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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

テサロニケ人への第一の手紙4章1節~8節

2011-01-16 22:48:25 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年11月24日
日に日に寒さが増しておりますが、いかがお過ごしでしょう
か。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守
られるようにお祈りしています。
*来る28日の主日から待降節・アドベントが始まります。


今夜は、テサロニケ人への第一の手紙4章1節~8節を学び
ます。使徒パウロは、テサロニケの教会への第一の手紙を閉じ
るにあたり、4章と5章を用いて、テサロニケのクリスチャン
たちが主イエス様を信じて従う者として倫理的にどのように歩
み、神を喜ばすべきかを記し、勧めています。
4章1節から3節には、その勧めの主題が記されていますが
、それは「神の御心は、あなたがたが清くなること」とパウロ
は云います。「どのように歩いて神を喜ばすべきかを私(パウ
ロ)たちから学んだように、また、今も歩いているように、ま
すます神を喜ばすように歩み続けなさい」と兄弟姉妹たちを励
まします。パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちが主の御前で
忠実に歩み続けることを切に願います。何故ならば、コリント
教会の場合もそうですが、罪からの解放と性的な解放がごちゃ
混ぜになり、すでに信じて救われたのだからとふしだらな事が
別に責められないで行われていたからです。
パウロは、そういうが懸念される中で「清くなる」とは第一
に、「不品行を慎むこと」と云います。これは「性的不品行を
避ける」ということです。今の時代では、援助交際や売春や不
倫を指すのでありましょう。男女の関係にも、たとえ夫婦関係
であっても、夫に対し、また妻に対する神様の御心があること
を私たちは決して忘れてはならない、男女の間柄において互い
に尊重する責任が私たちにはあります。
第二に「各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保つこと
」、また第三に「神を知らない異邦人のように情欲を欲しいま
まにしないこと」と云いますが、これは第一の「不品行を慎む
」ことをもっと詳しく述べてものであるのか、それとも新しい
勧めであるのか判断に苦しみますが、主を第一とする生活にお
いて、心も身体も清く保ち、自分の情欲や身体のためだけに用
いないように、主の御用のために用いる事を勧めた言葉に聞こ
えます。第一の勧めが男女間の関係を清く保つようにという勧
めであるならば、第二と第三の勧めは自分の心と身体を清く保
つ事を勧めた言葉であると思います。
さて、パウロは第四に、「このようなことで兄弟を踏みつけ
たり、騙したりしないこと」と云います。これは男女関係では
なく、自分の兄弟姉妹の関係において神の御前に清く歩むこと
を勧めていることであると思います。親の老後や介護の件で兄
弟中が悪くなることがあります。また、親が残した遺産を相続
する時に兄弟関係を壊滅状態に至らせることがあります。嫁姑
問題で兄弟関係が悪くなることもあります。お互いに大変辛く
悲しいことです。神様が悲しまれることでもあります。ですか
ら、兄弟関係においてもお互いに清くフェアであることが神様
の御心であります。相手を「踏みつけたり、騙したり」と私た
ちが加害者にならぬようにとの言葉であるようにも聞こえます
。私たちの国籍は天にあり、宝は天にあることを信じ、この地
上のものに捕われ、固執しないようにお互いに気をつけましょ
う。天に宝を積むようにこの地上で忠実に働く者に神様は豊か
に報いて下さるのです。
救い主イエス・キリストを通して神が私たちを救って下さり
、主に仕える者として召してくださったのは、私たちが「汚れ
たことをするためではなく、清くなるためである」とパウロは
7節で云います。永遠の命が与えられて、神のご臨在の中で永
遠に生かされるためには、汚れたままでは御国には入れて頂け
ないのです。
パウロは、今回のテサロニケの兄弟姉妹たちに対する勧めは
「警告」であると云います。厳しい言葉です。しかし、私たち
が主の御前に清く歩み、神の喜ばれる道を歩むためには、優し
く柔らかい言葉だけでなく、厳しい堅い言葉が必要なのです。
耳当たりの良い言葉だけではクリスチャンとしての成長はない
のです。8節でパウロは、「これらの警告を拒む者は、人を拒
むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜る神を拒むのである
」と云います。いつも悔い改めた心をもって、謙って主の御言
葉に聴き従う者とされてゆきたいと願います。
「聖霊をあなたがたの心に賜る」とありますように、私たち
が清くなるために神様はご聖霊を私たちにくださり、神の霊で
あるご聖霊が私たちの心をその宮、住まいとしてくださって私
たちを励まし、心を清いものに造り変えようとしていることを
再び覚え、ご聖霊の力強きお導きのもとに主の御心にかなった
日々の生活を歩ませていただきましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


テサロニケ人への第一の手紙3章9節~13節

2011-01-16 22:46:52 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年11月17日
月曜から冬の気候になっています。その後、いかがお過ごし
でしょうか。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにあり、
健康が守られるようにお祈りしています。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙3章9節~13節を学
びます。使徒パウロはこの手紙の1:2-5と2:13で2度
にわたって神様にテサロニケの兄弟姉妹たちを覚えて感謝して
いますが、今回の9節に最後の三度目の感謝が記されています
。パウロは、「ほんとうに、わたしたちの神の御前で、あなた
がたのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささ
げたらよいだろうか」と感謝します。感謝しても感謝しきれな
いほどのパウロの喜びがここに表されています。神様が自分と
テサロニケの兄弟姉妹と出会わせ、また主にある交わりをさせ
て下さった神様の愛と恵みを心から感謝しています。神様から
頂戴する大きな恵みにどのように御応えしていったら良いのだ
ろうか、主の恵みに対して充分にお返しはできない、どうした
ら主の恵みに応答できるのだろうとテサロニケの兄弟姉妹と祈
りを共に合わせようとしているように伝わってきます。私たち
は数えきれない程の恵みを主から受けて生かされていますが、
その恵みに返礼できる力は私たちにはありません。ただ、主か
ら受ける恵みを喜び、感謝し、主に信頼して生きてゆく事が求
められていることだと示されます。主への感謝を共にささげる
時と場が主日礼拝です。主の日を大切にし、主に礼拝をおささ
げ致しましょう。
10節でパウロは「わたしたちは、あなたがたの顔を見、あ
なたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに
願っている」と神様への願いを記します。この願いにはパウロ
たちの誠実さが表れています。まず、「日夜しきりに」とあり
ますが、これは「絶え間なく」という意味よりも、「祈りの機
会がある毎」に同労者と共に祈っているという意味です。私た
ちも聖霊によって祈ることへと導かれた時は、それが帰宅中の
電車の中であっても、仕事中であっても、短く主に祈り、主の
伴いと励まし、導きを求めることを躊躇しないようにしたいで
すね。
パウロが願った2つとは、1)テサロニケの兄弟姉妹の顔を
見たいことと、2)再会して兄弟姉妹の信仰の足りない部分を
補いたいということでした。パウロとテサロニケの兄弟姉妹た
ちは、お互いに再会したいと共有の願いがあり、再会すること
を心待ちにしていました。どうしても再会したかったのです。
パウロは再会した時に「兄弟姉妹の信仰の足りない部分を補
いたい」と言っていますが、このコメントに対してパウロを不
信に思う必要はありません。私たちはとかく「信仰の足りない
」という部分に目が行ってしまって、「パウロは上から目線で
ものを言っている」と感じやすいですが、そうでは決してあり
ません。兄弟姉妹たちの信仰が弱いとか、至らないとか、信心
深くないといっているのではなく、クリスチャンとしてこれか
らもまだまだ成長し、成熟することができるのだから、主に喜
ばれる者として成長し続け、主に従う者として強くなることを
助けたいと言っているのです。私たち大久保教会も成長の過程
にある教会であり、クリスチャンである私たちも主に喜ばれ、
主のために仕える者として成長する過程にあります。大久保教
会というキリストのからだが立て上げられ続けてゆくためには
、内側の信仰の一致と外側からの協力が不可欠です。私たちの
教会が整えられ、より一層成長し、主の喜ばれる礼拝をささげ
、多くの実を結ぶためには、外部からの手助けが必要になって
来る時もあるのです。大久保教会は今、そのような岐路に立た
されていると私は牧師として強く感じているのです。どうぞ私
たちの教会が主の愛と恵みの力とによって、御心のうちに整え
られて行くようにお祈りください。
11節から13節で、パウロは神様へお祈りし、3つのこと
を願ったことが記されています。「どうか、主がテサロニケへ
の道を開いて下さるように」、「どうか、テサロニケ教会の兄
弟姉妹の相互の愛を主が豊かに増し加えて下さるように」、そ
して主イエス様が再臨される時、「どうか、テサロニケ教会の
兄弟姉妹たちが神の御前に心強く、清く、責められるところの
ない忠実な僕としてくださるように」と祈ります。大久保教会
の祈りは、「どうか主が大久保教会の進むべき道を開いて下さ
るように」、「どうか私たちの相互の愛を主が豊かに増して下
さるように」、そして「どうか私たちが主の忠実な僕となり、
主に委ねられた使命に生き、豊かに聖霊の9つの実を結ぶ事が
できるように」、共にお祈り頂けますでしょうか。心を一つに
祈りましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙3章1節~8節

2011-01-16 22:42:51 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年11月3日
今日は文化の日のお休みでしたが、いかがお過ごしでしょう
か。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守
られるようにお祈りしています。


今夜は、テサロニケ人への第一の手紙3章1節~8節を学び
ます。テサロニケに残してきた現地のクリスチャンたちが迫害
され、信仰が脅かされていないかと心配であった使徒パウロが
テモテをテサロニケへ派遣したことが記されていますが、その
テモテがテサロニケから戻ってきて現地の様子を報告してくれ
た後に、この手紙はパウロの大きな喜びと主への感謝をもって
記されていることを覚えたいです。
さて、テモテはパウロの愛弟子ですが、パウロはテモテを「
私たちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者」とテサ
ロニケの兄弟姉妹に紹介しています。この言葉にパウロのテモ
テに対する信任の厚さが表されています。私たち大久保教会の
兄弟姉妹も、主イエス様によって救われ、福音を伝える同労者
として立てられ、派遣されている存在であることをいつも心に
覚えたいと思います。福音宣教は、パウロやテモテ、有名伝道
者や宣教師などの特定の人だけに委ねられている働きではなく
、ごく普通の私たちが、私たちと生活を共にしているごく普通
の隣人に神様の愛、キリストの福音を証しするために生かされ
ている働きである事を覚え、そのように働く時、社会と地域が
聖霊と神の愛の力で変えられてゆくことを信じましょう。
パウロにとって大切な愛弟子を迫害者の多いテサロニケに遣
わすということは、それ程までにパウロはテサロニケの兄弟姉
妹たちを大切に思っていたということの証明です。大切な人の
ために私たちの大切なものを神に祈りつつ、主に委ねつつささ
げてゆくことが愛するということで、主イエス様はヨハネ15
:13で「人がその友のために自分の命を捨てること、これよ
りも大きな愛はない」と云われ、その直前の12節で「わたし
の戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい」とお命じになられました
。私たち大久保教会は、この新宿・大久保の地に立てられ、遣
わされている教会としてこの地域の人々の救いのために何をさ
さげることができるでしょうか。ご一緒に御言葉に聴き、共に
祈り、そして示される主の言葉に信仰をもって共に従いましょ
う。
さて、パウロが危惧したことは、5節にあるように、テサロ
ニケのクリスチャンの信仰を「試みる者たち」が兄弟姉妹たち
を試み、その心に信仰がくじけてしまい、パウロたちの福音の
業が無駄にならないかということでした。そこで、テモテに委
ねられた使命は、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちの「信仰を強
め、患難の中にあって、動揺する者が一人もないように励ます
」ことでした。
テモテはその使命を忠実に遂行し、現地で兄弟姉妹たちの信
仰を強め、励ました後、パウロのもとに帰って来て、テサロニ
ケの兄弟姉妹たちが信仰をしっかり守り続けていると報告をし
ました。パウロもそれを聞いて喜び、主に感謝しましたが、テ
サロニケ教会での手紙の中で「私たちは患難に会うように定め
られているのである」と云うのです。このパウロ言葉は、テサ
ロニケの兄弟姉妹たちの信仰をむしろ弱め、動揺させ、失望さ
せてしまうような逆効果な言葉に聞こえます。なぜパウロはこ
のように云ったのでしょうか。
パウロは「患難はこれからも続くでしょう。何故なら主がそ
のように計画されているからです。それは患難を通して私たち
の信仰を益々強めるためです。主の僕として造り変えるためで
す。しかし患難の中にあっても必ず主が共にいて下さるから頑
張りなさい」との励ましであると思うのです。私たちの人生も
試練や患難がこれからもあるでしょう。しかし、私たちが覚え
なければならない事は、すべての出来事・事柄には主の御旨と
ご計画の中にあり、主の目的があるということです。
患難にあい、自分ではどうすることもできなくなってしまっ
た時に、近くに伴ってくださる主イエス様の存在を認めます。
自分の力に自信を持っている間、あるいは主以外に頼っている
間は、主の臨在と愛に気付かずに生きてしまうからでしょう。
しかし、パウロたちが不在でもテサロニケの兄弟姉妹たちは
主イエス様のご臨在、神の豊かな愛とお守りを感じ、主への愛
と信頼の中で信仰を守って歩んでいること、また彼らがパウロ
をその働きと健康をいつも覚えて祈ってくれ、再会を待ちわび
ているとテモテから報告を受けたパウロは大いに喜び、安心し
ます。パウロたちも患難の中に置かれていましたから、その報
告はパウロの大きな慰めになったと7節で云って、テサロニケ
の兄弟姉妹たちに感謝しています。
8節で「あなたがたが主にあって堅く立ってくれているなら
、私たちはいま生きることになる」とパウロは云っています。
私たちにも試練の中で心折れそうになる時があります。しかし
、主イエス様を救い主と信じて、信仰に踏みとどまるならば、
私たち一人ひとりの存在が誰かの慰め、励ましになると云われ
て励まされているのです。これは何と幸いなことでしょうか。
これだけでも私たちが生かされている意味と価値が、私たちの
命と信仰にあります。喜び、祈り、感謝して生きましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


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テサロニケ人への第一の手紙2章13節~16節

2011-01-16 22:39:27 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年10月20日
先週とは打って変わって肌寒いこの頃ですが、いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守られるようにお祈りしています。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙2章13節~16節を学びます。この手紙には神様への感謝が3回記されていて、今回の13節は1章2~5節に次ぐ神様への2回目の感謝となります。また、今回の箇所は、2章12節までのテーマ(テサロニケにおける使徒の働きとその性質について)から2章17節から始まる新しいテーマ(迫害者たちによってテサロニケから追い出された後にパウロたちがどのような行動に移ったか)への移行するつなぎとなっている箇所です。私たちの生活でも様々な場面へ移行する事柄があると思います。職場や所属が新しく変わったり、環境が変わる時にひどく不安になったり、今までの出来事や人間関係に対して不満を漏らしたりすることがあるでしょうか。使徒パウロはテーマを良い体験から悪い体験へと移行してゆくのですが、その中でもパウロは神様に感謝するのです。
使徒パウロは自分たちがテサロニケで福音の種まきを続けたことは決して無駄ではなかったと云いましたが、私たちが一生懸命に取り組んでいることが周囲の人々に理解されなかったり、その反対に非難されたりと理不尽なことをされたり云われたりすると私たちの心は折れてしまいます。しかし、パウロの心は折れませんでした。折れるどころか、ますます神様から注がれる恵みを数えて、主に信頼してゆく中で心と信仰が強くなってゆくのです。私たちの心と信仰を強める方法、それは「すべては神様から与えられている」と主の恵みに「感謝」してゆくことだと教えられます。どんな状況の中にあっても、特に試練や迫害の中にいる時にこそ主の伴いを信じ、主が与えたもうすべてを恵みと感謝することからまず始める、そこにキリスト者の真の強さがあるのだと導かれます。
2章で使徒パウロが神様に感謝したことは第一回目の感謝と重なる部分も多いのですが、テサロニケの諸教会の兄弟姉妹たちがまず「キリストに倣い」、次に「使徒に倣い」、そして今は「ユダヤにあるキリスト・イエスにある神の諸教会に倣っている」者とされていることを神様に感謝しています。これはどういうことかと申しますと、テサロニケの人々がキリストにある信仰を受け取り、兄弟姉妹たちが共に主イエス様にあって「信仰の働き」と、「愛の労苦」と、「主イエス・キリストに対する望みの忍耐」(1:2)をしつつ生きていることをパウロは感謝したのです。クリスチャンとして現代に生かされている私たちは、主イエス・キリストに日々従い、また倣う者として生き、そしてその中でキリストに似る者として変えられてゆく必要性があることが判ります。つまり、「信仰によって働き」、「愛をもって労苦し」、そして主イエスにある「望みをもって忍耐」しつつ生きてゆくことが私たちに主から求められているということでありましょう。
キリスト・イエスに似る者とされてゆく方法、それは使徒や牧師によって説かれる聖書の言葉を人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れてゆくことだと使徒パウロは13節で云います。キリストに似る者として私たちが形づくられてゆくためには、使徒や牧師の口を通して語られる宣教、説教を人の言葉としてではなく、「神の言」として受け入れて聴従してゆく必要があると教えられます。これは言い訳ではありませんが、牧師は人です。人は不完全ですから、その人だけを見ていては躓くでありましょう。ですから牧師をステレオの「スピーカー」、つまり神の言がでる「箱」と考えるのです。スピーカーは聖霊の電流が流れて始めて音を出すのです。
テサロニケ教会の兄弟姉妹たちはユダヤ人たちから迫害されるだけでなく、同胞のテサロニケ人たちからも迫害を受け、その苦しみに耐えていました。パウロたちを通して受け取ったイエス・キリストの恵み、神の愛である福音を大切にし、神様から与えられた信仰を守り続けたのです。そのことをパウロは神様に感謝したのです。私たちも試練に遭います。しかし、試練そのものに心奪われるのではなく、その中にある主の伴いと主の恵みに心を向け、主に信頼しつつ感謝してゆきましょう。主に従う者を神様は祝福し、主を欺く者に主の怒りは至るのです。信じましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙2章1節~12節

2011-01-16 22:36:27 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年10月13日

夏に舞い戻ったかのような暑い日が続きましたが、いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守られるようにお祈りしています。
チリ北部コピアポ近郊のサンホセ鉱山に閉じ込められた作業員33人の救出活動は、日本時間の13日午後に始まりました。これまでに6人が地底から生還し、地上で待ちわびた家族らとの約70日ぶりの再会を果たしています。感謝です。

今回は、テサロニケ人への第一の手紙2章1節~12節を学びます。
使徒パウロは第二回伝道旅行の際にマケドニヤに渡り、テサロニケで3週間ほどの宣教活動をします。そのことは使徒行伝17章1節から記され、一年程前に学びましたが、パウロたちは「聖書に基づいて」、キリストの受難と復活を説明し、イエスこそがキリスト/メシヤであることを論証します。その結果、大勢の人々がキリストの福音を聞き、納得したユダヤ人や信心深いギリシャ人、また女性たちがイエスを救い主キリストと信じてクリスチャンとされてゆきます。そのようにテサロニケにおいて多くの実が結ばれたのですが、他方でキリストの福音に猛反発するユダヤ人たちが出現し、彼らの嫉妬から暴動が起こされ、町全体に混乱が生じたので、福音宣教は中断され、パウロたちはベレヤ地方へ非難してゆきます。
パウロは、この2章の最初の部分で、当時の福音宣教の動機や活動の概略を記します。1節で「わたしたちがあなたがたの所に入って行ったことは、無駄ではなかった」と云います。続く2節で「それどころか、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語った」と云います。テサロニケとその前のピリピの宣教活動において、多くの苦しみと辱めを受け続けたけれども、神様から大いなる力と勇気が与えられて福音を大胆に語ることができ、ピリピとテサロニケにおいて多くが主イエスの救いの恵みに与る事ができた。自分たちの労苦は無駄ではなかったと神様に感謝します。
私たちもそれぞれに多くの労苦があります。自分を犠牲にしてでも親や子どものために一生懸命になることがあります。頑張って子育てや親の介護をします。家族を愛します。しかしそれでも、私たちの頑張りが顧みられないことがあり、反対に理解されなくて非難されたり、当たり前かの様な振る舞いや言葉を聞くとガックと肩を落とし、心が折れそうになります。それでも私たちの祈りと愛をもってなすことは無駄にはならずに、神様から新たなる力と勇気が朝毎に与えられてゆくのです。すべてを益としてくださる神様をいつも信頼し、神様に愛と忍耐と力を求めてゆきましょう。その時に神様は愛の力を豊かに注いで下さいます。

パウロは3節で「わたしたちの宣教は迷いや汚れた心から出たものではなく、騙しごとではない」と云います。私たちが神様に仕え、人に仕える時、特に家族や友人のために働く時、なにか魂胆があるでしょうか。自分だけの利益を求めてするでしょうか。いいえ、そのようなことはなく、相手のことを最優先に最大限に考えて仕えようとします。パウロも宣教をした時、いつも福音を聞く人々のことを愛し、祈りと信仰をもって語って行ったのです。「善かれ」と思ってやったことでも相手には「迷惑」と思われてしまうことも時にはあるでしょう。しかし、パウロは「わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語る」と4節で云います。私たちは人に喜ばれるために物事するのではなく、つねに「神様に喜ばれるため」に仕えてゆきたいと願います。家族や隣人のために働くことは主のために働くこと、そのことを心に刻み続けたいと願います。

福音宣教は「迷いや汚れた心からでたものではない」、また「へつらいの言葉でもなく、口実を設けて利をむさぼる行為でもない」と5節で云います。「キリストの使徒たちとしてもっと重んじられることもできたが、人からは栄誉を求めなかった」と6節で云います。一人でも多くの人が救われて、天国に喜びの賛美が響き渡り、神様の御名が誉め讃えられることだけを求めたいですね。
パウロは7-8節で「神の福音ばかりではなく、自分の命までも与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛した」とテサロニケの兄弟姉妹たちに伝えます。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とのイエス様の御声が心に響きます。主はこの言葉の前にこう言われました(ヨハネ15:12)、「わたしの戒めはこれである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
10-12節で、パウロたちがテサロニケにおいて全力で取り組んだことが記されています。すなわち、テサロニケのキリスト者たちの前で「信心深く、正しく、責められるところがないように生活した」のは、テサロニケの兄弟姉妹たちが「御国とその栄光とに召してくださった神の御心にかなって歩くようにと勧め、励まし、また諭す」ためでした。私たちにできることは限られていますが、まず主イエスを信じ、神様の御前に正しく生かされ、人からも責められない信仰生活を送りましょう。主にあっていつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する生活が家族や隣人への最も効果的な証となるでしょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎