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大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

メルマガ#72  使徒行伝21章1節~16節

2009-10-29 20:54:44 | 聖書
 みことば:「するとパウロは答えて言った『あなたたちは泣き、私の心をくじいて、どうしようというのですか。私は主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られるだけではなく、死ぬことさえも覚悟しているのです』。」20章13節 岩波訳

 この箇所は、使徒パウロの第三回伝道旅行が完結する部分です。エルサレムへの船旅の模様が記されていますが、この旅の模様は主イエス様のエルサレムへの旅路を追憶にひたらせます。ルカ福音書には、主イエス様の十字架への道の覚悟と弟子たちの不安が記されていますが、ルカが記した使徒行伝21章ではパウロのエルサレムでの投獄と苦難への覚悟と弟子たちの不安が記されています。

 まずパウロたちはフェニキア地方のツロに到着し、そこで7日間滞在します。ツロでパウロたちはクリスチャンたちを捜し出したとありますが、パウロたちの宣教・伝道活動によってではなく、ステパノ殉教直後の迫害によってエルサレムから離散したクリスチャンたちによってツロにも福音が届き、多くの人がクリスチャンとなった事が分かります(11章19f参照)。エルサレムでの大迫害の危機は、全国各地へと福音が広がるチャンスとなったのです。私たちが人生で直面する危機も、神様が祝福へのチャンスとしてくださると信じましょう。今の苦しみ、人生のマイナス要素も、神様は必ず恵み、プラス要素へと変えて下さいます。どんな時も主に信頼し、聖霊の導きに委ねてゆくのがキリスト信仰です。

 先週も学びましたが、使徒パウロは「聖霊によって」自身の上に降り掛かるエルサレムでの苦難を知らされますが、その苦難も神様の導きと信じ、覚悟をしています。しかし、同じ「聖霊」がツロのクリスチャンたちの心に示しを与え、エルサレムへ上ってゆかないようにパウロに言います。同じ「聖霊」がパウロを押し出し、ツロのクリスチャンたちによって引き止めるというのはどういうことか。ここでの聖霊の役割は、ツロのクリスチャンとパウロの同行者たちに使徒パウロがエルサレムで受ける苦難について教える働きがあり、またパウロに対しては厳しい苦難への心の準備を与えることでした。聖霊によってパウロの苦難を知らされた弟子たちの必然的なリアクションはパウロを説得することでしたが、その説得に失敗したことを通して、パウロの苦難の覚悟と神様のご臨在と導きへの信頼は固かったことを証明しているのです。エルサレムへ行く事には神様のご計画と目的があるとパウロは固く信じていたのです。ですから、苦難の道から逃げずにその道を進むのです。説得に失敗したツロのクリスチャンたちは見送りの時にパウロと共に跪いて祈ります。彼らは艱難や苦難の時へのクリスチャンの「防備」は「祈り」であることを知っていたのです。あなたの信仰生活を守り、力づけるものは「兄弟姉妹たちと共に主の御前に跪
いて祈る」ことなのです。共に祈りませんか。共に祈りましょう。

 ツロから40キロほど南下した町トレマイ、そしてカイザリヤに進みます。エルサレムへはまだ102キロの町です。ここで伝道者ピリポの家にパウロたちは滞在します。ピリポには4人の娘がいて、彼女たちは預言をしていたとあります。ここから学べることは、初代教会にも女性の預言者がいて、彼女たちの働きが認められていたということです。ルカは福音書でアンナという女預言者の存在を記していますが、女性たちも預言者、牧師、伝道師として用いられるということを示していると思います。主に仕える者に性別は関係なく、ただ神様から与えられている賜物を主に献げるか否かが問われ、献げる者を主は豊かに用いられるのです。それぞれの賜物を主に献げましょう。

 カイザリヤに預言者アガボ(11:27-28参照)がユダヤからパウロの所へ来て、エルサレムにおいてパウロが受ける苦難を預言します。この預言は弟子たちの心をますます不安にさせますが、それとは反対にパウロの覚悟をさらに強固なものとします。聖霊は、私たちの心を頑なにする神ではなく、私たちの心を主の御前に柔らかく柔軟にすると同時に主の御旨に従う決心と強固にさせる神であり、神様の愛の力なのです。聖霊は、私たちに神様のご臨在を感じさせ、主の約束の保証を与えるのです。私たちの心を頑なにするのは、私たちの肉の思いなのです。聖霊の導きと励ましと祝福を祈りましょう。

 パウロを引き止めようとした者たちを「わたしたち」と12節でルカは記します。ルカもパウロを引き止めようとした一人なのです。しかし、パウロはエルサレムへの道は「主の御心」であると聖霊によって確信していますから、ルカたちはただ「主の御心が行なわれます様に」という他に術はなかったのです。ここでイエス様のゲッセマネの園の祈りが思い起こされるでしょう。ルカ22章42節で「父よ、御心ならば、どうぞ、この杯を私から取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、御心が成るようにしてください」と主イエス様は祈られます。今回のツロとカイザリヤでの出来事は、「パウロのゲッセマネ
」であったのです。

 数日後、パウロとその一行は102キロ南下してエルサレムへ入ります。ここで異邦人伝道の旅路が終わりました。後にパウロはエルサレムで「鎖」につながれるのです。アジヤ、マケドニア、ギリシャ各地の諸教会を再度訪れることはもうありません。しかし、パウロは主イエス・キリストに対する信仰をそれぞれの教会に置き土産として残してきたのです。私たちは、クリスチャンとして何を残してゆけるでしょうか。日々、祈り、御言葉に聞き、聖霊の導きの中で自分に委ねられた証しを立ててゆきましょう。

週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#71 使徒行伝20章17節~38節

2009-10-21 21:03:40 | 聖書
みことば:「私は自分の走るべき道のりを走り尽くし、神の
恵みの福音を証しするという主イエスから受けた任務をまっと
うするためならば、自分の命のことなど口にする値打ちもない
と思っています。」 20章24節 岩波訳

この箇所は、使徒パウロのエペソ教会への決別説教です。パウロは、「もう二度と自分の顔を見ることはあるまい」と言ったので、人々は心を痛めたと38節にあります。私たちの人生も出会いと別れがあります。しかし、主イエス様を通して与えられている約束は、たとえ地上で再会できなくても神の御国で再会できるという希望と恵みです。主イエス様を抜きにして考えれば、すべては悲しみです。しかし、主イエス様を信じる信仰によって、地上では慰めと励ましと希望が与えられ、御国では永遠の喜びが与えられるのです。ですから、主から恵みとして与えられている出会いを大切にしましょう。

 使徒パウロはエペソでの3年間の働きを振り返り、自分の働きの性質を4つ、エペソ教会の長老たちに述べています。第一に、試練の中にあっても謙遜の限りを尽くして主に仕えたと言います(19節)。謙遜をもって人々に仕える事が主イエス様に仕えることでした。「あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊によ
る一致を守り続けるように努めなさい」とエペソ4:2-3にある通りです。第二に、パウロはいつでもどこでも福音を余すところなく人々に伝えました(20節)。第三に、パウロは「すべての人」に神様に対する悔い改めと、主イエス様に対する信仰をもつことを勧めます。だれも洩れる事なく神様に愛され、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという福音を伝えました(21節)。ユダヤ人の多くは福音に心を閉ざし、パウロたちを迫害しましたが、そのようなユダヤ人もすべて悔い改めてイエス様を信じて従えば救われるのです。パウロは、自分のように雄々しく、謙遜に、すべての人に福音を伝え、仕えるよ
うに私たちクリスチャンたちに勧めるのです。第四の性質は最後に伝えます。

 22節から27節まで、パウロ自身のこれからの歩みがどのようなものかが語られます。すべては聖霊の導きであり、聖霊の力強き導きに従うとパウロは言うのですが、エルサレムへの道は異邦人教会からの献金を携えてゆく喜びと投獄と艱難が待ち受けているものであると言います。エルサレムへの道は、苦しみへの道でもありました。私たちならばすぐに逃げてしまうでしょう。しかし、パウロはその苦しみの道を進むのです。イエス様が十字架の道を歩まれた事を感謝して信じていたからでしょう。24節に理由が記されています。すべては主イエス様から賜った「神の恵みの福音を証しする」ためなのです。「神の恵みの福音」をいう言葉は他の新約聖書には出てきませんが、イエス・キリストの福音です。パウロは自分の人生の目的を明確に理解していました。キリストを証しすることです。わたしたちは自分自身の人生の目的、使命を明確に理解しているでしょうか。私たちは、信仰の目と心をその使命から背けているのかもしれません。そのような私たちにパウロは「わたしに習いなさい」と勧めるのです。

 エペソ教会の長老たちに対して、使徒パウロは28節から31節で自分が去った後に襲いかかって来るサタンの攻撃に気を付け、恵みにとどまり続け、恵みから遠ざける者と戦いなさいと勧めます。「パウロが去った後」というのはパウロの死後という意味も含まれています。パウロの死後、狂暴なおおかみが教会に入り込んで荒らし、また教会の内側からも曲がったことを言う者が起こるから、教会の牧会者、監督者であるあなたがたがまず充分に気を付けよと忠告するのです。28節には、「まず自分自身に気を付けよ」といつも主の恵みにつながっている様にと促します。あなたがたをクリスチャンとして立てたのは「聖
霊」であると28節から理解できます。

 32節から35節に、エペソ教会への最後の祝福の言葉と奨励が記されています。私たちクリスチャンは神様の一方的な恵みによって聖別されているとあります。私たちが自身を聖別したのではなく、神様の恵みと憐れみのあらわれであるイエス・キリストという御言葉によってです。この主イエス様にエペソ教会のこれからの歩みを委ねると使徒パウロは言います。私たちの教会の歩みも主イエス様に委ねられています。私たちはただ、このイエス様の御言葉に聴き従って歩むことが神様から求められているのです。主イエス様には、わたしたちの「徳をたて」、私たちに「御国をつがせる力がある」のです(32節)。

 パウロの最後の奨励は、パウロがエペソで行なってきた働きの4つ目の性質でもあります。それは「あなたがたも私のように働き、弱い者を助けなさい」ということです。あなたがたに仕事が与えられ、仕事ができる能力も体力も精神力も、自分の生活重視のため、至福のためではなく、弱い者を支え、弱い者に仕える為だと使徒パウロは言われるのです。「受けるよりも与える方が、さいわいである」という主イエス様の言葉を記憶しなさいと私たちに勧めるのです。偽クリスチャンはお金や富、自分を愛します。真のクリスチャンは、イエス様がそうされたように、隣人を愛し、仕えるのです。主の御心に叶った者になるためには御言葉と祈りと聖霊が必要ですから、共に祈りましょう。

 今回はいつもより長くなってしまいました。ごめんなさい。週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ#70 使徒行伝20章7節~16節

2009-10-14 22:06:33 | 聖書
 みことば:「週のはじめの日、私たちがパンを裂くために集まっていた」 20章7節、「彼(パウロ)は、できるならば五旬節(ペンテコステ)にはエルサレムに着いていたいと、旅を急いだのである。」16節  岩波訳

 使徒パウロは、エルサレムへ向かう際、トロアスに一週間滞在し、主にある兄弟姉妹たちに神様の恵みを語り続け、彼らとの交わりを深めます。そしてエルサレムへ旅立つ前夜、とある人の家の屋上の間で夜遅くまで人々と語り尽くします。ユテコという若者もそこにいて、窓に腰掛けていたのですが、パウロの話しが真夜中まで続きましたので、ひどい眠気に襲われ、眠り込んで3階から下へ転落、息を引き取ってしまいます。しかし、パウロは「騒ぐ事はない。命はあるのだから」と言ってユテコを蘇生させるのです。
   
 この記述はとっても不思議で興味深いのですが、何を意味しているのか不明にも感じます。しかし、この出来事を理解するキーワードがここに2回用いられ、その言葉で今回の出来事は鍵括弧されているのです。そのキーワードは、7節と11節の「パンを裂く/裂いて」という言葉です。このパンを裂くという行為は、「主の晩餐式」を表しています。つまり、使徒パウロは、週の初めの日(日曜日)にトロアスの兄弟姉妹たちと共に主の晩餐に預かっていたということが表されています。時は、過ぎ越しの祭りの終わりの時期、つまり、イエス・キリストの十字架による贖いを覚え、感謝し、それぞれがキリストの証し
人として召命を受けていることを互いに確認していたのです。

もっと正確に言えば、主の十字架と復活を喜び祝い、証し人としての使命を再確認していたのです。若者ユテコは、「死に」、そして「生き返り」ます。そこには、主イエス様の十字架の死と復活の勝利が重ねられているのです。神様は、私たちの弱さ、痛み、傷、悲劇を主イエス様によって「喜び」へと変えてくださるのです。この神様と主イエス様を信じ、救いを喜びましょう。

 今回の箇所は、聖書に記されている最も初期の礼拝の様子が記されています。初代クリスチャンたちの集まりは、「週のはじめの日」つまり主イエス様が復活された日曜日でした。そしてこの主が復活された日を覚え、神様に礼拝をささげ、主の晩餐にあずかり、そして主の御言葉を宣教として聞いたのでした。若者ユテコが生き返った出来事は、トロアスのクリスチャンたちに対して、使徒パウロが宣教している主イエス・キリストが確かに甦られ、今も生きておられる事を鮮明に思い起こさせることだったのです。

 13節から16節は、トロアスからミルトへとエルサレムへの旅路を急ぐ使徒パウロが描かれています。パウロはペンテコステまでにはエルサレムに着きたいと願っていたことが16節から伺えますが、ここからたいせつな事を確認したいと思います。つまり、私たちはパウロのように全力を注いで「主の日」を守ろうとしているかということです。ご承知の様にペンテコステは初代教会と初代クリスチャンたちにとって非常に重要な日です。ペンテコステの日に神様から聖霊が注がれ、祝福と力が注がれて初代教会が誕生し、宣教の業が開始されたからです。パウロは、主イエス様が復活された週の初めの日とペンテコステを大切にしました。私たちも主の日である日曜日を「主に礼拝をささげる日」として大切にしましょう。第一にする最大限の努力を祈りつついたしましょう。

 今年もクリスマスが二ヶ月後に迫ってきました。このクリスマスシーズンを待ち望む人が世界中にたくさんいます。日本にもクリスチャン人口の何百倍もの人がクリスマスというシーズンを本当の意味も知らないまま待ち望んでいます。最高のクリスマスを愛する人と過ごそうと最大限の努力とお金をつぎ込む人もたくさんいます。神様の愛、主イエス様の十字架の贖いと復活を信じ、喜んでいる私たちは彼ら以上に最大限の努力を祈りつつしてゆくべきでないでしょうか。

 主イエス様のお生まれになった日、十字架に架けられた日、復活された日、聖霊が与えられた日、日曜日という主の日をたいせつにし、守る最大限の努力を惜しまないようにしましょう。主を礼拝する者を神様は豊かな愛をもって祝福して下さるのです。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。

 主に在りて 大久保教会 牧師 河野信一郎

メルマガ #69 使徒行伝20章1節~6節

2009-10-07 18:42:57 | 聖書
 みことば:「騒動が落着した後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げ、マケドニア州に向かって出発した。そして、この地方をめぐりながら、言葉を尽くして人々を励まし、ギリシャに来(た)。」 20章1~2節 岩波訳

 今週の祈祷会は、使徒行伝20章1節~6節を学びます。銀細工師デメテリオたちによる騒動も治まり、使徒パウロは約3年に亘るエペソでの宣教活動を終え、トロアスを経由してマケドニヤ州に行き、それからアカヤ州にあるコリントへ赴くことにしました。最大の目的は、マケドニヤとアカヤの諸教会によって集められた援金を受け取り、そのお金をエルサレム教会の兄弟姉妹へ届けるためでした。使徒パウロは、訪れるそれぞれの教会で兄弟姉妹を御言葉によって力強く励まします。

 しかし、マケドニヤを通ってギリシャ・コリントまでの旅、つまりトロアス、ピリピ、テサロニケ、コリント教会などの諸教会への旅の行程が、驚くばかりに1節と2節だけに簡素化されています。しかし、本当はこの旅でもいろいろなことがあったのです。興味のある方は第二コリント1章から7章をお読み下さい。7章5節に「マケドニヤに着いたとき、わたしたちの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった」とパウロは言っています。ギリシャにあるコリント教会ではパウロに対する不満があり、使徒として罷免にしようとまでの動きがありましたから、コリントへの道はパウロにとってさぞかし心に負担があったでしょう。しかし、コリント教会に派遣されていたテトスがピリピで合流し、コリント教会の兄弟姉妹がパウロに心開き、悔い改めたとの良き知らせを聞いてパウロは喜びます。パウロはギリシャ・コリント教会で3ヶ月間滞在したと3節にあるのは、そういう事情があった後の喜びの時間であり、この期間(西暦55-56の冬頃)にローマ人への手紙が書かれました。

 最初に申しましたように、使徒パウロの第三回目の伝道旅行の最終行程の目的は、エルサレム教会への支援金を諸教会から預り、エルサレムへ携えてゆくことでした。この支援金のことは、この伝道旅行中に記された書簡・ガラテヤ2:10、1コリント16:1-4、2コリント8-9章、ローマ15:25-32に記されています。パウロにとって、異邦人の諸教会からエルサレム教会への支援金は、エルサレム教会の兄弟姉妹たちの貧しさを補うだけでなく、主に在ってユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンは一つであることを目に見える形で表すことのできるものであったのです。また、クリスチャン同士の愛を示すものでもありました。援助のお金は愛のささげものです。ささげる者は愛をもってそうするのですから、受け取る者も遠慮することなく、躊躇うこともなく感謝して受け取れば良いのであって、この事が愛を強め、神様の栄光をあらわすのです。私たちも、兄弟姉妹の必要の為に祈り、自分に出来ることを喜んでいたしましょう。献金も同様です。第二コリント9:7に「各自は惜しむ心からではなく、また、強いられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」とあります。互いに仕え合いましょう。

 パウロと異邦人教会のクリスチャンたちがエルサレムのユダヤ人クリスチャンたちを愛し、サポートしようとしているのに、コリントにあるユダヤ人たちが陰謀を企てたとあります。誠に残念なことです。どうしてこのような理不尽な妨害が入るのでしょう。3節にはパウロたちが旅の予定を変更したことが記されています。コリントから船で直接エルサレムへ船で向かう予定を徒歩でマケドニヤを経由することになります。試練は忍耐を生み出します。私たちの人生も計画通りとはいきません。しかし、それでも主に信頼して、主から委ねられた使命に生きるのです。

 4節にそれぞれの異邦人教会を代表してパウロと共にエルサレム教会へ向かったクリスチャンたちの名が連ねられています。諸教会から集められた大金を運ぶ時の護衛役ではなく、エルサレム教会との交わりを深めるために派遣された代表です。実は、私たち一人ひとりもキリストを証しする者、それぞれ遣わされた場所で大久保教会を代表する者なのです。牧師や執事だけが代表ではないのです。私たちの言葉と行為を周りの人々は見て聞いているのです。そのことを忘れずにいましょう。

 5節から、パウロのピリピでの働き(16章17節)以来途絶えていた「わたしたち」という第一人称複数形が再度用いられます。ルカがエルサレムへの旅に再度加わったのです。主の御心のうちに働き人が加えられてゆきます。「生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時がある」(伝道3:2)のです。私たちの信仰と教会の成長にも神の時があることを覚え、主に信頼して歩んでまいりましょう。

 週の後半の歩みも、主イエス様が共に歩んで守り導いてくださいますように。
 主に在りて
大久保教会 牧師 河野信一郎