大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年6月16日
今日は、蒸し暑い日でしたね。いかがお過ごしでしょうか?
主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りいたします。
今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙3章1節~11節を学びます。
使徒パウロは2章12節で「あなたがたはバプテスマを受けて彼(キリスト)と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえ
らされたのである」と言い、また3章1節で「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられる」と使徒パ
ウロがコロサイ教会の兄弟姉妹たちに命じています。「上にあるものを求めなさい」とは何でしょうか。マタイ6:33で「まず神の国と神の義とを求めなさい」と私たちはイエス様に命じ
られています。地上の、つまり人間の考えや価値観や計画を優先するのではなく、神の考えや価値観や計画を優先しなさいということだと思います。
2節に「あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」とありますが、この地上には確かに心引かれるものや慕いたくなるものがたくさんあり
、それらによく心が惑わされますが、それらはすべて有限なものであり、滅びゆくものです。しかし、上にあるもの、御国にあるものはすべて良く、無限のものであり、永遠のものです。
私たちの思い、目標、志を滅びゆく地上のものに向けるのではなく、御国へと向けてゆくことが私たちに求めておられる神様の御旨であると心に留めたいと思います。
求めたら「上から」何が与えられるのでしょうか。新しい価値基準、新しい判断の仕方、新しい知恵や力など。新しい視点が与えられます。しかし、主イエス・キリストにあって新しく生まれた私たちには「イエス・キリストという光」の中で「新しい人生の意義」と「新しい生き甲斐」が与えられるのだと思います。主イエス様の光に照らされて、自分がこの地上で生かされている間に何をなすべきかが見えて来るのです。すべてのものを「主イエスの十字架と復活の光」に照らして行く時に、それらのものが私たちにとって必要なものなのか、そうでないのかがはっきりするのです。
5節から11節には、私たちが捨てるべきものが記されています。「不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない」と5節で言われています
。これらのものは私たちの人生において神様に敵対するものであり、神の御心を成就させまいとするものであると言われています。ある神学者は、「願望や野心、自己中心主義を殺してしまいなさい」と神が言っていると解釈しています。「貪欲は偶像礼拝」とありますが、モールという神学者は「偶像礼拝とは、自己を神への奉仕にささげようとするより、自分の目的のために神を利用すること」と言っています。その他にも「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」を捨て、また「嘘を言ってはらない」、「差別をしてはいけない」と8、9、11
節で言われています。
9節から10節で「あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しい人を着たのである」と言われています。榎本保郎牧師は、「今までの生活、古い生活を脱ぎ捨てることなしに、神からの恵みにあずかることはできない。神が新しいものをくださるのは、私たちが脱ぎ捨てることの賞としてではない。ただ神が備えてくださった新しいものを私が受けるために、古いものを捨てるのである」と言っています。私たちの目の前に主の祝福が備えられています。古い自分を脱ぎ捨て、主イエス・キリストを着ましょう。その時に主イエス様と私たち一人ひとりは一つとされ、教会も一つとされます。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎