goo blog サービス終了のお知らせ 

大久保バプテスト教会 聖書の学び

大久保バプテスト教会で祈祷会に配信されるメルマガを掲載しています。
聖書の学びを御一緒に

ピレモンへの手紙

2011-01-16 22:14:43 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年7月21日

今日は、都心では2年ぶりの猛暑日とのこと。本当に暑かったですね。皆さんはご機嫌いかがでしょうか。主の恵みと平安とが皆さんの上に豊かにあるように、多忙の中にあっても健康と心と信仰が守られるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会では、ピレモンへの手紙を学びます。使徒パウロのコロサイ人への手紙の結びの言葉を先週学びましたが、ローマで監禁状態にあったパウロの手紙をコロサイやエペソなど各地に届けたのは、主にある忠実な兄弟たち、テキコとオネシモでした。しかし、そのうちのオネシモは、実はピレモンという主人のもとから逃げて来た奴隷で、逃亡中のローマでパウロと出会い、イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとなった経緯をもつ人でした。このオネシモをクリスチャンとしてピレモンのもとへ送り返す事になった時にしたためた手紙がピレモンへの手紙です。

まず、ピレモンとその妻アピヤ、福音のために共に戦う同志アルキポとピレモンの家の教会の人々へ挨拶をし、神と救い主の恵みと平安を祈った後、パウロはピレモンたちの忠実なる働きを神様に感謝します。ピレモンたちの愛と信仰の交わりによってどれだけ多くの人々の心が喜びに満たされ、慰められ、励まされたかをパウロたちは伝え聞いたのです。「心」という言葉は、「人間の感情の深奥の座」という意味があるそうです。ピレモンたちの家の教会が聖霊の実を豊かに結んでいたのです。私たちの教会も小さな群れですが、私たちが互いに愛し合い、主イエス様と主の御言を中心とした交わりを持つ事で、一人でも多くの人々が喜びに満たされ、慰められ、励まされるような都会の中のオアシスになれればと切に願います。小さいながらに、欠けや弱さがある中で、それでも肩の力をぬき、力まず無理せずに寄り添い、愛し合い、言葉をかけ合い、祈り合い、励まし、支え合ってゆきたいです。地道に主に仕えてゆく中で、キリストのためになされるすべての良い事が、地域に知られてゆくようにしたいと思います。

この愛と信仰に生きているピレモンにパウロは率直に一つの願いをします。それは過去にピレモンを裏切って逃げたオネシモをピレモンのもとへ送り返すから、彼の過去の過ちを許して、快く受け入れて欲しいというものでした。オネシモのことを「捕われの身で産んだわたしの子ども」とパウロは言っています。さらに「彼は以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者となった」とピレモンに言っています。ここには言葉遊びがあって、「オネシモ」という名は「有益」という意味なのです。あなたにとって無益であったオネシモが、クリスチャンとなって福音宣教のために有益な者となり、福音のゆえに獄中生活をしている私のために今まで忠実に仕えてくれた、そしてこれからもそうしてもらいたいが、あなたの承諾なしにはそうすべきでないと思っているとピレモンに願います。私たちも罪人であった時は無益な者でしたが、主イエス様に出会い、救い主に従う決心をしてからは主の福音と栄光のために有益な者とされました。ですから、強制されてではなく、自発的に(14節)それぞれの賜物を教会に持ち寄って、共に主と教会と地域にお仕えしたいです。

使徒パウロは、オネシモをかつての奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり人として、愛する兄弟として、私を受け入れるように彼を受け入れて欲しいとピレモンに願います。オネシモに対する世の中の人間観は「奴隷」でした。しかし、世の中の価値観だけで人を見て接したりするのではなく、「神に愛され、キリストによって罪赦された者」として見て、付き合って欲しいと願います。もしオネシモにまだ負債があるのであれば、私が代わりにそれを返済しようとまで申し出ています。ここにはオネシモとピレモンに対するパウロの愛と細やかな配慮が散りばめられています。私たちも、神様が出会わせて下さる人々を、外見や性別や年齢や教養や身分や身体などで判断するのではなく、神様に造られ、生かされ、愛されている存在として寄り添ってゆければ、互いの心は喜びに満たされ、慰められ、励まされて主の愛と赦しを受けて幸せになるのではないでしょうか。大久保教会として、またクリスチャンとして出会ってゆくすべての人に神様の恵みを証しをしてゆけるように共に祈りましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

コロサイ人への手紙4章7節~18節

2011-01-16 22:11:19 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年7月14日
主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、多忙の中にあっても健康と心と信仰が守られるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙の最後の部分、4章7節~18節を学びます。この部分は、使徒パウロのコロサイのクリスチャンたちへ手紙の結びの言葉です。まずパウロは、7節と9節で、テキコとオネシモいう忠実な兄弟たちがこの手紙をコロサイの兄弟姉妹へ届けると言っています。ローマで軟禁状態にあるパウロの手紙をコロサイやエペソなどの各地に届けたのは、忠実な兄弟、しもべ仲間でした。私たちも、主のしもべとして、忠実に主にお仕えし、福音を地域と隣人に届けたいと願います。オネシモについては、来週、ピレモンへの手紙を学びますから、その時にお話ししますが、実は彼はピレモンのもとから逃げて来た奴隷でしたが、パウロとの出会いを通してクリスチャンとなりました。

7節から14節までにはたくさんのパウロの同労者の名が記されています。テキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカ、デマスです。マルコとルカは後に福音書を記した人たちですが、この同労者のリストから判る事は、パウロの伝道はチーム伝道であったことです。パウロはよく「気難しい性格な人」とか、「単独行動の好きな孤独な人」というレッテルを貼られますが、それは大きな間違いで、チーム伝道を重要視する伝道者でした。多くの同労者の助けなしに福音伝達の業はできないとよく理解していました。そして同労者たちの功績を惜しみなくたたえ、感謝をする人でした。テキコのことをパウロは「忠実に仕えている愛する兄弟」と呼び、オネシモのことを「忠実な愛する兄弟」と呼びます。大久保教会も一丸となって、チームで伝道をして行く事が主の御旨ではないかと強く感じます。限られた人だけでは大変です。それぞれの賜物を持ち寄って、主におささげし、主と教会と地域に仕えてゆきましょう。
もう一つ、このリストから判る事は、初代のクリスチャンたちは主にあるクリスチャン仲間のネットワークを持ち、そのネットワークで共に福音を伝えたということです。皆さんにもお仲間がおられると思いますが、クリスチャンの仲間はもっとも重要であり必要な仲間なのです。私たちが仲間と言う時、大学時代のサークル仲間であったり、同窓・同郷・同性という一つの枠内の仲間あったりしますが、パウロの仲間を見ると、奴隷、医者、割礼を受けたユダヤ人、異邦人とバックグラウンドの幅が実に広いのです。それはキリストの福音が奴隷であれ、自由人であれ、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、すべての人々に伝えられ、その人々が身分など関係なしにイエス様を救い主と信じることのできたという証明です。私たちには大久保教会という神の家族、主イエス様を中心とした仲間が与えられています。その仲間が与えられていることを喜び、主に感謝し、互いに仕え合い、祈り合い、支え合ってゆきましょう。また、必ずしもバプテストという枠組みにとらわれる必要はないと思います。教派、教団、教会を越えたクリスチャンの仲間を職場や様々な環境のなかで増やしましょう。そのために必要なステップは「私はクリスチャンです」と告白する事だと思います。その告白を主は祝福してくださり、新しい出会いを与え、クリスチャンネットワークを広げてくださるでしょう。ネットワークを築き、共に主の栄光のために働き、キリストの福音を伝える業に参加してゆきたいですね。
12節に、キリスト・イエスのしもべエパフラスの熱心な祈りの内容が記されています。彼の熱き願いは、コロサイの兄弟姉妹たちが「まったき人となり、神の御旨を事毎に確信して信仰に立つように」なることでした。今日、主イエス様は同じことを私たちに願っておられるのではないでしょうか。主イエス様を救い主と信じ、主に倣う者、似る者としてまったき人に変えられてゆくこと。そしてすべての事柄には神様の目的とご配慮、意味があると確信し、全幅の信頼を寄せてゆくことを私たちに求めておられるのだと思います。
「主にあって受けた務をよく果すように」と17節にあります。これはパウロからアルキポへの励ましの言葉です。この言葉を私たちへの叱咤激励の言葉として聞いてゆきたいと思います。私たち一人ひとりが「主から受けた務め」、それをもう一度思い起こし、主と教会と隣人に仕えてまいりましょう。
パウロは結びの言葉として「わたしが獄につながれていることを、覚えていてほしい」と18節で訴えます。この言葉は、「わたしのことを哀れに思って下さい」という意味ではなく、パウロと同じように福音のために迫害に苦しみ、また信仰生活の中で労苦している人々への励ましの言葉でもあります。主のご栄光のための苦しみ。隣人のための苦しみ。どんな時にも、主に信頼して、主のために働く時、主の愛と憐れみと恵みを体験するのです。救い主イエス様を信じましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

コロサイ人への手紙4章2節~6節

2011-01-16 21:05:05 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年7月7日
今日は七夕ですね。お元気ですか? 私たちは、神様の憐れみの中で、御言葉と祈りと黙想を通していつでも神様と親しく交われますから、感謝ですね。 主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りしています。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙4章2節~6節を学びます。

使徒パウロは、私たちに対して
1)いつも信仰の目をさまし、
2)感謝の祈りをし、
3)ひたすら祈り続けなさいと
2節で勧めます。

目を覚ましていることは、「サタンの誘惑に陥らないように、心は熱しているが、肉体は弱いのです」と言われたイエス様の言葉を思い出させます。信仰の目を覚ましていると、何が神様のご配慮とお導きであって、何がサタンの誘惑であるかが判るということでしょう。信仰の目を閉じると、眠りに陥ってしまい、主の光と道が見えなくなります。信仰的に彷徨い、神様から離れることになりかねません。信仰の目を覚ましていると、神様の愛と御業をいつも拝して、心から喜ぶことができるからでしょう。

すべてのことに感謝しなさいと私たちは命じられています。それは、すべての事柄には神様のご配慮とご計画、主の目的と意味があるからです。私たちは、喜ばしい事柄には素直に神様に感謝できます。しかし、感謝できない様々な事柄にも神様のご計画があるから、主に信頼して、主に感謝しなさいと命じられています。

ひたすら祈り続ける。これは簡単な様でチャレンジングな命令です。私たちが祈りたい時とか、祈らざるを得ない時だけ祈るのではなく、時が良くても悪くてもひたすら祈る。ひたすら神様とのコミュニケーションをとってゆくことの重要さを語っているようです。「祈りは信仰の呼吸」とよく言われます。神様に心を向けて祈らないと信仰的に窒息してしまいます。またフォーサイスというイギリスの神学者は「祈らないことは最大の罪である」と言いました。サムエル記上12:23で預言者サムエルはイスラエルの民に対して「わたしはあなたがたのために祈ることを止めて、主に罪を犯すことは決してしないであろう」と言いました。

パウロは、コロサイ教会の兄弟姉妹たちに「わたしたちのためにも祈ってほしい」と3~4節で訴えています。祈りのリクエストその一は、パウロたちが伝道できるように神様が門を開いてくださるように。その二は、キリストの福音を語れるチャンスがパウロたちに与えられるように。その三は、そのチャンスが到来したら語るべきことを大胆に語れるようにということでした。コロサイ教会の兄弟姉妹たちがただ祈られる存在として存在するのではなく、教会のために、使徒たちや互いのために祈って支える存在になってほしいと訴えています。私たちの大久保教会もそのような「互いに祈り合い、支え合う」教会に形作られてゆきたいと心から願っています。祈りの課題があったら、いつでも祈りの要請ができ、心を一つに祈る、愛し合う教会に形作られてゆきたいですね。そのために「遠慮はなし」にしましょう。強がることなく、一人で無理することなく、心を合わせて共に神様に祈りましょう。私を「信仰の孫」と可愛がってくれた副田正義先生は、私への手紙をいつも「祈っています。祈って下さい」という言葉で閉じられました。信仰の大先輩が私の様な若輩者に「祈ってください」と頼むことに、先生の謙虚さ、祈りなしに主のために働けないという信仰のひた向きさを感じました。

5節で「今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい」とパウロ先生は言われます。「そとの人」とはクリスチャンでない人のことです。この人たちに主の恵みを証しすることが私たちクリスチャンに委ねられていますが、主の導きと力添えを祈りつつ、神様が与えてくださる出会いと証しのチャンス時を見極め、そして賢く用いることができるようにと励まします。神の備えてくださる時を「生かす」、きめ細やかな心配りをしつつ行動しなさいと聞こえます。

6節に「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」と言われています。普通の言葉ではなく、塩で味つけられた優しい言葉です。塩は「変化・変革」を表す言葉だと思います。私たちは、主イエス様という神の言葉によって現在進行形で「造り変えられている者」です。主の言葉は私たちに変化をもたらします。主の言葉を聞いても私たちに何も変化がないなら、主の言葉をしっかりと聞いていない、不従順であるということになりましょう。主の言葉は、私たちの刺々しく堅い心を柔らかく優しい心に変えてくださる力です。主の言葉に聞き従う者として、いつもやさしい言葉と思いやりのある行動をとり続けたいですね。そのために、共に祈りませんか。共に神様に、主イエス様を通して祈りましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


コロサイ人への手紙3章18節~4章1節

2011-01-16 21:01:11 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年6月30日

主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りしています。

次の主日まで神学校週間です。献身して学ばれている神学生たちと神学校(西南学院大学神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校)の働きためにお祈り下さい。
来主日4日は、大久保教会の45回目のお誕生日です。ご一緒にお祝いしましょう!

1月から共に礼拝をおささげして来たキム・ヒジュン兄が来週10日に韓国へ帰国されます。残された大学での学びと希望している日本での就職への導きのためにお祈りください。今週末には韓国から弟さんが日本に来られます。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙3章18節~4章1節を学びます。この箇所は、エペソ5章と6章に関連する「クリスチャンへの家族に対する勧め」です。ここは「妻、夫、子、父
、しもべ、主人たる者、何々せよ」と勧められている箇所で、この言葉を煙たがる人も多くいるのではないかと思います。しかし、実はこの箇所は「煙たい」箇所ではなく、「恵み」の箇所であり、私たちの受け止め方を肯定的にする必要があります。

第一の恵みは、私たちは主イエス様によってクリスチャンとされていることです。これは何にも代え難い、神様からの一方的な憐れみによるものですから、まずこの神様のお取り計らいを喜び、主イエス様の犠牲に感謝しましょう。

第二の恵みは、私たちは両親や子どもたち、夫や妻たちに対して、クリスチャンの妻、夫、親、子と神様の御旨によってされていることです。私たちは奴隷の身分ではありませんが、地域社会や会社で働くクリスチャン社会人とされています。クリスチャンのビジネスオーナーであれば、クリスチャンオーナーされているのです。

第三の恵みは、私たちはその家族や社会の人々、会社の人々、日々出会ってゆく人々たちへクリスチャンとして派遣されていることです。オーナーであれば、従業員たちや取引先の人々へもクリスチャンとして派遣されているわけです。

ここには「夫に仕えなさい」、「妻を愛しなさい」、「何事についても両親に従いなさい」、「子どもをいらだたせてはいけない」、「肉による主人に仕えなさい」、「しもべを正しく公平に扱いなさい」とあり、これらの言葉を「時代に逆行するナンセンスな言葉」と捉える人もあると思います。何故そのように捉えるのでしょうか。それは、今の時代はギブ・アンド・テイクの時代だからでしょう。しかし、敢えていうならば、テイクのみの時代が強まり、自己中心的な人が多くなってきているからではないでしょうか。「仕える」よりも「仕えられたい」、「愛する」よりも「愛されたい」、「従う」よりも「従わせたい」と言った具合です。多くの人は「受ける権利」を主張します。

しかし、私たちはすでに主イエス様から十分すぎる程の「救い」の恵みを受けています。しかし、私たちは神様からの愛だけでなく、人からも愛されたいという症候を持っていますから、テイクのみになることはなくても、ギブ・アンド・テイクでいきたいと思ってしまいます。しかし、イエス様は、「受けるよりも、与えるほうが幸いである」と言われます。また、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである」とマルコ10:45でおっしゃいました。

私たちがクリスチャンとして大切にしたいこと、それは「人が私に何をしてくれるか」ではなく、「私は人に何をしてあげられるか」ということを問い続けることだと思います。「受ける権利」を主張するのではなく、「与える」「恵みを分け与える喜び」を伝えたいと願います。

主によって派遣されている人々に対して私たちがクリスチャンとして「仕え、愛し、従う」ことは「主にある者にふさわしい」(18節)、「主に喜ばれること」(20節)とあります。それは神様、主イエス様の御心に沿ったことなのです。

また、23節には「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように」と勧められています。地上で人々に仕えることは主イエス様に仕えることであり、地上で隣人や家族たちを愛することは天の神様を愛することにつながるのです。その報いとして、私たちは御国を受け継ぐことが恵みとしてできるのです。

大切な3つのポイント: 主イエス様が十字架の死に至まで神様のご計画に従順に仕えられたように、私たちの従順に仕えること、仕えることができることを喜ぶこと。 主がご自分の命を捨ててまで私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うこと。 主が神様の御旨に従順に従ったように、地上での主人や親に従うということです。この神様の言葉に聞き従うことは非常に難しいことです。ですから、共に祈りましょう。共に祈りあい、励まし合いましょう。

週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

コロサイ人への手紙3章12節~17節

2011-01-16 20:01:47 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年6月23日
主がお与えくださる恵みの日をいかがお過ごしですか? 主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りしています。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙3章12節~17節を学びます。

5節から11節には、私たちクリスチャンが捨てるべきものは「不品行、汚れ、情欲、悪欲、貪欲という偶像礼拝、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉、嘘、差別意識」であることを学びましたが、12節からは神に選ばれ、キリストにあって聖とされ、愛されている私たちクリスチャンが「着るべき」、「加えるべき」性質が記されています。 私たちが信仰と熱き祈りとをもって求め、そして自ら進んで身につけてゆくべき性質は、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、そして寛容です。

憐れみの心の出発点は、私たちが罪人であった時に神様が私たちを憐れんで下さり、私たちの罪を贖うために救い主イエス・キリストを犠牲にして下さった神様の愛にあります。そして憐れみの心とは、自分の大切なものの一部を隣人に与えてゆくということでありましょう。

慈愛とは、イエス様が自ら進んで私たちに歩み寄って愛して下さったように、私たちも隣人を思いやり、心配り、そして自ら進んで隣人に歩み寄る優しさです。求められる前に隣人の必要を察知し、必要に応えようと実行に移す優しさということが言えると思います。常に心のアンテナを広げ、隣人への心配りが細やかでありたいと思います。

謙遜であるためにいつも心に留めておきたいことは、私たちは神に造られ、生かされ、主イエスの犠牲によって罪赦され、恵みのうちに生かされている存在であるという真実です。神様の愛なしに生きる事ができない存在であることを感謝しつつ、謙って生きる事です。高慢の原因は、その恵みを忘れてしまう事にあると思います。

柔和とは、神の恵みに捉えられ、主にあって自己をセルフコントロール、自己制御できることです。そのような人は決して自分の感情に左右される事なく、主にあっていつも冷静沈着で、人を正すべき時は正しく正し、注意すべき人には真摯に向き合って注意ができる真の強さと優しさを兼ね備えた人です。

寛容とは、隣人の弱さに対して忍耐を失わないクリスチャンの精神を言い表す言葉です。私たちは人のミスに対して批判的になったり、もどかしさを抱いたり、軽蔑したり、愛のない態度をとってしまうことがありますが、寛容とは人のミスをそのまま受け止めてゆく心の広さと言えるでしょう。神様は、私たちの罪深さに対して寛容を示し、イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることをひたすら忍耐をもって待っていて下さいます。

私たちは、神様に憐れまれ、神様のご意志をもって愛され、神の子イエス様の十字架による罪の贖いを受け、優しさと忍耐を受けたのでありますから、教会の中で「互いに忍びあい、許しあいなさい」と13節で命じられています。「許す者だけが主によって赦される」のです。私たちが互いに忍びあい、許しあうためには、神様から受ける愛が必要です。神様の愛のみが私たちを完全に結ぶことができ、神様の愛なしに互いに忍ぶことも許しあうことも私たちにはできないのです。

今、私たちの心は何に支配されているでしょうか? 使徒パウロは「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と勧めています。神との平和がイエス様を通して与えられた福音を喜び、感謝しましょう。また、主イエス・キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせなさいと勧めされています。主の言葉に日々聞き従ってゆきましょう。私たちが主にあって神様の和解できた恵み、主の憐れみに感謝し、神様を誉めたたえる讃美と証しで心満たされてゆきたいと願います。


週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎