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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

コロサイ人への手紙3章18節~4章1節

2011-01-16 21:01:11 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年6月30日

主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りしています。

次の主日まで神学校週間です。献身して学ばれている神学生たちと神学校(西南学院大学神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校)の働きためにお祈り下さい。
来主日4日は、大久保教会の45回目のお誕生日です。ご一緒にお祝いしましょう!

1月から共に礼拝をおささげして来たキム・ヒジュン兄が来週10日に韓国へ帰国されます。残された大学での学びと希望している日本での就職への導きのためにお祈りください。今週末には韓国から弟さんが日本に来られます。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙3章18節~4章1節を学びます。この箇所は、エペソ5章と6章に関連する「クリスチャンへの家族に対する勧め」です。ここは「妻、夫、子、父
、しもべ、主人たる者、何々せよ」と勧められている箇所で、この言葉を煙たがる人も多くいるのではないかと思います。しかし、実はこの箇所は「煙たい」箇所ではなく、「恵み」の箇所であり、私たちの受け止め方を肯定的にする必要があります。

第一の恵みは、私たちは主イエス様によってクリスチャンとされていることです。これは何にも代え難い、神様からの一方的な憐れみによるものですから、まずこの神様のお取り計らいを喜び、主イエス様の犠牲に感謝しましょう。

第二の恵みは、私たちは両親や子どもたち、夫や妻たちに対して、クリスチャンの妻、夫、親、子と神様の御旨によってされていることです。私たちは奴隷の身分ではありませんが、地域社会や会社で働くクリスチャン社会人とされています。クリスチャンのビジネスオーナーであれば、クリスチャンオーナーされているのです。

第三の恵みは、私たちはその家族や社会の人々、会社の人々、日々出会ってゆく人々たちへクリスチャンとして派遣されていることです。オーナーであれば、従業員たちや取引先の人々へもクリスチャンとして派遣されているわけです。

ここには「夫に仕えなさい」、「妻を愛しなさい」、「何事についても両親に従いなさい」、「子どもをいらだたせてはいけない」、「肉による主人に仕えなさい」、「しもべを正しく公平に扱いなさい」とあり、これらの言葉を「時代に逆行するナンセンスな言葉」と捉える人もあると思います。何故そのように捉えるのでしょうか。それは、今の時代はギブ・アンド・テイクの時代だからでしょう。しかし、敢えていうならば、テイクのみの時代が強まり、自己中心的な人が多くなってきているからではないでしょうか。「仕える」よりも「仕えられたい」、「愛する」よりも「愛されたい」、「従う」よりも「従わせたい」と言った具合です。多くの人は「受ける権利」を主張します。

しかし、私たちはすでに主イエス様から十分すぎる程の「救い」の恵みを受けています。しかし、私たちは神様からの愛だけでなく、人からも愛されたいという症候を持っていますから、テイクのみになることはなくても、ギブ・アンド・テイクでいきたいと思ってしまいます。しかし、イエス様は、「受けるよりも、与えるほうが幸いである」と言われます。また、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして自分の命を与えるためである」とマルコ10:45でおっしゃいました。

私たちがクリスチャンとして大切にしたいこと、それは「人が私に何をしてくれるか」ではなく、「私は人に何をしてあげられるか」ということを問い続けることだと思います。「受ける権利」を主張するのではなく、「与える」「恵みを分け与える喜び」を伝えたいと願います。

主によって派遣されている人々に対して私たちがクリスチャンとして「仕え、愛し、従う」ことは「主にある者にふさわしい」(18節)、「主に喜ばれること」(20節)とあります。それは神様、主イエス様の御心に沿ったことなのです。

また、23節には「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように」と勧められています。地上で人々に仕えることは主イエス様に仕えることであり、地上で隣人や家族たちを愛することは天の神様を愛することにつながるのです。その報いとして、私たちは御国を受け継ぐことが恵みとしてできるのです。

大切な3つのポイント: 主イエス様が十字架の死に至まで神様のご計画に従順に仕えられたように、私たちの従順に仕えること、仕えることができることを喜ぶこと。 主がご自分の命を捨ててまで私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うこと。 主が神様の御旨に従順に従ったように、地上での主人や親に従うということです。この神様の言葉に聞き従うことは非常に難しいことです。ですから、共に祈りましょう。共に祈りあい、励まし合いましょう。

週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

コロサイ人への手紙3章12節~17節

2011-01-16 20:01:47 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年6月23日
主がお与えくださる恵みの日をいかがお過ごしですか? 主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りしています。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙3章12節~17節を学びます。

5節から11節には、私たちクリスチャンが捨てるべきものは「不品行、汚れ、情欲、悪欲、貪欲という偶像礼拝、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉、嘘、差別意識」であることを学びましたが、12節からは神に選ばれ、キリストにあって聖とされ、愛されている私たちクリスチャンが「着るべき」、「加えるべき」性質が記されています。 私たちが信仰と熱き祈りとをもって求め、そして自ら進んで身につけてゆくべき性質は、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、そして寛容です。

憐れみの心の出発点は、私たちが罪人であった時に神様が私たちを憐れんで下さり、私たちの罪を贖うために救い主イエス・キリストを犠牲にして下さった神様の愛にあります。そして憐れみの心とは、自分の大切なものの一部を隣人に与えてゆくということでありましょう。

慈愛とは、イエス様が自ら進んで私たちに歩み寄って愛して下さったように、私たちも隣人を思いやり、心配り、そして自ら進んで隣人に歩み寄る優しさです。求められる前に隣人の必要を察知し、必要に応えようと実行に移す優しさということが言えると思います。常に心のアンテナを広げ、隣人への心配りが細やかでありたいと思います。

謙遜であるためにいつも心に留めておきたいことは、私たちは神に造られ、生かされ、主イエスの犠牲によって罪赦され、恵みのうちに生かされている存在であるという真実です。神様の愛なしに生きる事ができない存在であることを感謝しつつ、謙って生きる事です。高慢の原因は、その恵みを忘れてしまう事にあると思います。

柔和とは、神の恵みに捉えられ、主にあって自己をセルフコントロール、自己制御できることです。そのような人は決して自分の感情に左右される事なく、主にあっていつも冷静沈着で、人を正すべき時は正しく正し、注意すべき人には真摯に向き合って注意ができる真の強さと優しさを兼ね備えた人です。

寛容とは、隣人の弱さに対して忍耐を失わないクリスチャンの精神を言い表す言葉です。私たちは人のミスに対して批判的になったり、もどかしさを抱いたり、軽蔑したり、愛のない態度をとってしまうことがありますが、寛容とは人のミスをそのまま受け止めてゆく心の広さと言えるでしょう。神様は、私たちの罪深さに対して寛容を示し、イエス・キリストを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得ることをひたすら忍耐をもって待っていて下さいます。

私たちは、神様に憐れまれ、神様のご意志をもって愛され、神の子イエス様の十字架による罪の贖いを受け、優しさと忍耐を受けたのでありますから、教会の中で「互いに忍びあい、許しあいなさい」と13節で命じられています。「許す者だけが主によって赦される」のです。私たちが互いに忍びあい、許しあうためには、神様から受ける愛が必要です。神様の愛のみが私たちを完全に結ぶことができ、神様の愛なしに互いに忍ぶことも許しあうことも私たちにはできないのです。

今、私たちの心は何に支配されているでしょうか? 使徒パウロは「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」と勧めています。神との平和がイエス様を通して与えられた福音を喜び、感謝しましょう。また、主イエス・キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせなさいと勧めされています。主の言葉に日々聞き従ってゆきましょう。私たちが主にあって神様の和解できた恵み、主の憐れみに感謝し、神様を誉めたたえる讃美と証しで心満たされてゆきたいと願います。


週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


コロサイ人への手紙3章1節~11節

2011-01-16 19:56:58 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年6月16日
今日は、蒸し暑い日でしたね。いかがお過ごしでしょうか?
主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りいたします。


今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙3章1節~11節を学びます。

使徒パウロは2章12節で「あなたがたはバプテスマを受けて彼(キリスト)と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえ
らされたのである」と言い、また3章1節で「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられる」と使徒パ
ウロがコロサイ教会の兄弟姉妹たちに命じています。「上にあるものを求めなさい」とは何でしょうか。マタイ6:33で「まず神の国と神の義とを求めなさい」と私たちはイエス様に命じ
られています。地上の、つまり人間の考えや価値観や計画を優先するのではなく、神の考えや価値観や計画を優先しなさいということだと思います。


2節に「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」とありますが、この地上には確かに心引かれるものや慕いたくなるものがたくさんあり
、それらによく心が惑わされますが、それらはすべて有限なものであり、滅びゆくものです。しかし、上にあるもの、御国にあるものはすべて良く、無限のものであり、永遠のものです。
私たちの思い、目標、志を滅びゆく地上のものに向けるのではなく、御国へと向けてゆくことが私たちに求めておられる神様の御旨であると心に留めたいと思います。


求めたら「上から」何が与えられるのでしょうか。新しい価値基準、新しい判断の仕方、新しい知恵や力など。新しい視点が与えられます。しかし、主イエス・キリストにあって新しく生まれた私たちには「イエス・キリストという光」の中で「新しい人生の意義」と「新しい生き甲斐」が与えられるのだと思います。主イエス様の光に照らされて、自分がこの地上で生かされている間に何をなすべきかが見えて来るのです。すべてのものを「主イエスの十字架と復活の光」に照らして行く時に、それらのものが私たちにとって必要なものなのか、そうでないのかがはっきりするのです。

5節から11節には、私たちが捨てるべきものが記されています。「不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない」と5節で言われています
。これらのものは私たちの人生において神様に敵対するものであり、神の御心を成就させまいとするものであると言われています。ある神学者は、「願望や野心、自己中心主義を殺してしまいなさい」と神が言っていると解釈しています。「貪欲は偶像礼拝」とありますが、モールという神学者は「偶像礼拝とは、自己を神への奉仕にささげようとするより、自分の目的のために神を利用すること」と言っています。その他にも「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨て、また「嘘を言ってはらない」、「差別をしてはいけない」と8、9、11
節で言われています。

9節から10節で「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しい人を着たのである」と言われています。榎本保郎牧師は、「今までの生活、古い生活を脱ぎ捨てることなしに、神からの恵みにあずかることはできない。神が新しいものをくださるのは、私たちが脱ぎ捨てることの賞としてではない。ただ神が備えてくださった新しいものを私が受けるために、古いものを捨てるのである」と言っています。私たちの目の前に主の祝福が備えられています。古い自分を脱ぎ捨て、主イエス・キリストを着ましょう。その時に主イエス様と私たち一人ひとりは一つとされ、教会も一つとされます。

週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


コロサイ人への手紙2章8節~23節

2011-01-16 19:53:39 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年6月9日
主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りいたします。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙2章8節~23節を学びます。

今回の箇所は、パウロ書簡の中でも最も難解な文書と言われています。本当に何度読み返しても、難解で、奨励をどのように準備しようかと困りました。先に申したように、コロサイ教会にはグノーシス派の影響とユダヤ教の影響を受けている偽教師が忍び込み、異端的な教えを広めようとしていました。彼らの主張は、「イエス・キリストとその教え、またその業は人間の『救い』にとっては不十分である。だからイエスを信じる信仰に加えて、他に必要なことを知る必要がある」と言うことです。「あなたがたは、イエスをキリストと信じ、その教えと業を信じるだけでは、完全に救われていない」と主張し、キリストを信じる以外に、人が救われるために必要な事柄少なくとも、4つの主張をするのでありますが、それらの偽教師の主張に対する使徒パウロの弁明が今回の箇所に記されています。

第一に、完全に救われるためには「哲学」がキリストを信じる信仰と共に必要であると偽教師たちは語っていた事が8節から判ります。「哲学」とは「人間の知恵、空しい騙しごと」とパウロは言っています。「哲学」は人間の限られた知恵によって作られた言い伝えであり、人知で計り知る事の出来ない神の愛と業を人の知恵で理解しようとすることは空しいと言っています。信仰には純真さが必要なのです。

第二に、完全に救われるためには「割礼」が信仰と共に必要と偽教師たちが主張したことが11節から判ります。「キリストを信じる信仰だけではダメ、人の業、しるしとして割礼を受けないといけない」といの主張です。これに対してパウロは、私たちはすでにキリストの割礼=バプテスマを受けているからそれだけで十分と11節から15節までで言うのです。信仰は「信じることと行いによって救われる」のではなく、「神の憐れみ、主イエス・キリストの十字架上の贖罪と復活を信じる」信仰によって私たちは義とされ、主によってのみ救われるのですとパウロは主張するのです。恵みによって私たちは救われているという喜びが大切なのです。

第三に、完全に救われるためには「厳格な禁欲主義」が必要と主張したことが16節、21節~23節から判ります。しかし、使徒パウロは、禁欲主義に走るのは「ひとりよがりな礼拝とわざとらしい謙遜と、身体の苦行とを伴うので、知恵のある業に見えるが、実は、何の役にも立たない」と言うのです。禁欲主義に走るとストレスから人を容易く「裁いて」しまう危険性があるのです。私たちは主イエスの贖いによって神の裁きから解放され、罪赦された存在であることを忘れないようにしたいと思います。


第四に、完全に救われるためには「天使を礼拝しなければ」と主張したことが18節から判ります。偽教師たちは、イエス様を神と人との間に多く存在する仲保者の中の一人に過ぎず、仲保者である天使たち全体がイエスと共に礼拝されなければならないと教えていたようです。しかし、パウロは「イエスこそ私たちのかしらであり、この方に着いていなければならない。このイエス様がかしらであり、このかしらから出て、からだ全体はつながれ、結び合わされ、神によって育まれ、成長してゆくのである」と19節で言うのです。私たちの礼拝すべきお方は、「父、み子、聖霊」なる三位一体の神なのです。人や天使、自然などの神の被造物ではありません。

せっかくイエス・キリストによって罪と罪に由来する様々な束縛から解放されたのに、偽教師たちの主張はクリスチャンを「奴隷状態」に戻すことであり、肉の欲望から解放するどころか、つなぎ止めてしまう事であるとパウロは20、23節で言うのです。私たちクリスチャンは、主イエス様の十字架の贖いと復活によって罪と死の縄目から完全に解放され、自由な身にされています。人の言い伝えや考え、規則や慣習に縛られる必要はないのです。主の愛と恵みを兄弟姉妹たちと共に感謝し、共に礼拝を主にささげ、共に主と教会と隣人に心からお仕えしたいですね。御言葉への聴従と祈りから始めましょう。

週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


コロサイ人への手紙2章6節~7節

2011-01-16 19:48:52 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年5月26日
主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りいたします。

聖書の御言葉:「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙2章6節~7節を学びます。使徒パウロは、コロサイ教会の兄弟姉妹たちが、グノーシス派の異端的な教えに惑わされることなく、「秩序正しく生活し、キリストに対する強固な信仰を持ち続けている事を喜んでいる」と彼らの信仰の歩みを喜び、同時に励まします(5節)。私たちもそのような信仰生活を歩みたいと願いますが、どうすれば私たちも秩序正しく生活し、堅固な信仰を持ち続けることができるのでしょうか。その答えが、今回の6節から3章17節までに散りばめられて記されています。


今回の6節と7節のパウロの言葉は、彼が手紙の中で最も伝えたかったことが要約されています。使徒パウロとの面識もなく、また主イエス様にも会った事のないコロサイ教会の兄弟姉妹たちが、どのように秩序正しく生活し、信仰を堅く守り続けることができたのか。その答えは、彼らが「主キリスト・イエスを受け入れ」続けたからです。この言葉は皆さんには「当たり前」のように聞こえるでしょう。しかし、ここで注目しなければならないのは、彼らがイエス様を「受け入れた」という言葉なのです。コロサイ人への手紙以外のパウロ書簡を読んでゆく時、不思議なことに「キリスト・イエスを受け入れる」というキリストが目的語とされている箇所はないのです。パウロが「受け入れる」と言えば、それはピリピ人たちが「パウロから受けた教え」(ピリピ4:9)であったり、コリント人たちが受け入れた「福音」(1コリント15:1-2)であったり、テサロニケ人たちが受け入れた「神の言」(1テサロニケ2:13)であったり、パウロから受けた「言い伝え」(2テサロニケ3:6)であったのです。


皆さんがイエス様を「キリスト」、「救い主」と受け入れた時、どのような方法で受け入れるに至ったのでしょうか。キリストの福音を誰からか聞いたでしょう。どなたかの「証し」をお聞きになったかもしれません。あるいは、聖書からであったでしょう。しかし、それは私たちの信仰のファーストステップであって、ゴールではありません。主イエス様を受け入れ、そして「成長し続ける」ことが求められています。パウロは、コロサイ教会の兄弟姉妹たちが成長し続けるためには次のステップを踏まなければならないと感じたのです。そのステップとは「イエス・キリストのこと」を証しした人や福音を語った人たちや、「イエス様のこと」が記された聖書や書物を受け入れるのではなく、「イエス・キリストご自身」を「主」として受け入れることです。例えば、あなたを導いた牧師やあなたが尊敬する人が不道徳なことをしたとします。そうしたら、あなたは躓くでしょう。あなたにキリストを証しした人がキリストから離れたとしたら、あなたは動揺し、あなたの信仰も大きく揺さぶられ、あなたも信仰を捨てるかもしれません。人の行いや言葉、人の存在にではなく、主イエス様を受け入れ、この方を信じ続けなければ、「人生の嵐」が突然私たちを襲いかかって来る時、私たちは信仰を失ってしまいます。ですから、主イエス・キリストを受け入れ、主だけを見上げ、主にのみより頼み、主のうちに歩みなさいとパウロは励ますのです。


主イエス様に「根ざし、建てられ」なさいとパウロは勧めます。イエス様を私たちの人生の大地、土台としていく時、また主の言葉と教えに聞き従ってゆく時、私たちの信仰は確立されてゆきます。罪人であった私たちを神様がイエス・キリストを通して受け入れて下さったこと、その恵み、愛と赦し、主イエス様の十字架の犠牲を感謝し続けて生活する時に私たちは「秩序正しく生活し、堅固な信仰を持ち続ける」ことができるのです。

共に祈りつつ、励まし合いつつ、主イエス様を受け入れ続けましょう。


週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎