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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#62 使徒行伝18章5節~11節

2009-07-29 17:17:58 | 聖書
 みことば:「シラスとテモテがマケドニアからくだって来ると、パウロは御言葉(を語ること)に専念し、ユダヤ人に対してはイエスがキリストであることを力込めて証言した。」 18章5節 岩波訳

 「恐れるな。語り続けよ。沈黙するな。私はお前と共にいる。だから、お前を襲ってお前を害する者はない。この町には、私の民が大勢いるのだから。」 18章9-10節 岩波訳

使徒パウロの第二回目の伝道旅行を学んでいますが、パウロはコリントに18ヶ月間滞在し、宣教と教会を建て上げることに専念します。ある一定の町にこんなにも長期間滞在することは今までありませんでしたが、それを可能にした事実が3つあります。

 一つは、5節の御言葉です。テモテたちがコリントに来るまで、パウロはアクラと共に天幕造りとして6日間働き、安息日には会堂で宣教をするという生活をしていました。しかし、テモテたちは諸教会から献金、宣教活動資金を預かり、パウロのもとへ持って来ました。パウロは7日間、御言葉を語ることに専念することができるようになりました。

献金は、信仰のバロメーターです。どれだけ主の恵みに感謝し、喜び、また信頼しているかが分かるものです。献金はどれだけ神を愛しているかを表すものであると同時に、どれだけ隣人を愛しているかを表すものでもあります。献げられたものが主の栄光のために、主のからだなる教会を建て上げてゆくために、また隣人に福音を伝えるために用いられます。

献金によって、牧師、宣教師、伝道者、教会スタッフをサポートします。これは信仰と愛と祈りが結ぶ実であり、主への信頼と主から約束されている希望の実です。私たちの教会も神様の憐れみと皆さんの献金によって支えられています。感謝いたします。私も今までの自分の牧師としてのあり方を悔い改め、なすべきことに励んでゆきますので、大久保教会のこれからの歩みと成長のためにぜひ覚えてお祈り下さい。

 もう一つは、9-10節にある幻のうちに主がパウロに語られた「わたしはいつもあなたと共にいる」という約束の言葉です。安息日ごとに「イエスこそキリスト、メシアである」と力を込めて証ししてきましたが、それが毎日の証しとなりました。

しかし、パウロが語る福音への反抗も毎日となり、エスカレートしてゆきます。大半のユダヤ人たちは宣教活動を妨害し、それだけでなく主イエスを冒涜し続けます。パウロたちの心も傷つき、気持ちも萎えることが多くあったでしょう。もうこの地には見切りをつけて他の地へ進んで行かせて頂きたいと聖霊の導きを祈ったでしょう。

皆さんもそのような経験はありませんか。今そのような状況で苦しんでいませんか。ここから逃げ出したい。手中の問題を投げ出したい。過去を捨て去りたい。それらのものを跪きつつ主の御前に置き、主に祈りましょう。主は愛の神でありますから、私たちの涙を喜びに、思い煩いを希望に変えてくださいます。主の約束の言葉にすべてを委ね、主にあって希望を抱ける心に造り替えていただきましょう。

 もう一つは、8節にあるように、ユダヤ人会堂司クリスポとその家族、また多くのコリント人が福音を聞いて信じ、ぞくぞくとバプテスマを受けた恵みです。主に信頼する教会に、つぎつぎと新しい兄弟姉妹を主が与えてくださるのです。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。

 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ#61 使徒行伝18章1節~4節

2009-07-22 17:20:42 | 聖書
 みことば:「その後、パウロはアテネを去って、コリントに行った。ここで、ポントス(州)出身のアクラというユダヤ人とその妻プリスキラとに出会った。・・・、そして、職業が同じであったので、彼らの家に住んで、一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕造りであった。」 18章1~3節 岩波訳

 今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝18章1節~4節を学びます。

使徒パウロの宣教の舞台は、アテネから80キロ西南に位置するコリントに移ります。

コリントは、西と東との海路の接続点、北と南との陸路の接続点に当たり、商業が繁栄した大都市です。
しかしコリント人への手紙を読んでも判る様に、この都市は非常に豊かな町であったがゆえに倫理的にも複雑で深刻な問題を多く抱えていました。

そのような都市に使徒パウロが遣わされたということは、コリントも神様の愛と赦しの対象であったことが判ります。

大久保教会が所在する新宿・大久保は歌舞伎町に隣接していますし、歌舞伎町で働く人々が周囲にも多く暮らしています。

この地に私たちの教会が立てられていること、それは神様の愛と赦しがこの地にも注がれていることと地域の人々にキリストの福音を伝える使命があることを覚えたいと思います。

 パウロは、このコリントでローマ・ポント州出身のアクラとプリスキラ夫妻に出会い、彼らの家に住んで一緒に天幕造りの仕事をしたとあります。

皇帝クラウデオによってローマからすべてのユダヤ人が追放されたのです。

原因は、ローマ在住のユダヤ人社会におけるユダヤ教徒とクリスチャンとの紛争によるものだと考えられています。

すなわち、物流ルートとその速さと同じように、パウロがローマへ行く前にはすでにキリストの福音がローマにも届いており、ユダヤ教徒たちの嫉妬によるクリスチャンへの迫害が社会的騒動となっていたようです。

ユダヤ教徒もクリスチャンもローマに住む事が禁じられたので、アクラたちはコリントへ最近移住してきたばかりでした。

パウロがアクラ夫妻と一緒に住み、共に革細工の仕事をした理由は、同じユダヤ人、同業者だったからではなく、彼らがクリスチャンであったからです。

皆さんも新しい土地に住む時、また新しい職場に移る時など、クリスチャンと出会い、友となり、また一緒に仕事したいですよね。

そうではないですか。クリスチャンの友をすぐそばで見つける良い方法を紹介します。

それは自分からクリスチャンであることを周囲の人に伝えるのです。

クリスチャンの友は素晴らしいですよ。

使徒パウロは、今後アクラとプリスキラ夫妻と共にキリストの福音をいたる所で伝えてゆくのです。

主に仕える親友、同労者は同じ価値観、使命、目的を持っていますから、いつも主のために喜んで働く事ができるのです。

 使徒パウロは、天幕造りという職を手に持っていました。

手に職を持つ事も神様から与えられた賜物だと思います。

月曜日から土曜日まで職人として働き、日曜日は宣教者として主と教会に仕える。

これからの時代、二足のわらじを履くような牧師が日本にも必要になってくると思います。

現に、サラリーマンをされたり、自営業をしたり、ホテルでの結婚式の司式をされて生計を立てておられる牧師もたくさんおられます。

小さな教会には、財政的に牧師を支える事が困難だからです。

私も覚悟はできています。私の父もアメリカで日本人教会の牧師として仕えている時、庭師、数学の家庭教師、日本人補修校の教師をして私たち家族を支えてくれました。

また神様がいつも必要を満たして下さる事を実体験していますから、主のお導きを信じて、従ってゆきたいと思います。

 来週もっと詳しく学びますが、5節に「シラスとテモテがマケドニアからくだって来ると、パウロは御言葉(を語ること)に専念し、ユダヤ人に対してはイエスがキリストであることを力込めて証言した。」とあります。

おそらくシラスとテモテは、マケドニアの諸教会からの献金をパウロのもとへ持って来たのでしょう。

諸教会の兄弟姉妹の祈りと犠牲的な献げものによってパウロは主日から翌主日まで毎日、福音宣教の業に専念できたのです。

私たちも、自分の教会のことだけでなく、困窮している教会と牧師たちのことを覚えて祈りましょう。

そして祈りを持って少しでも支えてゆければ、神様は私たちの信仰と働きを喜んでくださると信じます。


 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ#60  使徒行伝17章22節~34節

2009-07-15 18:12:15 | 聖書
 みことば:「人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるように(主が)して下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。」
 17章27-28節 口語訳


 今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝17章22節~34節を学びます。

アテネの知識人たちへの使徒パウロの宣教が始まります。キリスト・イエスの十字架と復活を宣教すること、また私たちがキリストを救い主と証しする事は、異文化の人々と神様との間に「福音の橋を架ける」重要な働きです。使徒パウロはアテネの聴衆の関心を引き寄せるために彼らを「宗教心に富む人たち」と呼びます。「信心深い」とか「敬虔」という意味にも取れますが、「迷信好きな」、「偶像崇拝」という意味もあります。自分たちに益をもたらすものであれば、何でも神としてしまう日本人と共通しますが、日本人の宗教心を糸口とすることも大切です。

 パウロは彼らの宗教心の強さを認めつつ、彼らが『知られない神』を信じ、祭壇を築いていることを見逃しません。ある神を知らないで信じているという彼らの「無知さ」から、唯一の神を伝えようとします。24節から25節で、「知られない神」とは実は世界と万物を創造した神、主なる神であり、人の手で作った宮や祭壇には住まないと告げます。神様は、人の思いや願い、都合によって作られた建物に住まわれることはなく、信仰をもつ私たちの心のうちに住まわれます。そしてキリストを主と告白する私たちが組み合わされて「キリストのからだなる教会」となり、その中で神様は働かれるのです。神の御旨を知り、キリストのからだなる教会を建て上げるためには、すべての偶像を私たちの心の中から捨て去らなければなりません。つまり、私たちの中にある過去の経験や伝統、理想や信念、有りとあらゆる人間的な思いです。

 全ての事柄には、神様のご意志とご計画があると使徒パウロは26節から27節で告げます。私たちが今あるのも神様のご意志とご計画があります。いま苦しみや悩みの中にあったとしても、神様には素晴らしいプランが必ずあるのです。ただ私たちにできることは、それぞれが、また教会が心一つに祈って「熱心に神の御旨を追い求めて捜す」ということなのです。そうすれば主なる神が導いて下さるのです。

 神様は私たちから遠く離れておいでになるのではありません。私たちが神様から離れてしまい、自己中心的な思い、罪にあるので、霊的盲目になっているのです。神様を求める者に神様はいつでも近くにおられるのです。私たちの責任は、礼拝の中で祈りと聖書の御言葉に聴く中で、主の御旨を求める事なのです。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。

 主に在りて大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ#59  使徒行伝17章16節~21節

2009-07-08 18:28:59 | 聖書
 みことば:「アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである」。17章20節 口語訳

 今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝17章16節~21節を学びます。

宣教の舞台は、芸術と建築物の宝庫アテネへと移ります。アテネはソクラテスやプラトンの故郷であり、アリストテレスが定住した哲学の都市です。使徒パウロのアテネ滞在は、彼の本意ではなく、テサロニケのユダヤ人たちによる宣教妨害から避難するためであり、またベレヤに残してきたシラスとテモテの到着を待つ期間でもありました。私たちの人生でも、私たちの本意でない道を歩まなければならない時があります。しかし、そのような時も、信仰の導き手である主イエス様を見上げて、信頼してゆきましょう。もし苦しかったら、神様に祈りましょう。共に集って祈りましょう。あなたのために祈ります。神様は必ず御旨を聖書の御言葉から示して、力づけてくださいます。愛の神を信じましょう。

 パウロは祈りながら散歩をし、アテネの町並みを見渡していたのでしょうか。おびただしい数の偶像が町のいたる所にあるのを見て、「心に憤りを感じた」と16節にあります。すばらしい芸術と現代が評価する彫刻や神殿は、今でこそ単なる歴史的芸術、遺跡以上の何物でもありませんが、2000年前の使徒パウロの目には異教の神々を象った偶像、その神々の神殿としか映らなかったのです。現代の偶像に何があるでしょうか。周りを見渡してください。多くの人たちがより頼んでいるものは何でしょうか。携帯電話、携帯ゲーム機、文庫本、携帯音楽プレーヤーなど、電車の中で手にしているものなどではないでし
ょうか。他にも依存しているものが多くあります。神様以外の人や物により頼むことは偶像礼拝なのです。また、私たちの風習、伝統、信念、理想も偶像になりうるのです。大久保教会はキリストのからだです。私たちの理想や伝統にのっとって形成するものではなく、祈りつつ、神の御言に聞き従いつつ築いてゆく信仰共同体なのです。

 パウロは多くの偶像を見て心に憤りを感じたとありますが、「怒ることがあっても罪を犯さないように」とエペソ4:26にあるように、まず信仰のある者たちと会堂で論じます。そしてそれから広場でアテネの知識人たちと論じます。私たちにも色々と怒ること、憤ることが日々の生活、信仰生活でもあるでしょう。しかし、まず教会の兄弟姉妹と分かち合いましょう。そして互いに祈り合いましょう。祈って、主に委ねるのです。
主が御業を成してくださいます。信じましょう。

 ストア派は人間の理性的能力の優越性や、個人の自己充足性を力説し、エピクロス派は快楽を人生の主要目的としました。不安と困難の時代の中で、人生問題に解決を与えようという二つの主義です。キリスト・イエス様は、自分を捨て、神と隣人を愛すること、教会の中で互いに愛することを私たちに命じられました。私たちが生かされているのは、神と隣人に仕えるため、愛するためであることを聖書から聴き従いたいと思います。
 20節に「アテネ人もそこに滞在している外国人もみな、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることのみに、時を過ごしていたのである」とあります。今の日本人も同じではないでしょうか。世の中には最新のニュースや情報、雑学を熱心に求める人、雑学王がたくさんいます。しかし、私たちがクリスチャンとして熱心に求めてゆかなければならないのは、イエス・キリストという神の御言の現われ、真理なのです。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。

 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎


メルマガ#58  使徒行伝17章1節~15節

2009-07-01 17:34:15 | 聖書
 みことば:「この町のユダヤ人は、テサロニケのユダヤ人よりもまともで、御言葉を非常な熱心さをもって受け入れ、その通りかどうかと、日々聖書を調べていた」。

17章11節 岩波訳

 今夜と明朝の祈祷会は、使徒行伝17章1節~15節を学びます。宣教の舞台は、ピリピから160キロ西南に位置するテサロニケ、そしてまたそれから約64キロ西南に位置するベレヤへと移ります。ピリピにはユダヤ人の集会所シナゴーグは存在しませんでしたが、テサロニケとベレヤにはシナゴーグがあり、ここを手がかりにユダヤ人とギリシャ人たちに福音宣教をしてゆきます。使徒パウロたちは、どちらの町でもいつも通りに「聖書に基づいて」、キリストの受難と復活、そしてイエスこそキリスト/メシアであることを説明、また論証します。そして福音を聞き、納得をしたユダヤ人や信心深いギリシャ人、女性たち
の多くがクリスチャンとなってゆきます。私たちの信仰と大久保教会に大切なことは、この「聖書に基づく」ということです。聖書の御言葉を生活の指針、判断基準、最優先してゆくことです。もし、私たちが今までの経験や偏った信念や直感、また伝統や風習に頼ってゆくようなことがあれば、必ず躓きます。私たちが聞くべき声は、自分の声や人の声ではなく、神様の声、主イエス様の言葉なのです。私は何のために生きているのか、私の人生の目的とは何かなどの問いに答えを得るためには私たちの創造主なる神様に聞いてゆく方法しかないのです。聖書の御言葉を日々の糧として受け、この御言葉に基づいて歩む時、祝福が必ずあるのです。 さて、テサロニケとベレヤにおいて福音宣教が実を結び、多くのユダヤ人たちがイエス様をキリストと信じるようになりましたが、他方で福音に猛反発をするユダヤ人たちが出現します。このアンチ・クリスチャン出現は今回が最初でも最後でもないのですが、テサロニケのユダヤ人は「嫉妬する人」、「暴動を起こし、町を混乱させる人」、「人々を動揺させる人」と記されています。教会の福音宣教の業が「神に近いはずの人々」によって妨げられることがしばしばあります。けれども、主に信頼しつつ、なすべき業ができるように主のお導きとお守りとを祈ってゆく必要があります。

 さて、ベレヤのユダヤ人たちは「素直で、心から使徒の教えを受け入れ、その教えがその通りかどうかを日々熱心に聖書から調べる人たち」であったとここに記されています。また、興味深い事に岩波訳ではベレヤのユダヤ人を「テサロニケのユダヤ人よりもまともな人たち」と訳しています。

 それでは、いったい何を基準にある人を「素直で、まともな人」と呼ぶのでしょうか? その基準は、神の御言葉である聖書です。神様の目に素直なクリスチャンとは何とあるかを事細かに調べる必要があります。また、聖書に聴く姿勢と聖霊と共に結ぶ実があるかないかによっても分かるでしょう。神様に喜ばれるクリスチャンとは、まさしく父なる神を神とし、御子イエス・キリストを主とし、聖霊の助けと導きによって祈りつつ聖書の御言葉に聴き従う人です。たとえ小さく貧しい信仰であっても、神様を第一にしてゆきたいと祈り求め、信頼しつつ従おうとする人だと思います。そのような人には、他の人に無い
心の平安、喜び、希望が、忍耐する力や赦す力、愛する力が聖霊によって豊かに与えられるのです。「素直な人」とは、神様の御言葉に心開いたオープンな人と言う意味と、隣人に対しても寛容で気前のよい人という意味であると思います。そういう人が神の御前に喜ばれる人であると思います。あなたはどのようにお考えになられますか。

 キリストのからだなる大久保教会は、嫉妬する人や周囲の人を不安にさせたりする人々の集まりではありません。主イエス様の十字架と復活を証しする群れであり、聖書を信仰の基盤とする群れ、神を愛し(礼拝)、隣人を愛し(伝道)、そして兄弟姉妹が互いに愛し合い(奉仕)、励まし合う(訓練)神の家族なのです。そしてあなたは、大久保教会の大切な家族の一員なのです。お祈りと協力をお願いします。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎