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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節

2011-01-16 22:57:20 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2011年1月5日
新年明けましておめでとうございます。新しい年、主の恵み
と平安が皆さんの上に豊かにあるように祈ります。

*今月25日から2年間、日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)
からタンザニアへ派遣される倉辻忠俊兄のために。23日の礼
拝において派遣祝福式を行います。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節を
学びます。
使徒パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちへの手紙を結ぶに
あたり、5章12節から22節の部分で、兄弟姉妹たちに教会
内の交わりに関して4つの勧めをします。そしてその中心・目
的は、13節の「互いに平和に過ごしなさい」という言葉に集
約しています。
パウロの第一の勧めは「教会のリーダーと信徒間の交わり」
に関する勧め(12、13節)、第二は「教会内の弱い者と強い者
間の交わり」に関する勧め(14、15節)です。先の二つの勧め
は教会内の兄弟姉妹への心の姿勢についてですが、三つ目の勧
めは各信徒のキリストに従う者としての神への信仰の姿勢につ
いての勧めです。
教会のリーダーへの不満、信仰的、身体的、精神的、あるい
は経済的に苦しむ者を含む弱い者たちへの寛容(忍耐)の無さ、
また悪を行う者への怒りが教会の交わりを傷つけたり、弱めた
りしてはならないとの勧めです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に
ついて感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって、神が
あなたがたに求めておられることである」という御言を、大久
保教会として新年最初の祈祷会で聴く事ができる事は神様のお
取り計らいであると信じ感謝します。
これは各クリスチャンへの個人的な勧めでも、「義務」の押
しつけでもありません。主のからだなる教会に対する勧めです
。つまり、「主の教会・大久保教会として、いつも共に喜び、
絶えず共に祈り、すべてのことについて共に感謝しなさい」と
の勧めです。
教会の中には、楽観的な人もいれば、楽観的になれない人も
います。夢を語れる人もいれば、目の前の事柄を冷静分析でき
る人もいます。非現実的な人もいれば、現実的な人がいます。
どちらも大切な存在です。
「いつも喜んでいなさい」と勧められても「自分には無理」
という方もおられるでしょう。確かに一人だといつも喜んでい
られません。苦しい事、辛い事、逃げ出したくなる事が常に起
こります。ですから、その苦しみや痛みの中にある兄弟姉妹た
ちをそうでない兄弟姉妹たちが寄り添い、支え、励ます、そう
いう神の家族が私たちには互いに必要なのです。
「絶えず祈りなさい」と勧められても「祈れる時もあれば、
祈れない時もある」という意見の方もおられるでしょう。確か
に一人だと思い悩んだり、不満や怒りに満たされたり、信仰の
スランプに陥って祈れなくなる時があります。ですから、その
ような状態の中に立たされる兄弟姉妹たちに寄り添い、いっし
ょに主に祈る兄弟姉妹が必要なのです。
「すべてに感謝しなさい」と勧められても「そんなこと不可
能」と思うのが私たちではないでしょうか。確かに一人だと全
てのことに感謝できなくなる時があります。暗闇に鎖されてす
べてがマイナスに見えたり、そういう中で不安を覚えます。周
囲と自分を見比べて自己嫌悪に陥ったり、不満を覚える時もあ
ります。ですから、そのような思いにある兄弟姉妹たちに寄り
添い、主イエスという世の光の中に照らされて共に生きてゆく
兄弟姉妹が必要です。
つまり、教会にはいつもどちらの人が共存していて良いので
すし、それが神様の御心であると強く感じます。教会では、す
べての兄弟姉妹がリーダーになる必要はなく、それぞれが神様
から頂いている数々の賜物を持ち寄って互いに仕え合えれば良
いのです。すべての兄弟姉妹が強くなくて良いのです。すべて
の兄弟姉妹が楽観的でなくて良いのです。弱い人や現実的な人
が教会の一員として共にいる、共に主に仕えることが自然の姿
であり、それがバランスのとれた教会なのだと思います。その
ような教会が、神様の御心にかなった真のキリストのからだな
る教会のあり方なのだと示されます。
私には、皆さんが教会の兄弟姉妹として必要です。また同時
に、皆さんに必要とされ、皆さんに仕える者と私はされてゆき
たいと主に願いつつ、祈りつつ歩む者です。不束な牧師ですが
、今年もこの者のためにお祈りください。どうぞよろしくお願
い致します。皆さんの信仰が祝福されますようにお祈りしてい
ます。
いつも共に主に愛されていることを喜び、心を合わせて絶え
ず全能なる主に祈り、すべてのことを共に主に感謝しつつ、新
しい年も共に歩んでまいりましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙5章19節~22節

2011-01-16 22:55:10 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2011年1月12日
寒い日々が続きますが、主の恵みと平安が皆さんの上に豊か
にあるよう祈ります。
*今月25日から2年間、タンザニアへ派遣される倉辻忠俊兄の
ために。23日の礼拝において派遣祝福式を行います。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙5章19節~22節を
学びます。
使徒パウロは、教会内の交わりが健全なものとなるために「
互いに平和に過ごしなさい」と勧め、第一に「教会の指導者と
信徒の交わり」(12、13節)に関し、第二に「教会内の弱い者
と強い者の交わり」(14、15節)に関して勧めます。先の二つ
の勧めは教会内の兄弟姉妹への心の姿勢についてですが、三つ
目の勧めはキリスト者としての神への信仰姿勢についてです。
いつも共に喜び、絶えず共に祈り、すべてについて共に感謝す
る。それは教会がキリストのからだとして成長し、またクリス
チャンとして互いが成長・成熟することにつながります。
パウロは、今回の箇所で四つ目の勧め、教会の体質について
記します。それぞれの教会にも体質があると思いますが、大久
保教会の体質はどういう体質でしょうか。パウロはまず教会に
対して「御霊を消してはいけない」、また「預言を軽んじては
ならない」と19節と20節で云います。教会が聖霊の力と導
きに消極的にならないように、また預言者や牧師、伝道者を通
して語られる神の御言を、人ばかりを見て軽んじないようにと
命じます。
神様がご計画と目的をもって教会を力強く導き、教会の使命
と働きを明確にしようとしておられるのに、私たちが自分の思
いや都合を優先させてしまう中で神様の御旨に消極的な体質、
あるいは不従順になってはいけないと云うのです。いつでも信
仰をもって主に従って行きなさい、私たちの心に内住してくだ
さる御霊を不信仰さや臆病な思いで消してはならないと云うの
です。
神様の御旨を知るために聖書が私たちに与えられています。
そして聖書の神と主イエスの言葉を聴いて、信仰をもって従っ
てゆくことが求められていますが、テサロニケの手紙が記され
た時代は現代のように聖書はありません。パウロのような使徒
、伝道者、宣教者、牧会者、預言者が語る言葉に聴いてゆく以
外に方法はありませんでした。しかし、神に不従順な偽伝道者
や牧会者や預言者がその中にも身を潜めていましたから、誰の
語っていることを信じて聴いて従ってゆくべきか、多くの兄弟
姉妹は困惑しました。「語っている事と実際の行為が相反する
偽預言者」や「使徒たちの教えと全く違う教えを語る偽牧会者
」もいました。そしてその人の行為だけを見ていれば、その人
を軽蔑し、その人の口から語られる「御言・福音宣教」を聴く
事は馬鹿げているように思えてきます。しかし、パウロは「御
言を語る者」ではなく、語られる「御言」を神の言葉として大
切に聴きなさいと勧め、命じるのです。牧師・聖職者の人間性
とそのあり方も確かに問われなければなりませんが、宣教・御
言を聴く時に語る者の人間性だけを見ていては、御言・預言を
神の言葉として聴けなくなり、それを軽んじる事になります。
語る者がどんなに小さく貧しい器であっても、その人を通して
語られる神の御言を軽んじては決してならないとの勧めです。
口語訳聖書にはないのですが、本来、ギリシャ語の原文には
20節と21節をつなげる「しかし」という言葉があります。
聖霊の力とお導きに消極的にならない。また宣教者・預言者の
人間性だけを見て、語られる御言を軽視してはならい。「しか
し」次の3つのことをしなさいと次の21節と22節で勧めら
れています。
それは「すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆ
る種類の悪から遠ざかりなさい」との勧めです。まず「すべて
を識別せよ」と命じられています。私たちの偏見や思い込み(
持論)、過去の経験に縛られることなく、また他人の意見に惑
わされることなく、信仰をもって主の御言と導きを祈り、何が
神の御心であって、何がそうでないかを教会として見極めなさ
いと云うのです。声の大きな人に聞いたり、過去や現状に囚わ
れたり、人に云われた事をそのまま鵜呑みにするのではなく、
まず神に祈り、言葉を聴き、御言に堅く立ち、すべてに細心の
注意をはらい、心を配って選びとってゆきなさいとの勧めです

私たちの周りには「良いもの」と「悪いもの」があります。
良いもの、悪いものとは何でしょう。悪いものとは人間の思い
が優先されたものであり、良いものとは神様の御旨にかなった
ものではないでしょうか。神様の御旨を大切にし、御言に聴従
し、主の命令を守りなさいと云われているのではないでしょう
か。
もし私たちが「悪」の近くに生活したり、それに囚われてい
る状態ならばそれから遠ざかりなさいと命じられています。「
悪」とは、神様を神としない、愛の神から離れている状態では
ないでしょうか。悪から遠ざかるとは、神に近づくことです。
大久保教会は、音楽主事と副牧師の招聘について御声に聞き
、主のご意志に従わなければなりません。教会の中には様々な
意見、人の思いが混在しています。そういう中で一緒に祈って
神様の声に聴きたいと願っています。小さな大久保教会には3
人も牧師はいらない、音楽主事もいらないと感じる方も多くお
られると思います。確かに教会内だけを見るならば牧師は一人
で充分でしょう。しかし大久保教会の一歩外はどうでしょうか
。たくさんの人たちが神様とその愛を知らずに自力で何とか生
きようと日夜奮闘し、また苦闘しています。神様の愛と赦しを
、イエス様の救いと平安と希望を必要としている人は何万人と
いるのです。私たちの目を教会内にではなく、外側に向けまし
ょう。何が神の御心なのか一緒に祈り求め、御言に聴き、従い
ましょう。
最後に私がいま聴いている言葉を紹介します。「イエスは、
すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を
宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになっ
た。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れてい
るのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。そして弟子
たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。だから、
収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すように
してもらいなさい」。マタイ9章35節以降
大久保教会のためにお祈り下さい。どうぞ献身して教会の働
きに参加してください。十一献金、献げものをもって教会の働
きをお支えください。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致し
ます。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙5章12節~13節

2011-01-16 22:52:39 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年12月22日
クリスマスの時、主の恵みと平安が皆さんの上に豊かにある
ようにお祈りします。さる19日は素晴らしい恵みを礼拝と祝
会の中で受け、感謝しました。お祈りとご奉仕に感謝申し上げ
ます。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙5章12節~13節を
学びます。使徒パウロは、5章12節から22節で、テサロニ
ケの兄弟姉妹たちに教会内の交わりに関して4つの勧めをして
います。これらの勧めは、テサロニケの諸集会・教会において
すでに表面化していたクリスチャン同士の対立や衝突に対して
ではなく、兄弟姉妹の交わりの中で起こりうる潜在的な課題を
幾つか取り上げたものと云えます。
教会は主イエス・キリストのからだですが、その教会を構成
する兄弟姉妹たちは、それぞれバラエティーに富んだパーソナ
リティー/個性・性格、また特有な生い立ち・経歴を持ってい
ますから、教会の業の小さな事にはお互いに寛大になり、そし
て礼拝、伝道、霊的成長、奉仕、交わりいう大きな使命には信
仰をもって一致して行かなければ、キリストのからだなる教会
を形づくってゆくことはできません。また、教会の業の大小に
関らず、主イエス・キリストを中心とし、主の御言を第一にし
てゆかなければ、教会はただの人の集まり、「自分たちだけ楽
しければそれでよし」という大学のサークルのような状態とな
ってしまいます。
まず今回は12節から13節を学びたいと思いますが、ここ
には教会のリーダーと信徒の間における交わりの勧めがなされ
ています。「どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあな
たがたを指導し、かつ訓戒している人びとを重んじ、彼らの働
きを思って、特に愛し敬いなさい。互いに平和に過ごしなさい
」とあります。
現代では、牧師がその位置に置かれると思いますが、牧師と
信徒の信頼関係が強く、神様から委ねられている教会の使命を
よく認識し、また教会の目的が一致している教会は平和であり
、平和な教会は豊かに実を結ぶということでしょう。牧師主導
の教会とか、信徒主導の教会ということをよく耳にしますが、
教会に連なるすべての兄弟姉妹が教会の果すべき使命を熟知し
、主のために成し遂げようと目指す事柄が一致して歩む教会が
平和で健康な目的主導の教会と云えると思います。
牧師のなすべき働きは、信徒のために常に1)労し、2)指
導し、3)訓戒することと記されています。
まず「労し」という言葉は、1章3節の「愛の労苦」と同じ
言葉です。牧師は、主イエス様が私たちの罪のために十字架に
架かって愛を示して下さったように、「信徒を愛し、仕える」
ことが求められています。一人ひとりの信徒の魂に配慮するこ
とが牧師の仕事であると、今年初めて「牧会塾」に参加して学
んだ第一が「魂への配慮」で、その部分に牧師としての至らな
さが私にあったと気付かされました。
次の「指導し」というギリシャ語は、信徒の「前に立つ」、
信徒のために「責任をとる」、信徒を「護る」という意味があ
ります。信徒は日々の生活の中でサタンの攻撃に遭いますが、
サタンの前に一緒に立ち、信徒を護る事も牧師の仕事です。ま
た、信徒の試練に共に立ち、励ます事も牧師の働きであります

「訓戒する」という言葉は「誤りを正す」、「矯正する」と
いう意味があり、また「良い影響を与える」という意味があり
ます。聖書の御言をとりつぎ、福音を語ることによって、その
御言によって信徒の価値観が変えられてゆくようにしてゆくこ
とも牧師の責任ということであります。信徒の模範となり、良
い影響を与えることも牧師の果すべき責任でしょう。とても大
きな責任を牧師は負っていると感じさせられ、身が引き締まる
思いです。
さて、口語訳聖書にある牧師を「重んじ」という言葉の真意
は「知る」ということです。つまり、牧師と信徒が一致して主
と教会に仕え、また互いに仕え合うためには、「お互いをもっ
と深く知る必要がある」ということかもしれません。この箇所
は、信徒たちに対する勧めですから、「牧師たちの働きをもっ
と理解し、特に彼らの働きのために祈り、彼らを助けることが
できるのであれば協力してあげなさい」という勧めでしょう。
また、この箇所で注目すべきことは、「牧師の働きを重んじ
る」ということです。牧師の「人間性」ではなく、「牧師の働
き」です。何故なら、牧師の人間性にだけ注目してしまえば、
皆さんはきっとつまずくことでしょう。そうならないためにも
「牧師の働き」のためにお祈りください。
この上記の3点に関し、私には至らない部分が多くあること
に気付かされます。また、牧師の働きをするためには非常な努
力を要することも強く感じます。どうぞ、大久保教会の牧師の
働きと霊性のために引き続きお祈り下さい。お願い致します。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙4章13節~18節

2011-01-16 22:51:40 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年12月8日
今日は一段と寒く感じましたが、いかがお過ごしでしょうか
。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにありますようにお
祈りしています。
*アドベント第二週目を過ごしています。


今夜は、テサロニケ人への第一の手紙4章13節~18節を
学びます。ここは、「眠っている人たち、つまり先に亡くなっ
たクリスチャンの兄弟姉妹たち」について使徒パウロが記す箇
所です。クリスチャンたちが亡くなった原因が何であったのか
、病気であったのか、迫害によるものなのかは記されていませ
んが、残された者たちにとって愛する者の死は大きな痛みと悲
しみを与えました。その悲しみと憂いが大きすぎて、希望を持
てなくなってしまった人も教会の中にいたのでしょう。彼らを
慰め、励ますためにパウロは手紙に記します。
パウロは、テサロニケのクリスチャンたちに「眠っている人
びとについては、無知でいてもらいたくない。また望みを持た
ない人びとのように悲しんでほしくない」と云います。「先に
亡くなったクリスチャンたちは死んだのではなく、眠っている
のだ」と云います。イエス様もご自身の親しい友が死んだ時、
「ラザロは死んだのではなく眠っている」とヨハネ11:11
で云われましたし、ヤイロの娘の時も「子は死んだのではない
、眠っているのだ」とマルコ5:39で云われました。
主イエス・キリストは、私たちの罪を贖い、私たちを永遠に
生かすためにカルバリの丘の十字架に架かって死んで下さり、
三日後に神様はイエス様を永遠に生きる者の初穂として死の淵
から甦らせました。この復活し、今も生きたもう救い主イエス
・キリストを信じる者たちは、その信仰によって義とされ、永
遠の命が約束され、その約束が生きる希望として与えられてい
ます。パウロが「無知でいてもらいたくない」と云ったのは、
神の子イエス・キリストには先に死んだ者たちを甦らせ、永遠
の命を継がせる「力」のあるお方である事を信じ続けてほしい
ということと、その主イエスは必ず再臨され、その時にキリス
トを信じて従って来た者たちは主イエスと会い、そして先に眠
った者たちと今を生かされている者たちが地上から引き上げら
れ、主の執り成しによって再会ができ、そして御国において永
遠に主を共に誉め讃える者とされると恵みでした。
教会の中にグノーシス派の異端が入り込み「肉体の甦りはな
い」とか、「グノーシス派の教えを信じない者には霊的甦りも
ない」などと間違った教えの影響が少なからずあったのであり
ましょう。パウロはそういうテサロニケ教会の兄弟姉妹の不安
を取り除き、主にある希望を持ち続けるようにと励ましたので
すが、14節で「わたしたちは主の言葉によって言う」と云っ
ています。つまり、パウロ自身の言葉にではなく、主イエスの
言葉に人びとを不安から解放し、希望を持ち続けさせる力があ
ると言うのです。
神様は私たちに「無知でいてもらいたくない」と今回云われ
ます。何に対してでしょうか? それは神の愛の力、福音の力
、強いて云えば主イエスの十字架と復活の力に対してでありま
す。御使ガブリエルはマリヤに「神には、何でもできないこと
はありません」と宣言しました。混沌とした時代に、暗闇の中
にイエス・キリストという世の光を与えて下さいました。聖霊
によってマリヤは身ごもりました。神様にできないことは何一
つありません。
「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通
る方が、もっとやさしい」と云われたイエス様に対し、人びと
は「それでは、誰が救われることができるのですか」と尋ねま
すが、イエス様は「人にはできない事も、神にはできる」と救
いは神様から、神様の力によるもの、神様の恵みであると云わ
れました。神様にはできないことはありません。
死人を復活させる力のある方は神様だけです。私たちに朽ち
ない命を与える力と愛を持たれたお方は父なる神、御子なるイ
エス、そして御霊なのです。この三位一体の神を私たちは信じ
、私たちの罪を贖い、永遠の命を約束し、唯一与えうる力のあ
るお方を私たちは信じ、神・救い主と告白し、このお方の声に
いつも聞き従ってゆく、それが大久保教会という群れです。そ
のことをいつも大切にしましょう。
私たちがクリスチャンとしてこの時代に生きてゆく上で、信
仰と希望と愛という大きな力を与えてくださる救い主イエス様
のご降誕を大久保教会に共に集って心からお祝い致しましょう

それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


テサロニケ人への第一の手紙4章9節~12節

2011-01-16 22:50:36 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年12月1日
12月に入り、コートが欠かせなくなりました。いかがお過
ごしでしょうか。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにあ
りますようにお祈りしています。
*待降節・アドベントが始まりました。今週は、世界祈祷週
間、今日の祈りの課題は、「全世界に主の福音が伝えられます
ように」です。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙4章9節~12節を学
びます。今回の短い箇所は、2つに分けることができます。9
節から10a節は、「クリスチャンの兄弟姉妹同士が今までの
ように、またこれからもますます互いに愛し合いなさい」とい
う教会内への勧めです。10b節から12節は、クリスチャン
として教会の外でどのように生活すべきかとの勧めです。
パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちに対して、「兄弟愛に
ついては、今さら書き送る必要はない。事実、マケドニア全土
にいるすべての兄弟姉妹たちに対して、兄弟愛を実行している
」と云っています。これは凄いことだなあと私は思うのです。
教会内で兄弟姉妹同士が互いに愛し合っていた。いったいどう
やって愛し合うことができたのだろうと思うのです。
愛し合いというのはどういうことでしょうか。互いに大切に
し合い、お互いの気持ちを尊重しつつも、お互いの境界線を越
えない付き合いなのでしょうか。相手のために善かれと思って
やったことが裏目に出たり、そっとしておいたほうが良いだろ
うと声をかけないと「冷たい」と云われたり、様々なことに気
を配りすぎて疲れ果ててしまうということ、教会の中でも起こ
ることです。
互いに愛し合うって、どういうことでしょう。私は、「互い
に生かし合う」ということではないかと思うのです。主イエス
様は、私たちを生かすために十字架に架かって死んで下さいま
した。友のために命を捨てること、それ以上に大きな愛はない
と主はいわれますが、友を生かすために自分を犠牲にする。そ
れをクリスチャン同士が互いにし合うことによって、互いが生
かされる。これは人間の愛(エロース、フィレオー、ストルゲ
ー)では決して結べない愛です。
ですから、ここでパウロは、教会の兄弟姉妹を愛し、互いに
愛するために神の愛(アガペー)が必要というのです。パウロ
は9節で、「あなたがたは、互いに愛し合うように神に直接教
えられており」と云います。「互いに愛し合うように神に直接
教えられている」というのはどういう意味でしょうか。「神」
とは神の霊、つまりご聖霊のことです。イエス様は弟子たちに
直接そのようにお教えになりましたが、テサロニケ教会の兄弟
姉妹たちには、ご聖霊がその働きを通して教えたのです。ガラ
テヤ人への手紙5章にもあるように、御霊の実は愛とあるよう
に、ご聖霊が直接私たちに愛を与え、また愛すること、互いに
愛し合うことを教えて下さるのです。
私たちが主イエス様の弟子である証明は、私たちが互いに愛
し合うことだと主はヨハネ13:35で云われました。ヨハネ
は、私たちが神から出た者であるという証明は、主にある兄弟
姉妹同士が愛し合うことだと1ヨハネ3:10で云っています

次に、10b節から12節で、クリスチャンとして教会の外
でどのように生活すべきかを勧めています。ここでパウロは4
つのことを強く勧めています。
一つは、「ますます」互いに愛し合うことです。愛するとい
うことは、一生かかってもマスターできる業ではありません。
ご聖霊のお導きと励ましの中で、愛する者へと変えられてゆく
ことを覚え、主イエスの言葉に聞き従い、ご聖霊の導きに従っ
てまいりましょう。
二つ目は、「努めて落ち着いた生活をする」ということです
。テサロニケ教会の兄弟姉妹たちは、主イエス様の再臨を今か
、今かと待ちわびすぎて、心落ち着いた生活ができなかったの
かもしれません。それに対してパウロは注意を促します。今の
時代は、主の再臨を待ちわびるよりも、主イエス様のことを思
うよりも、日々降り掛かって来る様々な試練や試みに心がかき
乱され、クリスチャンらしからぬ不安に満ちた生活を私たちは
送っているのではないでしょうか。
三つ目は、「自分の仕事に身を入れる」ということです。私
たちクリスチャンの使命は、神様の愛、キリストの福音を証し
することです。それを無視して世の中を良くしようと政治活動
に専念したら、本末転倒です。世の中を変えるためには、神様
が出会わしてくださる一人ひとりに神様の愛を証しすることが
ベストです。
また、自分の使命をわきまえる必要があります。主と教会と
隣人に仕え、主を礼拝することをしないで、自分のために生き
ていては、それはいずれ空しいことであることに気付きます。
四つ目は、「手ずから働きなさい」ということです。教会に
おいても、社会においても、神様から委ねられた働きを人任せ
にすることなく、主から委ねられたと喜んで献身してゆくこと
が信仰の成長、成熟につながります。私たちは、神様からそれ
ぞれに特別な賜物が与えられています。それらの賜物を持ち寄
って、主のために働くときに、私たちはキリストのからだなる
教会として組み合わされてゆきます。私たちはそれぞれ、神様
から委ねられた自分のなすべきことを忠実に成してゆきましょ
う。
そうしたら、12節にあるように、「教会の人びとに対して
クリスチャンとしての品位を保ち、また誰の世話にもならずに
生活できる」ように主が祝福してくださいます。信じて、主の
言葉に聞き従い、委ねられた業に共に励みましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎