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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#83 使徒行伝26章1~23節

2010-01-27 20:07:01 | 聖書
 みことば:「起き上がれ。そして自分の足で立て。・・・。私(イエス)はお前(パウロ)をこの民(イスラエル)と異邦人の中から救い出し、彼らのところへ遣わす。それは、彼らの目を開き、彼らを闇から光に、悪魔の権力から神に立ち帰らせ、私に対する信仰によって、罪の赦しを受け、聖別された人々と共に(神の子らの受ける)分け前にあずからせるためである。」26章16~18節 岩波訳

 使徒行伝において、使徒パウロの最後の弁明、証しです。内容は、22章のエルサレムにおいてユダヤの群衆に証ししたものと似ていますが、第一に覚えたいのは、パウロはいつでも何処でも証しができるように準備周到であったということです。皆さんは、クリスチャンになった経緯を話してくださいと誰かに依頼されたら、すぐに証しができる準備ができていますか。パウロは使徒であったから準備周到であった訳ではなく、主にあって自分の過去のすべてを感謝していたからです。使徒パウロが4節から証しする内容すべては、必ずしも胸を張って証しできる内容ではなく、過去の数々の失敗をさらけ出す内容でもあります。私たちが「そこまでさらけ出さなくても」と思える人生の汚点のようなことも使徒パウロは語ります。過去のすべての罪が主イエス・キリストの十字架の贖いによって赦され、マイナスに思える過去の経験もすべて主の栄光のために、福音を伝えるためにプラスに変えられて用いられていることを神様に感謝しているからです。むしろ、神様は私たちの弱さを強さに、マイナスをプラスに変えてを用いられます。私たちも主イエス様のものとされている恵みを分かち合えるよう周到な準備をしようではありませんか。いつなんどきに証しのチャンスが与えられるか判らないからです。

 次に8節の「神が死人を甦らせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」というパウロのユダヤ人たちに対する言葉に注目します。このパウロの言葉は多くの人々には滑稽に思えるでしょうが、パウロの真意は、「死人の復活については聖書に確かに記され、その聖書を神の言葉を信じているはずなのに、神がイエスを甦らせることによって神の子メシアであると宣言された真実をなぜあなたがたは信じないのか、もし神がイエスを甦らせなかったなら、なぜそもそも神が死人を甦らせることを信じるのか」と問うたのです。私たちは、イエス様の十字架の贖いの死と復活を信じる者です。主の十字架と復活を信じる者たちが集められ、教会は建て上げられ、形作られてゆきます。

 パウロは、主イエス様が自分にどう語られたかを証しの中で紹介し、主の言葉に聴き従っていることを証しします。先頭に立ってクリスチャンを迫害していた者に主が歩み寄ってくださり、主に従う者に変えてくださり、そして新しい人生の目的を与えてくださったことを16節から18節で語ります。冒頭の聖書箇所を参照ください。また、コロサイ1:12–14が基礎となりますが、私たちが先に救われたのは、神様の愛が見えない人たちの霊的な目を開き、彼らを闇から光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、その人たちが罪の赦しを得、キリストを救い主と信じる信仰によって、神に聖別された神の民に加わるためということが判ります。パウロは19-20節で、「わたしは主から受けた啓示に今まで忠実に従ってきました」とアグリッパ王に言います。私たちも、自らの意志を持って信仰に立ち、御言葉に養われ、主が自分にどう語って下さっているか、どんなに大きな恵みによって生かされているかを証しして参りましょう。
 最後にパウロは22-23節で、自分の語ってきた福音は、モーセや預言者たちがイスラエルの民に伝えた神の啓示と一致するものであり、イスラエルの信仰に忠実な教えであると強調します。キリストの生涯、キリストが苦難を受けること、死人の中から最初に甦られることが聖書に記されている通りであって、わたしは救いの光(キリスト)を宣べ伝えてきたのですと告白します。私たちも主の十字架と復活によって示された神様の愛を告白し、周囲の人々に証ししましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#82 使徒行伝25章13~27節

2010-01-27 20:06:32 | 聖書
 みことば:「(祭司長やユダヤ人の長老たちの)彼(パウロ)との争点は、彼ら自身の宗教に関することと、死んでしまったイエスとかいう者に関することです。この者(イエス・キリスト)が生きていると、パウロは主張しているのです。」25章19節 岩波訳

 総督フェストの前で皇帝カイザルに上訴したパウロ(12節)でしたが、フェストは困難さを感じていました。何故なら、パウロをローマに送り、皇帝の前で裁判を受けさせるためには、その事件のその時までの経過報告を作成する必要があったからです。また、彼にはパウロを告訴する罪状をローマの法律に見つけることができませんでした。彼自身が27節で、「囚人を送るのに、その告訴の理由を示さないということは、不合理だと思える」と言います。

 そのような困難の壁にフェストがぶち当たっていた時に、総督に敬意を表すためにユダヤの王アグリッパ二世とその妹ベルニケが訪ねてきます。アグリッパはユダヤの祭司長などを任命する権威などを有してはいましたが、王位はローマ皇帝から貰ったものなので、ある意味、彼はローマ帝国によって雇われた「ユダヤの王」でありました。フェストはこのアグリッパ王を利用してパウロの皇帝カイザルへの上訴の報告書を作成しようとします。フェストは、アグリッパに今までの経緯を話すのですが、その中でフェストはユダヤ人たちのパウロ告発はローマの法律をパウロが犯したからではなく、ユダヤ人同士の宗教問題であって、「死んでしまったのに生きているとパウロが主張しているイエスなる者に関する問題に過ぎない」と言うのです。

 フェストの言葉は、死人の復活などない、またパウロが主張していることは馬鹿げたこと、またイエスのことでパウロに翻弄されているユダヤ人たちは愚かだというように聞こえます。イエス・キリストが何のために十字架に架かり、そして死なれたのか、また何のために三日後に復活されたのかを知らない人には、イエス・キリストの十字架の死と復活はそらごとにしか聞こえません。また、イエス様の十字架の死と復活を通して示された神様の愛とご計画を聞かない人、信じない人にはイエス様の福音は戯言にしか聞こえず、福音を神の愛として捉えられないのです。

 イエス・キリストは、わたしたちの罪のために十字架に架かり、肉を裂き、血潮を流してわたしたちの罪を贖って下さいました。そしてわたしたちを死の定めから解放してくださるために神様はイエス様を甦らせて下さいました。わたしたちを罪と死の縄目から解放し、神様の愛の内にわたしたちを永遠に生かすためです。この神様の愛を信じる者にとって、イエス様の十字架の死と復活は福音であり、喜びの知らせなのです。

 この神の愛、キリストの福音を信じる者が恵みによって救われ、集められ、組み合わされて教会が形作られてゆくのです。わたしたちは「あなたはわたしの十字架と復活の福音を信ずるか」と主イエス様に問われているのです。あなたは信じますか。信じるならば、この世からは愚か者と蔑まれることを覚悟しましょう。私たちも主イエス様に従う者として主が歩まれた十字架の道を歩むことを知りましょう。しかし、恐れる必要はありません。復活され、今も生きて共にいてくださる主イエス様、聖霊がおられるからです。主の御言葉とお導きに聴き従い、神様の愛を証しする者として共に歩みましょう。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#81 使徒行伝25章1~12節

2010-01-13 19:59:59 | 聖書
 みことば:「(総督)フェストゥスはユダヤ人に恩を売ろうとして、パウロに向かって言った・・・」25章9節前半 岩波訳

 総督ペリクスはユダヤ人の歓心を買おうとパウロを監禁したままにしたと24章27節にありましたが、監禁されてから2年の月日が経過します。先週、私たちはユダヤ州の総督ペリクスの人物像を学びましたが、ペリクスに代わってフェストという人物が2年後に総督となります。彼についての資料はあまり残されていないのですが、総督として4年弱ユダヤ州を治めた後、病いの為に亡くなったということです。

 総督として着任するやいなやフェストは直ちにエルサレムへ向かいます。エルサレムが宗教的にも文化的にもユダヤ州の中心地であったからです。フェストがエルサレムに着くや否やユダヤ社会の重立った人々、つまり祭司長やユダヤ議会の重鎮たちが近寄り、パウロを自分たちの手の及ぶエルサレムまで戻してほしいと願い出ます。パウロがエルサレムへ戻る途中で彼を暗殺しようと彼らは考えていました。パウロがカイザリヤで監禁中も、パウロに対するユダヤ人たちの憎悪の念はずっと続いていました。フェストは2年前に熱心党の40人がパウロ暗殺を企てていたことも、また今回ユダヤ人リーダーたちのパウロ暗殺計画も知りませんでした。残念なことは、2年前は熱心党に協力を仰がれたユダヤの重立った人々が、今度は自らの手でパウロを闇に葬ってしまおうと計画していたことです。しかし、フェストは「パウロを訴えたければカイザリヤで告訴せよ」と彼らの願いを突っ返すのです。神様は、パウロの命を守る者として異邦人であるフェストを用いられます。フェストは、そのように神に用いられているとは知らずにいたでしょう。しかし、主なる神様が彼を用います。同様に、私たちが意識している、意識していないに関らず、神様は私たちをも主の御心のうちに用いられているのです。私たちのような小さな者でも主の目的のために用いられているということに感謝し、また、「主よ、私をあなたの栄光のためにお用いください」と祈り求めてゆきましょう。

 カイザリヤへ下ってきた大勢のユダヤ人たちは、パウロを取り囲み、重い罪状で訴えます。私たちも、身も心も人や悩みや苦しみに囲まれることがしばしばあり、それらに圧倒されそうになることがあります。しかし、私たちは主イエス様の十字架と復活の力によってその囲いから解放され、自由にされた身であることを覚え、感謝しましょう。使徒パウロは主イエス様にあって「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、何ら罪を犯していない」と力強く宣言します。主イエス様を見上げ、主イエス様の声と導きに忠実に従い、主にあって自由であったからです。私たちも同じように主イエス様の十字架と復活によって自由人とされているのです。人の目や思いを気にしたり、人の価値観や思いに囲まれて、人の思いに怯える必要はないのです。主の愛と救いに感謝しましょう。

 フェストの裁判は、イエス様を裁いたピラトの裁判に似ています。9節でフェストはユダヤ人たちの歓心を買おうとします。前任者ペリクスもそうでした。ユダヤ人たちに恩を売ろうとするのです。私情が入ってしまうこと、情実にとらわれて不平等が起こります。人を喜ばすことで自分のことを良く思ってもらおうとします。私情が入ると「えこひいき」がどうしても出てきて、正義は曲げられ、人間関係が引き裂かれます。神様は「えこひいき」をなさらないお方です。私たちも私情を入れることを忘れ、神が私たちに求め、神が喜ばれる道を主と共に歩みをしましょう。

 「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」ガラテヤ1章10節
 主の栄光のために、主のからだなる教会を建て上げるために、共に。
 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ #80 使徒行伝24章

2010-01-06 20:32:52 | 聖書
 新年 明けましておめでとうございます。新しい年も、それぞれの歩みの上に主の恵みと平安とが豊かにあるようにお祈りします。

 新年礼拝において、私たちはローマ書12章9節~18節から「喜びも悲しみも共に負う一年」を送りなさいと示されました。コミュニケーションという言葉は、ラテン語のコムニカチオに由来し、「コム:共に」と「ウニオ:一致」、そして「ミュニテア:舗装、通行可能にする」という言葉から構成され、「共に分かち合う」を意味します。喜びも悲しみも、主にあって共に分かち合い、共感し、共に負いたいと願っております。その時にはじめて、「喜びも悲しみも主の恵み」と感謝をもって証しと讃美ができると信じています。主のお導きと祝福を共にお祈り下さい。

みことば:「ですから、私自身も、神に対し、また人間に対し、やましくない良心を常に持つように努力しているのです。」24章16節 岩波訳

 今週の祈祷会は、使徒行伝24章を学びます。
最初の部分(1~9節)はエルサレムから来たユダヤ人祭司たち側の弁護士のパウロ告訴の言葉が記され、10節から21節には使徒パウロの弁明と証しが記されています。この2つの部分を読んでゆきますと、共通する言葉があることに気付かされます。それは、総督ペリクスに対する「お調べになれば(ことごとく)お判りになることです」という言葉です。真実は一つです。聖書の解釈、事実関係への理解が異なったり、視点が違っているために真実を誤って見てしまい、論点を間違えてしまうこともよく起こりますが、正確に調べれば判ることです。しかし、その調べることを人任せにしたり、先延ばしにしたり、怠る中で摩擦が心に生じ、人間関係の中にも飛び火してしまいます。ですから、日々忙しいとは思いますが、それでも各自が日々聖書を読む時間を確保し、自分で神様の愛、宝物を丁寧に探すように求めようではありませんか。聖書には神様の愛が散りばめられています。キリスト・イエスという真理の道を共に歩みましょう。

 パウロは弁明の中で、「自分はどんなことがあってもイエス・キリストという真理に立つ」と証しします。私たちも各自この真理の上に立ちなさいと導かれています。誰かの信仰に便乗はできないのです。パウロは「神に対し、また人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています」とも言っています。私たちもパウロのような者でありたいと願います。そのためには「祈り」と「謙遜を身に帯び」、御言葉によって私たちの心を新しく造り変えていただき、朝ごとに新しい力を注いでくださる「主の言葉に聴き従う」必要があります。私たちを生かし、愛してくださる神様の愛と憐れみにこの一年も
生かされてまいりましょう。

 さて、最後に総督ペリクスとパウロのやり取りが展開されますが、この総督について少し記したいと思います。22~23節によれば、ペリクスは優柔不断な人であったことが記されています。また26節ではパウロから金をもらいたいという下心があったとあり、27節ではユダヤ人の歓心を買おうと思ってパウロを監禁したままにしたとあります。彼は平気で二股をかける利己主義の人でした。私たちは、この新しい一年も富や名声や人の関心に心を寄せるのではなく、救い主イエス・キリストという真理に立ち、神様の御旨を求め、真理の道を共に歩んでゆこうではありませんか。神様はイエス様の御言葉に聴き従い、主と
教会と隣人に仕える者を豊かに祝福なさいます。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて  
大久保教会 牧師 河野信一郎