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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

コロサイ人への手紙3章12節~17節

2011-01-16 20:01:47 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年6月23日
主がお与えくださる恵みの日をいかがお過ごしですか? 主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りしています。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙3章12節~17節を学びます。

5節から11節には、私たちクリスチャンが捨てるべきものは「不品行、汚れ、情欲、悪欲、貪欲という偶像礼拝、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉、嘘、差別意識」であることを学びましたが、12節からは神に選ばれ、キリストにあって聖とされ、愛されている私たちクリスチャンが「着るべき」、「加えるべき」性質が記されています。 私たちが信仰と熱き祈りとをもって求め、そして自ら進んで身につけてゆくべき性質は、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、そして寛容です。

憐れみの心の出発点は、私たちが罪人であった時に神様が私たちを憐れんで下さり、私たちの罪を贖うために救い主イエス・キリストを犠牲にして下さった神様の愛にあります。そして憐れみの心とは、自分の大切なものの一部を隣人に与えてゆくということでありましょう。

慈愛とは、イエス様が自ら進んで私たちに歩み寄って愛して下さったように、私たちも隣人を思いやり、心配り、そして自ら進んで隣人に歩み寄る優しさです。求められる前に隣人の必要を察知し、必要に応えようと実行に移す優しさということが言えると思います。常に心のアンテナを広げ、隣人への心配りが細やかでありたいと思います。

謙遜であるためにいつも心に留めておきたいことは、私たちは神に造られ、生かされ、主イエスの犠牲によって罪赦され、恵みのうちに生かされている存在であるという真実です。神様の愛なしに生きる事ができない存在であることを感謝しつつ、謙って生きる事です。高慢の原因は、その恵みを忘れてしまう事にあると思います。

柔和とは、神の恵みに捉えられ、主にあって自己をセルフコントロール、自己制御できることです。そのような人は決して自分の感情に左右される事なく、主にあっていつも冷静沈着で、人を正すべき時は正しく正し、注意すべき人には真摯に向き合って注意ができる真の強さと優しさを兼ね備えた人です。

寛容とは、隣人の弱さに対して忍耐を失わないクリスチャンの精神を言い表す言葉です。私たちは人のミスに対して批判的になったり、もどかしさを抱いたり、軽蔑したり、愛のない態度をとってしまうことがありますが、寛容とは人のミスをそのまま受け止めてゆく心の広さと言えるでしょう。神様は、私たちの罪深さに対して寛容を示し、イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることをひたすら忍耐をもって待っていて下さいます。

私たちは、神様に憐れまれ、神様のご意志をもって愛され、神の子イエス様の十字架による罪の贖いを受け、優しさと忍耐を受けたのでありますから、教会の中で「互いに忍びあい、許しあいなさい」と13節で命じられています。「許す者だけが主によって赦される」のです。私たちが互いに忍びあい、許しあうためには、神様から受ける愛が必要です。神様の愛のみが私たちを完全に結ぶことができ、神様の愛なしに互いに忍ぶことも許しあうことも私たちにはできないのです。

今、私たちの心は何に支配されているでしょうか? 使徒パウロは「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と勧めています。神との平和がイエス様を通して与えられた福音を喜び、感謝しましょう。また、主イエス・キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせなさいと勧めされています。主の言葉に日々聞き従ってゆきましょう。私たちが主にあって神様の和解できた恵み、主の憐れみに感謝し、神様を誉めたたえる讃美と証しで心満たされてゆきたいと願います。


週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎