大久保教会の兄弟姉妹へ 2011年1月12日
寒い日々が続きますが、主の恵みと平安が皆さんの上に豊か
にあるよう祈ります。
*今月25日から2年間、タンザニアへ派遣される倉辻忠俊兄の
ために。23日の礼拝において派遣祝福式を行います。
今夜は、テサロニケ人への第一の手紙5章19節~22節を
学びます。
使徒パウロは、教会内の交わりが健全なものとなるために「
互いに平和に過ごしなさい」と勧め、第一に「教会の指導者と
信徒の交わり」(12、13節)に関し、第二に「教会内の弱い者
と強い者の交わり」(14、15節)に関して勧めます。先の二つ
の勧めは教会内の兄弟姉妹への心の姿勢についてですが、三つ
目の勧めはキリスト者としての神への信仰姿勢についてです。
いつも共に喜び、絶えず共に祈り、すべてについて共に感謝す
る。それは教会がキリストのからだとして成長し、またクリス
チャンとして互いが成長・成熟することにつながります。
パウロは、今回の箇所で四つ目の勧め、教会の体質について
記します。それぞれの教会にも体質があると思いますが、大久
保教会の体質はどういう体質でしょうか。パウロはまず教会に
対して「御霊を消してはいけない」、また「預言を軽んじては
ならない」と19節と20節で云います。教会が聖霊の力と導
きに消極的にならないように、また預言者や牧師、伝道者を通
して語られる神の御言を、人ばかりを見て軽んじないようにと
命じます。
神様がご計画と目的をもって教会を力強く導き、教会の使命
と働きを明確にしようとしておられるのに、私たちが自分の思
いや都合を優先させてしまう中で神様の御旨に消極的な体質、
あるいは不従順になってはいけないと云うのです。いつでも信
仰をもって主に従って行きなさい、私たちの心に内住してくだ
さる御霊を不信仰さや臆病な思いで消してはならないと云うの
です。
神様の御旨を知るために聖書が私たちに与えられています。
そして聖書の神と主イエスの言葉を聴いて、信仰をもって従っ
てゆくことが求められていますが、テサロニケの手紙が記され
た時代は現代のように聖書はありません。パウロのような使徒
、伝道者、宣教者、牧会者、預言者が語る言葉に聴いてゆく以
外に方法はありませんでした。しかし、神に不従順な偽伝道者
や牧会者や預言者がその中にも身を潜めていましたから、誰の
語っていることを信じて聴いて従ってゆくべきか、多くの兄弟
姉妹は困惑しました。「語っている事と実際の行為が相反する
偽預言者」や「使徒たちの教えと全く違う教えを語る偽牧会者
」もいました。そしてその人の行為だけを見ていれば、その人
を軽蔑し、その人の口から語られる「御言・福音宣教」を聴く
事は馬鹿げているように思えてきます。しかし、パウロは「御
言を語る者」ではなく、語られる「御言」を神の言葉として大
切に聴きなさいと勧め、命じるのです。牧師・聖職者の人間性
とそのあり方も確かに問われなければなりませんが、宣教・御
言を聴く時に語る者の人間性だけを見ていては、御言・預言を
神の言葉として聴けなくなり、それを軽んじる事になります。
語る者がどんなに小さく貧しい器であっても、その人を通して
語られる神の御言を軽んじては決してならないとの勧めです。
口語訳聖書にはないのですが、本来、ギリシャ語の原文には
20節と21節をつなげる「しかし」という言葉があります。
聖霊の力とお導きに消極的にならない。また宣教者・預言者の
人間性だけを見て、語られる御言を軽視してはならい。「しか
し」次の3つのことをしなさいと次の21節と22節で勧めら
れています。
それは「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆ
る種類の悪から遠ざかりなさい」との勧めです。まず「すべて
を識別せよ」と命じられています。私たちの偏見や思い込み(
持論)、過去の経験に縛られることなく、また他人の意見に惑
わされることなく、信仰をもって主の御言と導きを祈り、何が
神の御心であって、何がそうでないかを教会として見極めなさ
いと云うのです。声の大きな人に聞いたり、過去や現状に囚わ
れたり、人に云われた事をそのまま鵜呑みにするのではなく、
まず神に祈り、言葉を聴き、御言に堅く立ち、すべてに細心の
注意をはらい、心を配って選びとってゆきなさいとの勧めです
。
私たちの周りには「良いもの」と「悪いもの」があります。
良いもの、悪いものとは何でしょう。悪いものとは人間の思い
が優先されたものであり、良いものとは神様の御旨にかなった
ものではないでしょうか。神様の御旨を大切にし、御言に聴従
し、主の命令を守りなさいと云われているのではないでしょう
か。
もし私たちが「悪」の近くに生活したり、それに囚われてい
る状態ならばそれから遠ざかりなさいと命じられています。「
悪」とは、神様を神としない、愛の神から離れている状態では
ないでしょうか。悪から遠ざかるとは、神に近づくことです。
大久保教会は、音楽主事と副牧師の招聘について御声に聞き
、主のご意志に従わなければなりません。教会の中には様々な
意見、人の思いが混在しています。そういう中で一緒に祈って
神様の声に聴きたいと願っています。小さな大久保教会には3
人も牧師はいらない、音楽主事もいらないと感じる方も多くお
られると思います。確かに教会内だけを見るならば牧師は一人
で充分でしょう。しかし大久保教会の一歩外はどうでしょうか
。たくさんの人たちが神様とその愛を知らずに自力で何とか生
きようと日夜奮闘し、また苦闘しています。神様の愛と赦しを
、イエス様の救いと平安と希望を必要としている人は何万人と
いるのです。私たちの目を教会内にではなく、外側に向けまし
ょう。何が神の御心なのか一緒に祈り求め、御言に聴き、従い
ましょう。
最後に私がいま聴いている言葉を紹介します。「イエスは、
すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を
宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになっ
た。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れてい
るのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子
たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、
収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すように
してもらいなさい」。マタイ9章35節以降
大久保教会のためにお祈り下さい。どうぞ献身して教会の働
きに参加してください。十一献金、献げものをもって教会の働
きをお支えください。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致し
ます。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎
寒い日々が続きますが、主の恵みと平安が皆さんの上に豊か
にあるよう祈ります。
*今月25日から2年間、タンザニアへ派遣される倉辻忠俊兄の
ために。23日の礼拝において派遣祝福式を行います。
今夜は、テサロニケ人への第一の手紙5章19節~22節を
学びます。
使徒パウロは、教会内の交わりが健全なものとなるために「
互いに平和に過ごしなさい」と勧め、第一に「教会の指導者と
信徒の交わり」(12、13節)に関し、第二に「教会内の弱い者
と強い者の交わり」(14、15節)に関して勧めます。先の二つ
の勧めは教会内の兄弟姉妹への心の姿勢についてですが、三つ
目の勧めはキリスト者としての神への信仰姿勢についてです。
いつも共に喜び、絶えず共に祈り、すべてについて共に感謝す
る。それは教会がキリストのからだとして成長し、またクリス
チャンとして互いが成長・成熟することにつながります。
パウロは、今回の箇所で四つ目の勧め、教会の体質について
記します。それぞれの教会にも体質があると思いますが、大久
保教会の体質はどういう体質でしょうか。パウロはまず教会に
対して「御霊を消してはいけない」、また「預言を軽んじては
ならない」と19節と20節で云います。教会が聖霊の力と導
きに消極的にならないように、また預言者や牧師、伝道者を通
して語られる神の御言を、人ばかりを見て軽んじないようにと
命じます。
神様がご計画と目的をもって教会を力強く導き、教会の使命
と働きを明確にしようとしておられるのに、私たちが自分の思
いや都合を優先させてしまう中で神様の御旨に消極的な体質、
あるいは不従順になってはいけないと云うのです。いつでも信
仰をもって主に従って行きなさい、私たちの心に内住してくだ
さる御霊を不信仰さや臆病な思いで消してはならないと云うの
です。
神様の御旨を知るために聖書が私たちに与えられています。
そして聖書の神と主イエスの言葉を聴いて、信仰をもって従っ
てゆくことが求められていますが、テサロニケの手紙が記され
た時代は現代のように聖書はありません。パウロのような使徒
、伝道者、宣教者、牧会者、預言者が語る言葉に聴いてゆく以
外に方法はありませんでした。しかし、神に不従順な偽伝道者
や牧会者や預言者がその中にも身を潜めていましたから、誰の
語っていることを信じて聴いて従ってゆくべきか、多くの兄弟
姉妹は困惑しました。「語っている事と実際の行為が相反する
偽預言者」や「使徒たちの教えと全く違う教えを語る偽牧会者
」もいました。そしてその人の行為だけを見ていれば、その人
を軽蔑し、その人の口から語られる「御言・福音宣教」を聴く
事は馬鹿げているように思えてきます。しかし、パウロは「御
言を語る者」ではなく、語られる「御言」を神の言葉として大
切に聴きなさいと勧め、命じるのです。牧師・聖職者の人間性
とそのあり方も確かに問われなければなりませんが、宣教・御
言を聴く時に語る者の人間性だけを見ていては、御言・預言を
神の言葉として聴けなくなり、それを軽んじる事になります。
語る者がどんなに小さく貧しい器であっても、その人を通して
語られる神の御言を軽んじては決してならないとの勧めです。
口語訳聖書にはないのですが、本来、ギリシャ語の原文には
20節と21節をつなげる「しかし」という言葉があります。
聖霊の力とお導きに消極的にならない。また宣教者・預言者の
人間性だけを見て、語られる御言を軽視してはならい。「しか
し」次の3つのことをしなさいと次の21節と22節で勧めら
れています。
それは「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆ
る種類の悪から遠ざかりなさい」との勧めです。まず「すべて
を識別せよ」と命じられています。私たちの偏見や思い込み(
持論)、過去の経験に縛られることなく、また他人の意見に惑
わされることなく、信仰をもって主の御言と導きを祈り、何が
神の御心であって、何がそうでないかを教会として見極めなさ
いと云うのです。声の大きな人に聞いたり、過去や現状に囚わ
れたり、人に云われた事をそのまま鵜呑みにするのではなく、
まず神に祈り、言葉を聴き、御言に堅く立ち、すべてに細心の
注意をはらい、心を配って選びとってゆきなさいとの勧めです
。
私たちの周りには「良いもの」と「悪いもの」があります。
良いもの、悪いものとは何でしょう。悪いものとは人間の思い
が優先されたものであり、良いものとは神様の御旨にかなった
ものではないでしょうか。神様の御旨を大切にし、御言に聴従
し、主の命令を守りなさいと云われているのではないでしょう
か。
もし私たちが「悪」の近くに生活したり、それに囚われてい
る状態ならばそれから遠ざかりなさいと命じられています。「
悪」とは、神様を神としない、愛の神から離れている状態では
ないでしょうか。悪から遠ざかるとは、神に近づくことです。
大久保教会は、音楽主事と副牧師の招聘について御声に聞き
、主のご意志に従わなければなりません。教会の中には様々な
意見、人の思いが混在しています。そういう中で一緒に祈って
神様の声に聴きたいと願っています。小さな大久保教会には3
人も牧師はいらない、音楽主事もいらないと感じる方も多くお
られると思います。確かに教会内だけを見るならば牧師は一人
で充分でしょう。しかし大久保教会の一歩外はどうでしょうか
。たくさんの人たちが神様とその愛を知らずに自力で何とか生
きようと日夜奮闘し、また苦闘しています。神様の愛と赦しを
、イエス様の救いと平安と希望を必要としている人は何万人と
いるのです。私たちの目を教会内にではなく、外側に向けまし
ょう。何が神の御心なのか一緒に祈り求め、御言に聴き、従い
ましょう。
最後に私がいま聴いている言葉を紹介します。「イエスは、
すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を
宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになっ
た。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れてい
るのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子
たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、
収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すように
してもらいなさい」。マタイ9章35節以降
大久保教会のためにお祈り下さい。どうぞ献身して教会の働
きに参加してください。十一献金、献げものをもって教会の働
きをお支えください。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致し
ます。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎