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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

コロサイ人への手紙2章8節~23節

2011-01-16 19:53:39 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年6月9日
主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りいたします。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙2章8節~23節を学びます。

今回の箇所は、パウロ書簡の中でも最も難解な文書と言われています。本当に何度読み返しても、難解で、奨励をどのように準備しようかと困りました。先に申したように、コロサイ教会にはグノーシス派の影響とユダヤ教の影響を受けている偽教師が忍び込み、異端的な教えを広めようとしていました。彼らの主張は、「イエス・キリストとその教え、またその業は人間の『救い』にとっては不十分である。だからイエスを信じる信仰に加えて、他に必要なことを知る必要がある」と言うことです。「あなたがたは、イエスをキリストと信じ、その教えと業を信じるだけでは、完全に救われていない」と主張し、キリストを信じる以外に、人が救われるために必要な事柄少なくとも、4つの主張をするのでありますが、それらの偽教師の主張に対する使徒パウロの弁明が今回の箇所に記されています。

第一に、完全に救われるためには「哲学」がキリストを信じる信仰と共に必要であると偽教師たちは語っていた事が8節から判ります。「哲学」とは「人間の知恵、空しい騙しごと」とパウロは言っています。「哲学」は人間の限られた知恵によって作られた言い伝えであり、人知で計り知る事の出来ない神の愛と業を人の知恵で理解しようとすることは空しいと言っています。信仰には純真さが必要なのです。

第二に、完全に救われるためには「割礼」が信仰と共に必要と偽教師たちが主張したことが11節から判ります。「キリストを信じる信仰だけではダメ、人の業、しるしとして割礼を受けないといけない」といの主張です。これに対してパウロは、私たちはすでにキリストの割礼=バプテスマを受けているからそれだけで十分と11節から15節までで言うのです。信仰は「信じることと行いによって救われる」のではなく、「神の憐れみ、主イエス・キリストの十字架上の贖罪と復活を信じる」信仰によって私たちは義とされ、主によってのみ救われるのですとパウロは主張するのです。恵みによって私たちは救われているという喜びが大切なのです。

第三に、完全に救われるためには「厳格な禁欲主義」が必要と主張したことが16節、21節~23節から判ります。しかし、使徒パウロは、禁欲主義に走るのは「ひとりよがりな礼拝とわざとらしい謙遜と、身体の苦行とを伴うので、知恵のある業に見えるが、実は、何の役にも立たない」と言うのです。禁欲主義に走るとストレスから人を容易く「裁いて」しまう危険性があるのです。私たちは主イエスの贖いによって神の裁きから解放され、罪赦された存在であることを忘れないようにしたいと思います。


第四に、完全に救われるためには「天使を礼拝しなければ」と主張したことが18節から判ります。偽教師たちは、イエス様を神と人との間に多く存在する仲保者の中の一人に過ぎず、仲保者である天使たち全体がイエスと共に礼拝されなければならないと教えていたようです。しかし、パウロは「イエスこそ私たちのかしらであり、この方に着いていなければならない。このイエス様がかしらであり、このかしらから出て、からだ全体はつながれ、結び合わされ、神によって育まれ、成長してゆくのである」と19節で言うのです。私たちの礼拝すべきお方は、「父、み子、聖霊」なる三位一体の神なのです。人や天使、自然などの神の被造物ではありません。

せっかくイエス・キリストによって罪と罪に由来する様々な束縛から解放されたのに、偽教師たちの主張はクリスチャンを「奴隷状態」に戻すことであり、肉の欲望から解放するどころか、つなぎ止めてしまう事であるとパウロは20、23節で言うのです。私たちクリスチャンは、主イエス様の十字架の贖いと復活によって罪と死の縄目から完全に解放され、自由な身にされています。人の言い伝えや考え、規則や慣習に縛られる必要はないのです。主の愛と恵みを兄弟姉妹たちと共に感謝し、共に礼拝を主にささげ、共に主と教会と隣人に心からお仕えしたいですね。御言葉への聴従と祈りから始めましょう。

週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎