。19章15節 岩波訳

 使徒パウロは、アシア州エペソに約3年弱滞在し、キリストの福音を伝えます。今までの伝道旅行で最長期間です。今回は、3つのことを学びたいと思います。

 第一に、使徒パウロはいつもようにユダヤ人の会堂シナゴーグでユダヤ人と信心深い異邦人たちに神の国について、キリストの福音を3ヶ月に亘って大胆に宣べ伝えます。福音を聞いて主イエス様を信じる者が起こされますが、ある者は頑で信じようとせず、反対にキリストの福音の悪口を言い始めます。執拗な反発であったので、残念なことですが、パウロたちは会堂を出る事にしました。昨年、東京のある教会で同じ様なことが起こりました。一人の信徒の頑さ故に、牧師と大半の信徒が教会を出て、新しい教会を始める事を総会で決議し、その人ともう一人を残してバプテスト教会を出ました。周囲の教会たちは残念がりました。約2000年前、ユダヤ人たちの頑さ故に使徒パウロは弟子たちを連れて会堂を出ますが、悲観したりする必要はありません。主の備えが必ずあります。福音を伝える場所が会堂から講堂に代わったのです。公共の場に移ることによって、ユダヤ人や信心深い人たちだけでなく、すべての人々にキリストの福音を伝えるチャンスとなったのです。ピンチがチャンスとなったのです。その講堂で2年間、使徒パウロは福音を語り、聖書に「アシア州に住んでいる者は皆、ユダヤ人もギリシャ人も主の言葉を聞いた」(10節)のです。

 第二に、エペソはその地の文化としてまじないや魔術、迷信を信じていましたから、多くの霊能者や魔術師や占い師がいました。しかし、そのような中で「神様はパウロの手によって並々ならぬ力ある業を行なわれた」と11節にあります。口語訳では「異常な力ある業を次々に」とあります。パウロが身につけていた手ぬぐいやエプロンを病人に当てると、病気が去り、悪霊が出て行ったとあります。エペソの人々は神様の偉大なる力に圧倒され、イエス様を信じるようになります。長血の女性がイエス様のうしろからみ衣を触って癒されました(マルコ5:27以降)。多くの病人たちも「せめてその上着のふさにでも触られて」くださいとイエス様に頼み、そして触った者はみな癒され」ました(マルコ6:56)。日本でも占いや迷信、魔術を信じている人、それらに寄りすがろうという人が多くいます。その人たちのために、わたしたちは主イエス様のみ衣のふさ、パウロの手ぬぐい、エプロンにさせていただきませんか。私たちを通して、一人でも多くの方が神様の愛を受け、イエス様を救い主と信じるように、また私たちを通して主イエス様が崇められるように、主の道具となりましょう。主の御声に聞き従いたいと願います。

 第三に、神様の力に圧倒された人々の中に、ユダヤ人霊能者たちが数名いました。ユダヤ人祭司の息子7人もいたそうです。彼らは、使徒パウロが主イエスの名によって人々を癒し、人々から悪霊を追い出しているのを見て、試しに悪霊に憑かれている人から悪霊を追い出そうとして「パウロが宣べ伝えているイエスによって命じる」と唱えます。その言葉に対して悪霊が「私はイエスを知っており、パウロのことも判っている。しかし、お前たちは何者だ」と言って彼らに襲いかかります。「イエスの名によって」私たちは祈ります。しかし、この言葉はまじないの言葉ではなく、妄りに唱えるものではないのです。主イエス・キリストを救い主と信じる者にしか与えられていない神様へのアクセスの言葉なのです。妄りに唱えるとどういう事が起こるか、悪霊に「お前は何者か」と聞かれ、そして16節にありますが、彼らは裸にされ、自分の家から逃げ出すはめになる、つまり大きな恥をかくことになるのです。悪霊は、イエス様が神の子であり、力あるお方であると知っています。悪霊は、使徒パウロも誰だか判っています。さて、悪霊は、私たちを知っているでしょうか。主イエス様をキリストと信じている者を悪霊はすぐに識別できます。もし、私たちがクリスチャンとして主と共に生きているならば、悪霊は直ぐに判るのです。しかし、私たちがクリスチャンとして歩んでいない時に、悪霊は「お前は何者だ」と言い、私たちを、あなたを辱めるのです。今日も、主に信頼し、主の御名によって歩ませていただきましょう。ヤコブ2:14-20をお読みください。

 神様の御力を「おもちゃ」にしないように気を付けましょう。悔い改めて、私たちの心の中にある自分の力に頼ろうとする思いを捨て去り、主に従いましょう。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ #66 使徒行伝18章23節、19章1節~7節

2009-09-09 17:59:29 | 聖書
 主イエスの恵みと平安とが、あなたの上に今も豊かにありますように祈ります。

 みことば:「さて、アポロがコリントにいた時、パウロは奥地を通ってエフェソにくだって来た。そして、幾人かの弟子たちに出会い、彼らに言った、『信仰に入った時、聖霊を受けたのですか』。彼らは彼に言った、『聖霊のあることなど聞いたことさせありません』」。19章1~2節 岩波訳

 ここから使徒パウロたちの第三回伝道旅行が始まります。パウロは、先の二回の伝道旅行時にクリスチャンになったガラテヤやフルギヤ地方の兄弟姉妹とその教会を再訪して力づけます。パウロはどのように教会を力づけたのでしょうか。聖書には記されていませんが、いっしょに礼拝をささげ、御言葉に聴き、共に祈り、イエスがキリスト、主であると告白し、主によって約束された希望を確認し合ったのだと思います。現実だけに目を注げば、心が騒ぎ、希望を見出せない状況に陥ります。しかし、「神の御旨」を現実のみに見出すことはできません。いつも主の御言葉に聴き、祈らなくてはなりません。各自、神様からのラブレターである聖書を読む時間と神様と個人的に会話する時間を確保しましょう。ディボーションです。ディボートという動詞は、教会では「神様に自分の時間と心をささげる/充てる」という意味です。また、神様とのコミュニケーションに「専念する」という意味があります。礼拝、祈り、ささげもの、奉仕、交わりなど信仰生活に必要ですが、ディボーション(神への深い愛情、忠誠、忠実)も信仰の成長には大切なのです。
 さて、主の僕アポロについて先週学びました。彼は、旧約の預言に基づいてイエスがキリスト、メシヤであることを論証する特別な才能と情熱を持っていましたが、「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」、すなわち、アポロがいかに聖書に精通し雄弁であったとしても、それは人間の力において福音を伝えていたという事であって、神の力がまだ注がれていなかったことを先週述べました。バプテスマのヨハネのバプテスマは悔い改めのバプテスマ、過去の罪からの解放です。しかし、聖霊のバプテスマは、これからクリスチャンとして生かされてゆくための神の霊、御力の注ぎだと信じます。聖霊の導きと励ましと助けなくしては、私たちはクリスチャンとして主イエスの十字架と復活の証人として生きてゆくことはできないのです。

 過去の罪から解放されることは重要であり、確かに救いです。しかし、私たちの悩み苦しみの原因は、今をどのように生き、これからの人生を何の目的をもって生きてゆくべきかが判らなくなることです。しかし、イエス・キリストを救い主と信じた時に聖霊が私たちの心に宿り、主の御旨を慕い求める思いを起こし、聖書の御言葉を通して人生の目的、何を成して生きてゆくべきかを明確に教えて下さるのです。一歩一歩、私たちにクリスチャンとして歩む力を聖霊が与え、歩むべき道を聖霊が示し、導いて下さるのです。過去と現在と未来の苦しみから解放されるのです。
 今日、神様は私たちに問うておられます。「あなたは聖霊を受けているか」と。大久保教会がキリストのからだとして建て上げられるためにまず私たちに必要なのは、聖霊なのです。聖霊の導きと助けなしに教会の一致、形成、成長、実を結ぶことはないのです。エペソにてアポロを通してイエス・キリストの救いを信じた12人が、イエスの名によってバプテスマを受けました。パウロが彼らに両手を置くと、聖霊が彼らの上に降り、新しい力が注がれます。主イエス・キリストの十字架と復活を証しする力、また主と教会に仕える力を受けたのです。あなたは聖霊を受けていますか。あなたは神様の力によって生かされていますか。それとも自分の力で生きようとしていますか。私たちには神様の息、聖霊が必要ですから、どうぞイエス様を信じ、聖霊を求めて下さい。そうすれば、過去のしがらみから解放され、新しい人生の目的とその使命に生きる力が神様から与えられます。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎



メルマガ#65 使徒行伝18章24節~28節

2009-09-02 17:58:35 | 聖書
 みことば:「ところで、アレクサンドリア生まれのアポロというユダヤ人が、エフェソにやって来た。この人は雄弁家で、聖書に強かった。」18章24節 岩波訳

 ここにアポロという主の働き手が彗星のごとく登場します。彼はエジプト生まれのユダヤ人でしたが、神様によってクリスチャンとせられ、キリストの福音を伝える者として立てられました。アポロについては、コリント第一の手紙1:12,3:4-9,22,4:6,16:12にも記されています。パウロもアポロを引き合いに出しますので、「アポロはパウロの良きライバル」と取り上げられますが、そんなことはありません。教会に派閥などありません。主イエス様が中心です。ペテロもパウロもアポロも主のために働く同労者です。16:12では、アポロを「兄弟」とパウロは呼んでいます。すべては全世界にキリストの福音が伝えられるためです。私たち教会員が、主にあって同じ目的を持つ時、心は一つにされ、同じ方向へ前進し、教会の成長と実りがあります。

 アポロがどのような経緯でクリスチャンになったのかは記されていませんが、大切なのは、彼は聖書に強かったということ、つまり深い聖書の学識を持っていたということと、キリストを伝えることに情熱を注いでいたということです。彼は、旧約の預言に基づいて、イエス・キリストがメシヤであることを論証する特別な才能を持っていました。しかし、アポロは、「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」という事実が記されています。イエスの名によるバプテスマではなく、バプテスマのヨハネによるバプテスマ。つまりアポロは「悔い改めのバプテスマ」を受けたけれど、イエスの名によって聖霊のバプテスマ」を受けていなかったということです。使徒行伝をずっと学んできましたが、イエス様の名によってバプテスマを受けたすべての人に聖霊が注がれましたが、アポロが受けていないとはどういうことなのか。

 つまり、いかにアポロが聖書に精通し雄弁であったとしても、それは人間の力において福音を伝えていたという事であって、神の力がまだ注がれていなかったということです。私たちも自分はクリスチャンであると告白したり、神様の愛を証しをすることは自分の思いや力だけでできます。しかし、聖霊という神が共にいて下さらなければ継続的には告白し続けることはできないのです。聖霊という神の息が吹き込まれていないと、いつか息切れを起こしてし、息絶えてしまうのです。ですから、聖霊を求めましょう。聖霊によるバプテスマとは、自力で生きることではなく、神の生命によって新しく生かされていくことなのです。

 さて、アポロには聖書の学識、イエス様の言葉の知識はありましたが、アクラとプリスキラはアポロに欠けているものがあると彼の話しを聞いて感じました。ですから、アポロを自宅に招き、彼に神の道をさらにくわしく説き聞かせたと26節にあります。何がアポロに足りなかったのでしょう。記されていませんが、私は28節の御言葉を通して次のように考えます。1)神の愛、キリストの福音は、ユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられている。2)律法によって救われるのではなく、神の無償の愛、恵みによって救われるということです。私たちは、ただ神様の愛と憐れみによって救われたのであって、私たちの努力、行いによるのではないのです。感謝ですね。

 週の後半の歩みも、主が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎