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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

テサロニケ人への第一の手紙1章

2011-01-16 22:32:43 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年10月6日

天候が不順ですが、いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守られるようにお祈りしています。
10月に入り、10年度の後期に入りました。クリスマスへ向けての準備と新年度への準備を始めてゆかねばなりません。
お祈りとご協力をお願い致します。

チリ落盤事故の救出作業はピッチがあがり、2週間以内に救出できる見通しと報道されていました。当初の予想よりも早まる救出が主の働きと感謝します。

日本では、阪神タイガースのマートン選手がイチロー選手の日本プロ野球シーズン最多安打記録を塗り替えました。彼はクリスチャンで、ヒーローインタビューのお立ち台からも神様の力の素晴らしさを証する選手です。今後の活躍に期待したいですし、トレイ・ヒルマン監督に続く主の証し人として用いられることを祈ります。

さて、今度の週末は3連休ということで遠出される方も多いと思います。お休みされる方はぜひご連絡くださいね。お祈りします。我が家では、アメリカの弟が約7年ぶりに帰国するので、再会が楽しみです。彼は10日の礼拝に出席する予定でいます。

今夜の祈祷会から、テサロニケ人への第一の手紙を学び始めます。今回は1章を学びます。パウロは第二回伝道旅行の際にマケドニヤに渡り、まずピリピで宣教をし、次にテサロニケで宣教をしました。パウロたちの伝道を通して多くのテサロニケの人々がキリストの福音を信じるようになりましたが、ユダヤ人たちのねたみを買い、暴動が起こったためにベレヤへ退きます。その後、テサロニケの兄弟姉妹のことが気にかかり、テモテを派遣するのですが、テサロニケから戻ったテモテの報告は喜ばしいものではありませんでした。ですから、パウロは彼らの信仰をまず励まし、テモテから報告されたテサロニケ教会の様々な課題に対する指導と解決を与えるために手紙を書きました。
いつものように教会の兄弟姉妹へ挨拶をした後、パウロは神への祈りの中でテサロニケの主にある兄弟姉妹たちを覚え、次のように感謝していると云います。「あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、私たちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、父なる神の御前に絶えず思い起こしている」と。パウロは手紙の冒頭からテサロニケ教会の課題に触れ、頭ごなしに叱咤することはありません。まず、いつものように祈りと喜びと感謝から入ります。主イエス・キリストに在って、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する信仰の姿勢が表れており、私たちが見習うべき点であると思います。すべての事に対して、まず祈りと感謝を持ってゆくことを心がけ、主に助けと励ましを祈りましょう。すべては主から与えられています。

パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹の「信仰の働き」と「愛の労苦」を主に感謝すると云っています。信仰の働きとは、信仰に根ざした働き、主イエスの僕としての働きということです。愛の労苦とは、主イエス様に対する愛に根ざした主と隣人に対する労苦という意味に捉えることができます。この信仰の働きと愛の労苦をテサロニケ教会の兄弟姉妹が共に担っている証を耳にし、主イエスに対する希望を持ちつつ主の再臨に備えている信仰生活の様子を知り、主に感謝の祈りをしているのです。この手紙はキリストの再臨を強調し、主が再び来られる時に主の御前に聖く、責められるところがなく、神様喜ばれる信仰生活をしようと励まします。3節をとおして、テサロニケ教会の兄弟姉妹が、第一コリントにもある主イエス・キリストにある「信仰と希望と愛」をもって歩んでいたことが判ります。 4節で、パウロはテサロニケ教会の兄弟姉妹は「神に愛され、選ばれている」と云います。イスラエルの民だけが神に愛され、民として選ばれているのではなく、異邦人であるテサロニケ人も救い主イエス・キリストを通して神様に愛され、神の民として選ばれている民であると確信し、神に感謝するのです。今日を生かされている私たちも同様です。私たちもイエス様を通して神様に愛され、神のために働く者として選び出されたのです。これは光栄なことであり、感謝すべき神様からの恵みです。
5節で、テサロニケ教会に福音が伝えられ、人々がイエス・キリストを救い主と信じた時、そこには4つの真実があったとパウロは云います。それらは「福音のことば」、「神の力」、「聖霊の働き」、「パウロたち宣教者の福音に対する確信」です。大久保教会が成長し、豊かに実を結ぶためには、イエス・キリストの福音、神の力、聖霊の導き、私たち教会員の堅い信仰の4つの要素が不可欠だと教えてくれます。この4つが見事に合わされる時、患難・試練にある者たちが次々と救われ、キリストに倣う者・似る者とされ、神に対する信仰が世界中に伝えられてゆきます。また、事実テサロニケで起こったように、偶像を崇拝していた者が主イエスに出会って信じた結果、真の神に礼拝をささげ、神と隣人に仕える者へと変えられてゆき、主に希望を抱く者の証が世界中へのべ伝えられているとパウロは云います。同じ様なことが大久保教会にも起こると信じ、福音に聞き、神の力に頼み、聖霊の導きに従い、祈りと信仰をもって歩んでゆきましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


テトスへの手紙3章12節から15節

2011-01-16 22:29:52 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年9月29日
いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会はテトスへの手紙3章12節から15節を学びます。

クレテ島の諸教会がキリストのからだとして形づくられてゆくために奮闘している愛弟子テトスへの手紙を閉じるにあたり、使徒パウロは最後に個人的な指示と挨拶を送ります。「テトスに代わるアルテマスかテキコをそちらに送るから、どちらかが到着したらあなたはニコポリへ急いで来なさい。」と指示するのです。ニコポリはギリシャの西海岸中央にある町です。「ニコポリで冬を越すからあなたも来なさい。そこで落ち合おう」と言うのです。パウロはローマでの軟禁が解かれ、自由の身であった事が判ります。ただその後に再度捕まって殉教したと考えられています。

それでは、パウロは何のためにテトスをニコポリへ招いたのでしょうか。その理由は聖書に記されていませんが、冬を越す数ヶ月を共に過ごし、共に祈り、テトスを励まし、教え、新しい使命を与えて伝道へと就かせようとしたのかもしれません。テトスへの手紙の後に記された2テモテ4:10に「テトスはダルマテヤに言った」とあるからです。ダルマテヤとは現在のアルバニアとモンテネグロの境の町です。パウロは、クレテ島の諸教会で頑張っていたテトスを励まし、新しい力を充電させるためにニコポリへ招いたのでしょう。私たちも一週一週を歩むためには励ましと御力の充電が必要です。教会の兄弟姉妹たちと冬を一緒に越すぐらいの交わりと御言葉による充電時間が欲しいのは山々です。祈祷会や聖書の学び会、教会学校にも出席できれば幸いですが、せめて主の日は神様の招きに応えて教会に集められ、信仰の充電がしたいと願います。主の日を守り、御言に聞くことを大切にしましょう。
13節から、テトスのもとへ手紙を届けたのはローマの法律家ゼナスと使徒行伝18章でも登場したエジプト・アレクサンドリア出身のアポロであったことが判ります。伝道旅行の途中に彼らはクレテ島のテトスの所に寄り、パウロから託された手紙を手渡したようです。ゼナスとアポロは伝道旅行に行くのだから良くしてやり、旅行に必要なものを用意して持たせてやりなさいとテトスに命じます。私たちも旅人をもてなすことは主から命じられていますが、特に伝道をしている者たちに心を配り、不自由のないようにすることが主に仕える者への愛であると教えられます。

14節で「わたしたちの仲間も、差し迫った必要に備えて、努めて良い業を励み、実を結ばぬ者とならないように、心がけるべきである」とパウロは言っています。先週学んだ8節には「『神を信じている者たちが、努めて良い業を励むことを心がけるようになるため』に主イエスの言葉を大胆に語りなさい。『これは良いことであって、人々の益となる』」と同じようにあります。日々の生活は、日用の糧を得るための働きでもありますが、主の栄光のために良い業をなし、主のために良い実を結ぶためにあることを覚え、励みたいと思います。どのように神を愛し、隣人を愛することができるかをいつも考え、祈り、その時が来たら実践できるようにしたいと思います。礼拝をささげることと神様の愛と恵みのうちに生かされていることを出会ってゆく隣人に分かち合ってゆきたいですね。

15節に「わたしたちを愛している信徒たちに、よろしく」とありますが、パウロは「私たちを愛さない者たち」、つまり偽教師や異端者、それらの影響を受けてしまっている者たちのことも頭にあったようです。主の従う時、理解されない、愛されないこともあるのです。悲しいことですが、主イエス様と神様が愛して下さっている真実と主にある兄弟姉妹が与えられていることを感謝しましょう。

「恵みが、あなたがた一同と共にあるように」という締めくくりの言葉は、テトスとクレテ島の諸教会の兄弟姉妹たち、また大久保教会の兄弟姉妹たちのための使徒パウロの祈りの言葉です。私たち一人ひとりがいつも神様の恵みの中に生かされている神の愛を感じ、感謝と喜びのうちに歩む事ができるようにとの祈りなのです。私たちの人生の一コマ一コマに主の伴いと恵みがいつもあることを覚え、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝して歩んでゆきましょう。主に感謝します。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


テトスへの手紙3章9節から11節

2011-01-16 22:27:26 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年9月22日
昨日、今日と真夏日が戻ってきました。明日と明後日は打って変わって雨模様のようですね。いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会はテトスへの手紙3章9節から11節を学びます。8節でイエス・キリストの福音は「この言葉は確実である」とのべ、この福音にクレテ島のクリスチャンたちが踏みとどまり、養われ、成長し、豊かに実を結ぶこと、つまり「努めて善い業を励むように心がけることを勧めなさい。その業が主と教会と隣人の益となるから」とパウロはテトスに命じました。キリスト・イエスの福音に生きることが善い業をなし、実を結ぶモーティベーションであると言わんばかりです。私たちをクリスチャンとならしめる力は、神様の愛と憐れみ、主イエス様の十字架の贖いと復活の力です。「健全な教え」に聞き従う時に、私たちは神様の御心にかなった者へと造り変えられてゆきます。「主を喜ぶことは私たちの力です」とネヘミヤ8:10にあるとおり、神様の愛に生かされている真実を喜び、感謝してクリスチャンとして歩み続けてゆきたいと思います。私たちは一人では弱い存在ですから、互いに励まし合い、祈り合い、支え合う主にある兄弟姉妹が必要なのです。
健全な教えを伝えるために生き、人々の益となりなさいとテトスを励ました後、「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを避けなさい。それらは無益かつ、空虚なことである」とパウロは9節でテトスに命じます。「健全な教えは有益である」が、「間違った教えは無益かつ、空虚である」と言うのです。偽教師は異端者であり、彼らの教えることはすべて益とはならず、むしろ有害であると言っているようです。1章10~16節でも同じ様なことを使徒パウロはテトスに命じましたが、1章では偽教師たちと向き合い、彼らの間違いを諭しなさいと命じたのです。しかし、3章ではそのような偽教師との関わりはいっさい持つな、彼らから離れ、近づいてきても言葉も交わすな、交わりを避けよ、彼らとの時間は無駄な事だと言うのです。米国カリフォルニア州では「スリーストライク法」という法律がり、性犯罪や麻薬犯罪で3回目に逮捕された時は「無期懲役」となる法律があります。パウロは、「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい」と命じます。「間違った教えを説く人でも神様に愛され、神様は救おうとされるのではないか、悔い改めるまで辛抱強く向き合うべきではないか」と心優しい人は考えるでしょう。2テモテ2:24-26では使徒パウロ自身も反対する者に対しては同様な柔和さを常に持つべきと考えていたようです。しかし、ここでパウロが取り上げている問題は、「クレテ島の諸教会を分裂させ破壊する者たちへの対処法」です。そのような人たちと関っていたら、教会は大きなダメージを受け、教会は病気になって「実を結ばなくなる」のです。ですから、パウロは強い言葉でそのような者たちを「異端者」と呼びます。この言葉はギリシャ語の言語では「不和にする、争いの種になる人」という意味です。
私たちはキリストにあって初めて一つのからだ・教会となり得ます。キリストによらずして、キリストにつながることなしに一つとなることはできないのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じる信仰による一致が大切です。「不和」は、教会に困惑とストレスと怒りと傷を与えますから、不和の原因をもたらす者を遠ざけるのです。イエス様もマタイ18:15~17で言っておられます。
パウロは11節で「たしかに、こういう人(異端者)たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯している」と云います。このような扇動的な争いの好きな人たちは「変わらない」というのです。私たちは、主イエスの言葉によって日々変えられてゆく必要がります。変化が成長の証なのです。神様によって変えられること、変化を恐れる必要はないのです。それは「恵み」なのです。「変わらない人」は、主の御手に委ねるほかにすべはないのです。
キリストにあって一つとなることの他にもう一つ教会に大切なことは「目的・使命」にあって一つとなることです。「議論・論争に時間やエネルギーを費やすのではなく、礼拝をささげることと福音を伝えることに時間とエネルギーをもっと費やしなさい。それが人々の益となるのです」とパウロは言うのです。私たちの時間や知恵や体力を議論などの無駄なことに費やすのではなく、福音を伝えるという有益なことに使いなさいと命じているのです。神様からいただいている時間や知恵や健康、体力を私たちは何のために用いているでしょうか。「自分勝手に無駄な事に使っていないか」と問われているようですし、悔い改めへと導かれます。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テトスへの手紙1章5節から9節

2011-01-16 22:23:58 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年8月11日
残暑お見舞い申し上げます。月曜・火曜と雨が降って過ごしやすかったですが、今日は暑さがきびしいですね。その後、お元気でしょうか。
主の恵みと平安とが豊かにあるように、多忙の中にあっても健康と心と信仰が守られるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会はテトスへの手紙1章5節から9節を学びます。地中海に浮かぶクレテ島で福音伝道をしていた使徒パウロとテトスたちでありましたが、不明な理由によってパウロは島を離れる事となりました。しかし、テトスをその島に残すことにしました。それは5節にあるように、クレテ島にてやり残している働きをテトスに遂行させ、その働きを整えるためであり、クレテ島各地のクリスチャンの群れに長老を立てる任務に当たらせるためでした。一生懸命に蒔いた福音の種、また福音の芽・信仰を成長させ、クリスチャンの群れを教会へと形作るために、パウロはテトスをクレテ島へ残し、重要な働きに着かせたのです。クリスチャンの群れが教会として形作られてゆくために必要なこと、それはリーダーを立てることでした。ここには「長老」、「監督」とありますが、複数形で記されていますから、複数のリーダーをそれぞれのグループに立てる必要があったようです。リーダーが複数である理由は、グループのすべての人に配慮ができ、その中にハーモニーをつくるため、効果的な働きがチームで可能であるためと色々あります。複数牧会や牧師と執事・役員との連携は、教会を形作ってゆくためには大切なことなのです。
6節から「長老、監督=教会のリーダー」の資格について記されていますが、1テモテ3:1-7の資格とは少々違いがあります。各地の各教会によっては、状況が違うのでしょう。教会のリーダーは3つのエリアで誠実な者でなければなりません。まず家庭において、配偶者と子どもたちに対して「責められる点がないほど」誠実でなければならないと6節にあります。次に人々に対しても「責められる点がないほど」誠実でなければならないと7節にあります。「わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらない人」と自己中心で感情を制御できない人はリーダーとして主と教会に仕えることはできないのです。教会を立て上げるリーダーシップを持つ人は「旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する人」と8節にあります。家族と隣人に対して誠実なだけでなく、自分に対しても正直な人で、教会と隣人に心から仕えようとするメンタリティーの持ち主を神様は教会のリーダーとして用いられるということを学びとれます。教会のリーダーシップを完全に持ち得る者はいません。いないと思います。私には「持ち得ている」と言いきることはできません。ただ、いまは出来なくても、主の憐れみと御言葉と聖霊の働きによって造り変えられてゆきたいと願います。神様は、私たち一人ひとりにそのように願っておられるのではないでしょうか。
私たちがクリスチャンとして家族、隣人、自分に対して誠実であるためには、神の言葉である聖書に常に聞き従ってゆく必要があります。9節で教会のリーダーとなるべき人は「教えにかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない」とあります。私たちが信頼すべきは神様であり、主の御言にあります。この御言にいつも留まっていなければ、クリスチャンとして、リーダーとして、証し者として立つ事はできません。クリスチャンとして、家庭でも、職場や人々の交わりの中でも家族や友たちと誠実に向き合うためには、まず私たちが神様と正直に向き合い、心から主の言葉と日々向き合い、その言葉に忠実に聞き従ってゆかなければならないのです。その中で、神の御言によって人々を諭すことができ、誠実でない人たちに対しても彼らの誤りを鋭く指摘することができるようになります。
教会のリーダーでなくても、一人のクリスチャンとして、神に仕える者として「責められる点がない」ように、今までの不誠実さを悔い改めて、主の御言によって造り変えられましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テトスへの手紙1章1節から4節

2011-01-16 22:18:11 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年7月28日
真夏日が続きます。お元気でしょうか。主の恵みと平安とが豊かにあるように、暑さの中にあっても健康と心と信仰が守られるようにお祈りしています。

しばらくの間、テトスへの手紙を学びます。今回は、1章1節から4節を学びます。まず時代的背景を新改訳聖書・テトスへの手紙の緒論から抜粋しつつ、説明します。2年間に亘ってローマで捕らえられていた使徒パウロは、そこでエペソやコロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙を書きました。その後、パウロを訴えた者たちはカイザルへ上訴しなかったので、彼らの欠席のまま裁判は行われ、パウロは無罪となり釈放され、エペソへ行ってからテモテに牧会者としての責任を与えてそこに残し、さらにマケドニヤへ行きます。そこでテモテへの第一の手紙が書かれたと考えられています。その後、パウロはクレテに行き、そこでテトスを牧会者として立てたようです。その後にギリシャ・ニコポリへ行き、そこでこのテトスへの手紙を記したようです。その後トロアスへ行き、そこで再び捕らえられ、ローマへ護送され、獄中でテモテへの第二の手紙を書き、それから間もなくパウロは殉教したと考えられています。こういう状況から、テトスへの手紙は西暦65年頃に書かれたと考えられています。
テトスが牧会者として立てられたクレテのクリスチャンの群れは、まだ教会としては組織化されておらず、問題が色々あったようです。ですから、パウロは牧会者であるテトスを手紙によって大いに励まし、的確な指示を与え、偽教師に注意するようにと警告しました。
テトスはギリシャ人であり、パウロの伝道によって回心しました。パウロやバルナバと共にエルサレム会議にも出席していますし、第三回伝道旅行ではパウロの代理としてコリント教会へ派遣され、コリント人への第二の手紙を届け、エルサレムの貧しいクリスチャンたちのための献金をコリントで募金するような人でした。テトスという人は有能な伝道者であり、テモテと共に使徒パウロの片腕的存在であったのです。
そのテトスへ、パウロ自身が使徒として召された神の目的をまず1節から記します。パウロは、「わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、彼らに信心にかなう真理の知識を得させるため」と言っています。クリスチャンとされた兄弟姉妹たちの信仰をさらに励まし、強め、成長させること。そして神の愛と真理を十分に知ることができるようになるために、つまり御言葉による訓練のために召されたと言います。榎本保郎牧師は、「信心」とは「信仰の生活化、生活の中で信仰が生かされていく事」と言っています。私たちクリスチャンにとって大切なのは日々キリスト者として成長してゆくことです。そして自分の生活に信仰を根付かせるためには御言葉を読む習慣と祈る習慣が日々大切となります。
私たちはクリスチャンとされているのは、「偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠の命の望みに基づく」のですとパウロは2節で言います。私たちは裏切られたり、裏切ったりする弱さのある人間です。そのような人間に望みをいだくのではなく、真実なる神に望みをおき、罪の赦しと永遠の命の約束を喜び感謝しつつ歩みたいと願います。
使徒パウロは、「わたしは、わたしたちの救い主なる神(イエス・キリスト)の任命によって、この宣教をゆだねられた」と3節で使徒として召された喜びと感動を言い表しています。
私たち一人ひとりと大久保教会にもこのキリストの福音を伝達することが委ねられていることを再認識し、喜び、福音を伝えてゆきたいと願います。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎