主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りしています。
次の主日まで神学校週間です。献身して学ばれている神学生たちと神学校(西南学院大学神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校)の働きためにお祈り下さい。
来主日4日は、大久保教会の45回目のお誕生日です。ご一緒にお祝いしましょう!
1月から共に礼拝をおささげして来たキム・ヒジュン兄が来週10日に韓国へ帰国されます。残された大学での学びと希望している日本での就職への導きのためにお祈りください。今週末には韓国から弟さんが日本に来られます。
今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙3章18節~4章1節を学びます。この箇所は、エペソ5章と6章に関連する「クリスチャンへの家族に対する勧め」です。ここは「妻、夫、子、父
、しもべ、主人たる者、何々せよ」と勧められている箇所で、この言葉を煙たがる人も多くいるのではないかと思います。しかし、実はこの箇所は「煙たい」箇所ではなく、「恵み」の箇所であり、私たちの受け止め方を肯定的にする必要があります。
第一の恵みは、私たちは主イエス様によってクリスチャンとされていることです。これは何にも代え難い、神様からの一方的な憐れみによるものですから、まずこの神様のお取り計らいを喜び、主イエス様の犠牲に感謝しましょう。
第二の恵みは、私たちは両親や子どもたち、夫や妻たちに対して、クリスチャンの妻、夫、親、子と神様の御旨によってされていることです。私たちは奴隷の身分ではありませんが、地域社会や会社で働くクリスチャン社会人とされています。クリスチャンのビジネスオーナーであれば、クリスチャンオーナーされているのです。
第三の恵みは、私たちはその家族や社会の人々、会社の人々、日々出会ってゆく人々たちへクリスチャンとして派遣されていることです。オーナーであれば、従業員たちや取引先の人々へもクリスチャンとして派遣されているわけです。
ここには「夫に仕えなさい」、「妻を愛しなさい」、「何事についても両親に従いなさい」、「子どもをいらだたせてはいけない」、「肉による主人に仕えなさい」、「しもべを正しく公平に扱いなさい」とあり、これらの言葉を「時代に逆行するナンセンスな言葉」と捉える人もあると思います。何故そのように捉えるのでしょうか。それは、今の時代はギブ・アンド・テイクの時代だからでしょう。しかし、敢えていうならば、テイクのみの時代が強まり、自己中心的な人が多くなってきているからではないでしょうか。「仕える」よりも「仕えられたい」、「愛する」よりも「愛されたい」、「従う」よりも「従わせたい」と言った具合です。多くの人は「受ける権利」を主張します。
しかし、私たちはすでに主イエス様から十分すぎる程の「救い」の恵みを受けています。しかし、私たちは神様からの愛だけでなく、人からも愛されたいという症候を持っていますから、テイクのみになることはなくても、ギブ・アンド・テイクでいきたいと思ってしまいます。しかし、イエス様は、「受けるよりも、与えるほうが幸いである」と言われます。また、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである」とマルコ10:45でおっしゃいました。
私たちがクリスチャンとして大切にしたいこと、それは「人が私に何をしてくれるか」ではなく、「私は人に何をしてあげられるか」ということを問い続けることだと思います。「受ける権利」を主張するのではなく、「与える」「恵みを分け与える喜び」を伝えたいと願います。
主によって派遣されている人々に対して私たちがクリスチャンとして「仕え、愛し、従う」ことは「主にある者にふさわしい」(18節)、「主に喜ばれること」(20節)とあります。それは神様、主イエス様の御心に沿ったことなのです。
また、23節には「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように」と勧められています。地上で人々に仕えることは主イエス様に仕えることであり、地上で隣人や家族たちを愛することは天の神様を愛することにつながるのです。その報いとして、私たちは御国を受け継ぐことが恵みとしてできるのです。
大切な3つのポイント: 主イエス様が十字架の死に至まで神様のご計画に従順に仕えられたように、私たちの従順に仕えること、仕えることができることを喜ぶこと。 主がご自分の命を捨ててまで私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うこと。 主が神様の御旨に従順に従ったように、地上での主人や親に従うということです。この神様の言葉に聞き従うことは非常に難しいことです。ですから、共に祈りましょう。共に祈りあい、励まし合いましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎