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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

テトスへの手紙1章5節から9節

2011-01-16 22:23:58 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年8月11日
残暑お見舞い申し上げます。月曜・火曜と雨が降って過ごしやすかったですが、今日は暑さがきびしいですね。その後、お元気でしょうか。
主の恵みと平安とが豊かにあるように、多忙の中にあっても健康と心と信仰が守られるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会はテトスへの手紙1章5節から9節を学びます。地中海に浮かぶクレテ島で福音伝道をしていた使徒パウロとテトスたちでありましたが、不明な理由によってパウロは島を離れる事となりました。しかし、テトスをその島に残すことにしました。それは5節にあるように、クレテ島にてやり残している働きをテトスに遂行させ、その働きを整えるためであり、クレテ島各地のクリスチャンの群れに長老を立てる任務に当たらせるためでした。一生懸命に蒔いた福音の種、また福音の芽・信仰を成長させ、クリスチャンの群れを教会へと形作るために、パウロはテトスをクレテ島へ残し、重要な働きに着かせたのです。クリスチャンの群れが教会として形作られてゆくために必要なこと、それはリーダーを立てることでした。ここには「長老」、「監督」とありますが、複数形で記されていますから、複数のリーダーをそれぞれのグループに立てる必要があったようです。リーダーが複数である理由は、グループのすべての人に配慮ができ、その中にハーモニーをつくるため、効果的な働きがチームで可能であるためと色々あります。複数牧会や牧師と執事・役員との連携は、教会を形作ってゆくためには大切なことなのです。
6節から「長老、監督=教会のリーダー」の資格について記されていますが、1テモテ3:1-7の資格とは少々違いがあります。各地の各教会によっては、状況が違うのでしょう。教会のリーダーは3つのエリアで誠実な者でなければなりません。まず家庭において、配偶者と子どもたちに対して「責められる点がないほど」誠実でなければならないと6節にあります。次に人々に対しても「責められる点がないほど」誠実でなければならないと7節にあります。「わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらない人」と自己中心で感情を制御できない人はリーダーとして主と教会に仕えることはできないのです。教会を立て上げるリーダーシップを持つ人は「旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する人」と8節にあります。家族と隣人に対して誠実なだけでなく、自分に対しても正直な人で、教会と隣人に心から仕えようとするメンタリティーの持ち主を神様は教会のリーダーとして用いられるということを学びとれます。教会のリーダーシップを完全に持ち得る者はいません。いないと思います。私には「持ち得ている」と言いきることはできません。ただ、いまは出来なくても、主の憐れみと御言葉と聖霊の働きによって造り変えられてゆきたいと願います。神様は、私たち一人ひとりにそのように願っておられるのではないでしょうか。
私たちがクリスチャンとして家族、隣人、自分に対して誠実であるためには、神の言葉である聖書に常に聞き従ってゆく必要があります。9節で教会のリーダーとなるべき人は「教えにかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない」とあります。私たちが信頼すべきは神様であり、主の御言にあります。この御言にいつも留まっていなければ、クリスチャンとして、リーダーとして、証し者として立つ事はできません。クリスチャンとして、家庭でも、職場や人々の交わりの中でも家族や友たちと誠実に向き合うためには、まず私たちが神様と正直に向き合い、心から主の言葉と日々向き合い、その言葉に忠実に聞き従ってゆかなければならないのです。その中で、神の御言によって人々を諭すことができ、誠実でない人たちに対しても彼らの誤りを鋭く指摘することができるようになります。
教会のリーダーでなくても、一人のクリスチャンとして、神に仕える者として「責められる点がない」ように、今までの不誠実さを悔い改めて、主の御言によって造り変えられましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テトスへの手紙1章1節から4節

2011-01-16 22:18:11 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年7月28日
真夏日が続きます。お元気でしょうか。主の恵みと平安とが豊かにあるように、暑さの中にあっても健康と心と信仰が守られるようにお祈りしています。

しばらくの間、テトスへの手紙を学びます。今回は、1章1節から4節を学びます。まず時代的背景を新改訳聖書・テトスへの手紙の緒論から抜粋しつつ、説明します。2年間に亘ってローマで捕らえられていた使徒パウロは、そこでエペソやコロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙を書きました。その後、パウロを訴えた者たちはカイザルへ上訴しなかったので、彼らの欠席のまま裁判は行われ、パウロは無罪となり釈放され、エペソへ行ってからテモテに牧会者としての責任を与えてそこに残し、さらにマケドニヤへ行きます。そこでテモテへの第一の手紙が書かれたと考えられています。その後、パウロはクレテに行き、そこでテトスを牧会者として立てたようです。その後にギリシャ・ニコポリへ行き、そこでこのテトスへの手紙を記したようです。その後トロアスへ行き、そこで再び捕らえられ、ローマへ護送され、獄中でテモテへの第二の手紙を書き、それから間もなくパウロは殉教したと考えられています。こういう状況から、テトスへの手紙は西暦65年頃に書かれたと考えられています。
テトスが牧会者として立てられたクレテのクリスチャンの群れは、まだ教会としては組織化されておらず、問題が色々あったようです。ですから、パウロは牧会者であるテトスを手紙によって大いに励まし、的確な指示を与え、偽教師に注意するようにと警告しました。
テトスはギリシャ人であり、パウロの伝道によって回心しました。パウロやバルナバと共にエルサレム会議にも出席していますし、第三回伝道旅行ではパウロの代理としてコリント教会へ派遣され、コリント人への第二の手紙を届け、エルサレムの貧しいクリスチャンたちのための献金をコリントで募金するような人でした。テトスという人は有能な伝道者であり、テモテと共に使徒パウロの片腕的存在であったのです。
そのテトスへ、パウロ自身が使徒として召された神の目的をまず1節から記します。パウロは、「わたしが使徒とされたのは、神に選ばれた者たちの信仰を強め、彼らに信心にかなう真理の知識を得させるため」と言っています。クリスチャンとされた兄弟姉妹たちの信仰をさらに励まし、強め、成長させること。そして神の愛と真理を十分に知ることができるようになるために、つまり御言葉による訓練のために召されたと言います。榎本保郎牧師は、「信心」とは「信仰の生活化、生活の中で信仰が生かされていく事」と言っています。私たちクリスチャンにとって大切なのは日々キリスト者として成長してゆくことです。そして自分の生活に信仰を根付かせるためには御言葉を読む習慣と祈る習慣が日々大切となります。
私たちはクリスチャンとされているのは、「偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠の命の望みに基づく」のですとパウロは2節で言います。私たちは裏切られたり、裏切ったりする弱さのある人間です。そのような人間に望みをいだくのではなく、真実なる神に望みをおき、罪の赦しと永遠の命の約束を喜び感謝しつつ歩みたいと願います。
使徒パウロは、「わたしは、わたしたちの救い主なる神(イエス・キリスト)の任命によって、この宣教をゆだねられた」と3節で使徒として召された喜びと感動を言い表しています。
私たち一人ひとりと大久保教会にもこのキリストの福音を伝達することが委ねられていることを再認識し、喜び、福音を伝えてゆきたいと願います。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

ピレモンへの手紙

2011-01-16 22:14:43 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年7月21日

今日は、都心では2年ぶりの猛暑日とのこと。本当に暑かったですね。皆さんはご機嫌いかがでしょうか。主の恵みと平安とが皆さんの上に豊かにあるように、多忙の中にあっても健康と心と信仰が守られるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会では、ピレモンへの手紙を学びます。使徒パウロのコロサイ人への手紙の結びの言葉を先週学びましたが、ローマで監禁状態にあったパウロの手紙をコロサイやエペソなど各地に届けたのは、主にある忠実な兄弟たち、テキコとオネシモでした。しかし、そのうちのオネシモは、実はピレモンという主人のもとから逃げて来た奴隷で、逃亡中のローマでパウロと出会い、イエス・キリストを救い主と信じてクリスチャンとなった経緯をもつ人でした。このオネシモをクリスチャンとしてピレモンのもとへ送り返す事になった時にしたためた手紙がピレモンへの手紙です。

まず、ピレモンとその妻アピヤ、福音のために共に戦う同志アルキポとピレモンの家の教会の人々へ挨拶をし、神と救い主の恵みと平安を祈った後、パウロはピレモンたちの忠実なる働きを神様に感謝します。ピレモンたちの愛と信仰の交わりによってどれだけ多くの人々の心が喜びに満たされ、慰められ、励まされたかをパウロたちは伝え聞いたのです。「心」という言葉は、「人間の感情の深奥の座」という意味があるそうです。ピレモンたちの家の教会が聖霊の実を豊かに結んでいたのです。私たちの教会も小さな群れですが、私たちが互いに愛し合い、主イエス様と主の御言を中心とした交わりを持つ事で、一人でも多くの人々が喜びに満たされ、慰められ、励まされるような都会の中のオアシスになれればと切に願います。小さいながらに、欠けや弱さがある中で、それでも肩の力をぬき、力まず無理せずに寄り添い、愛し合い、言葉をかけ合い、祈り合い、励まし、支え合ってゆきたいです。地道に主に仕えてゆく中で、キリストのためになされるすべての良い事が、地域に知られてゆくようにしたいと思います。

この愛と信仰に生きているピレモンにパウロは率直に一つの願いをします。それは過去にピレモンを裏切って逃げたオネシモをピレモンのもとへ送り返すから、彼の過去の過ちを許して、快く受け入れて欲しいというものでした。オネシモのことを「捕われの身で産んだわたしの子ども」とパウロは言っています。さらに「彼は以前は、あなたにとって無益な者であったが、今は、あなたにも、わたしにも、有益な者となった」とピレモンに言っています。ここには言葉遊びがあって、「オネシモ」という名は「有益」という意味なのです。あなたにとって無益であったオネシモが、クリスチャンとなって福音宣教のために有益な者となり、福音のゆえに獄中生活をしている私のために今まで忠実に仕えてくれた、そしてこれからもそうしてもらいたいが、あなたの承諾なしにはそうすべきでないと思っているとピレモンに願います。私たちも罪人であった時は無益な者でしたが、主イエス様に出会い、救い主に従う決心をしてからは主の福音と栄光のために有益な者とされました。ですから、強制されてではなく、自発的に(14節)それぞれの賜物を教会に持ち寄って、共に主と教会と地域にお仕えしたいです。

使徒パウロは、オネシモをかつての奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり人として、愛する兄弟として、私を受け入れるように彼を受け入れて欲しいとピレモンに願います。オネシモに対する世の中の人間観は「奴隷」でした。しかし、世の中の価値観だけで人を見て接したりするのではなく、「神に愛され、キリストによって罪赦された者」として見て、付き合って欲しいと願います。もしオネシモにまだ負債があるのであれば、私が代わりにそれを返済しようとまで申し出ています。ここにはオネシモとピレモンに対するパウロの愛と細やかな配慮が散りばめられています。私たちも、神様が出会わせて下さる人々を、外見や性別や年齢や教養や身分や身体などで判断するのではなく、神様に造られ、生かされ、愛されている存在として寄り添ってゆければ、互いの心は喜びに満たされ、慰められ、励まされて主の愛と赦しを受けて幸せになるのではないでしょうか。大久保教会として、またクリスチャンとして出会ってゆくすべての人に神様の恵みを証しをしてゆけるように共に祈りましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

コロサイ人への手紙4章7節~18節

2011-01-16 22:11:19 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年7月14日
主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、多忙の中にあっても健康と心と信仰が守られるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙の最後の部分、4章7節~18節を学びます。この部分は、使徒パウロのコロサイのクリスチャンたちへ手紙の結びの言葉です。まずパウロは、7節と9節で、テキコとオネシモいう忠実な兄弟たちがこの手紙をコロサイの兄弟姉妹へ届けると言っています。ローマで軟禁状態にあるパウロの手紙をコロサイやエペソなどの各地に届けたのは、忠実な兄弟、しもべ仲間でした。私たちも、主のしもべとして、忠実に主にお仕えし、福音を地域と隣人に届けたいと願います。オネシモについては、来週、ピレモンへの手紙を学びますから、その時にお話ししますが、実は彼はピレモンのもとから逃げて来た奴隷でしたが、パウロとの出会いを通してクリスチャンとなりました。

7節から14節までにはたくさんのパウロの同労者の名が記されています。テキコ、オネシモ、アリスタルコ、マルコ、ユストと呼ばれるイエス、エパフラス、ルカ、デマスです。マルコとルカは後に福音書を記した人たちですが、この同労者のリストから判る事は、パウロの伝道はチーム伝道であったことです。パウロはよく「気難しい性格な人」とか、「単独行動の好きな孤独な人」というレッテルを貼られますが、それは大きな間違いで、チーム伝道を重要視する伝道者でした。多くの同労者の助けなしに福音伝達の業はできないとよく理解していました。そして同労者たちの功績を惜しみなくたたえ、感謝をする人でした。テキコのことをパウロは「忠実に仕えている愛する兄弟」と呼び、オネシモのことを「忠実な愛する兄弟」と呼びます。大久保教会も一丸となって、チームで伝道をして行く事が主の御旨ではないかと強く感じます。限られた人だけでは大変です。それぞれの賜物を持ち寄って、主におささげし、主と教会と地域に仕えてゆきましょう。
もう一つ、このリストから判る事は、初代のクリスチャンたちは主にあるクリスチャン仲間のネットワークを持ち、そのネットワークで共に福音を伝えたということです。皆さんにもお仲間がおられると思いますが、クリスチャンの仲間はもっとも重要であり必要な仲間なのです。私たちが仲間と言う時、大学時代のサークル仲間であったり、同窓・同郷・同性という一つの枠内の仲間あったりしますが、パウロの仲間を見ると、奴隷、医者、割礼を受けたユダヤ人、異邦人とバックグラウンドの幅が実に広いのです。それはキリストの福音が奴隷であれ、自由人であれ、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、すべての人々に伝えられ、その人々が身分など関係なしにイエス様を救い主と信じることのできたという証明です。私たちには大久保教会という神の家族、主イエス様を中心とした仲間が与えられています。その仲間が与えられていることを喜び、主に感謝し、互いに仕え合い、祈り合い、支え合ってゆきましょう。また、必ずしもバプテストという枠組みにとらわれる必要はないと思います。教派、教団、教会を越えたクリスチャンの仲間を職場や様々な環境のなかで増やしましょう。そのために必要なステップは「私はクリスチャンです」と告白する事だと思います。その告白を主は祝福してくださり、新しい出会いを与え、クリスチャンネットワークを広げてくださるでしょう。ネットワークを築き、共に主の栄光のために働き、キリストの福音を伝える業に参加してゆきたいですね。
12節に、キリスト・イエスのしもべエパフラスの熱心な祈りの内容が記されています。彼の熱き願いは、コロサイの兄弟姉妹たちが「まったき人となり、神の御旨を事毎に確信して信仰に立つように」なることでした。今日、主イエス様は同じことを私たちに願っておられるのではないでしょうか。主イエス様を救い主と信じ、主に倣う者、似る者としてまったき人に変えられてゆくこと。そしてすべての事柄には神様の目的とご配慮、意味があると確信し、全幅の信頼を寄せてゆくことを私たちに求めておられるのだと思います。
「主にあって受けた務をよく果すように」と17節にあります。これはパウロからアルキポへの励ましの言葉です。この言葉を私たちへの叱咤激励の言葉として聞いてゆきたいと思います。私たち一人ひとりが「主から受けた務め」、それをもう一度思い起こし、主と教会と隣人に仕えてまいりましょう。
パウロは結びの言葉として「わたしが獄につながれていることを、覚えていてほしい」と18節で訴えます。この言葉は、「わたしのことを哀れに思って下さい」という意味ではなく、パウロと同じように福音のために迫害に苦しみ、また信仰生活の中で労苦している人々への励ましの言葉でもあります。主のご栄光のための苦しみ。隣人のための苦しみ。どんな時にも、主に信頼して、主のために働く時、主の愛と憐れみと恵みを体験するのです。救い主イエス様を信じましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

コロサイ人への手紙4章2節~6節

2011-01-16 21:05:05 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年7月7日
今日は七夕ですね。お元気ですか? 私たちは、神様の憐れみの中で、御言葉と祈りと黙想を通していつでも神様と親しく交われますから、感謝ですね。 主の恵みと平安とがあなたの上に豊かにあるように、健康が守られますようにお祈りしています。

今夜の祈祷会では、コロサイ人への手紙4章2節~6節を学びます。

使徒パウロは、私たちに対して
1)いつも信仰の目をさまし、
2)感謝の祈りをし、
3)ひたすら祈り続けなさいと
2節で勧めます。

目を覚ましていることは、「サタンの誘惑に陥らないように、心は熱しているが、肉体は弱いのです」と言われたイエス様の言葉を思い出させます。信仰の目を覚ましていると、何が神様のご配慮とお導きであって、何がサタンの誘惑であるかが判るということでしょう。信仰の目を閉じると、眠りに陥ってしまい、主の光と道が見えなくなります。信仰的に彷徨い、神様から離れることになりかねません。信仰の目を覚ましていると、神様の愛と御業をいつも拝して、心から喜ぶことができるからでしょう。

すべてのことに感謝しなさいと私たちは命じられています。それは、すべての事柄には神様のご配慮とご計画、主の目的と意味があるからです。私たちは、喜ばしい事柄には素直に神様に感謝できます。しかし、感謝できない様々な事柄にも神様のご計画があるから、主に信頼して、主に感謝しなさいと命じられています。

ひたすら祈り続ける。これは簡単な様でチャレンジングな命令です。私たちが祈りたい時とか、祈らざるを得ない時だけ祈るのではなく、時が良くても悪くてもひたすら祈る。ひたすら神様とのコミュニケーションをとってゆくことの重要さを語っているようです。「祈りは信仰の呼吸」とよく言われます。神様に心を向けて祈らないと信仰的に窒息してしまいます。またフォーサイスというイギリスの神学者は「祈らないことは最大の罪である」と言いました。サムエル記上12:23で預言者サムエルはイスラエルの民に対して「わたしはあなたがたのために祈ることを止めて、主に罪を犯すことは決してしないであろう」と言いました。

パウロは、コロサイ教会の兄弟姉妹たちに「わたしたちのためにも祈ってほしい」と3~4節で訴えています。祈りのリクエストその一は、パウロたちが伝道できるように神様が門を開いてくださるように。その二は、キリストの福音を語れるチャンスがパウロたちに与えられるように。その三は、そのチャンスが到来したら語るべきことを大胆に語れるようにということでした。コロサイ教会の兄弟姉妹たちがただ祈られる存在として存在するのではなく、教会のために、使徒たちや互いのために祈って支える存在になってほしいと訴えています。私たちの大久保教会もそのような「互いに祈り合い、支え合う」教会に形作られてゆきたいと心から願っています。祈りの課題があったら、いつでも祈りの要請ができ、心を一つに祈る、愛し合う教会に形作られてゆきたいですね。そのために「遠慮はなし」にしましょう。強がることなく、一人で無理することなく、心を合わせて共に神様に祈りましょう。私を「信仰の孫」と可愛がってくれた副田正義先生は、私への手紙をいつも「祈っています。祈って下さい」という言葉で閉じられました。信仰の大先輩が私の様な若輩者に「祈ってください」と頼むことに、先生の謙虚さ、祈りなしに主のために働けないという信仰のひた向きさを感じました。

5節で「今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい」とパウロ先生は言われます。「そとの人」とはクリスチャンでない人のことです。この人たちに主の恵みを証しすることが私たちクリスチャンに委ねられていますが、主の導きと力添えを祈りつつ、神様が与えてくださる出会いと証しのチャンス時を見極め、そして賢く用いることができるようにと励まします。神の備えてくださる時を「生かす」、きめ細やかな心配りをしつつ行動しなさいと聞こえます。

6節に「いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい」と言われています。普通の言葉ではなく、塩で味つけられた優しい言葉です。塩は「変化・変革」を表す言葉だと思います。私たちは、主イエス様という神の言葉によって現在進行形で「造り変えられている者」です。主の言葉は私たちに変化をもたらします。主の言葉を聞いても私たちに何も変化がないなら、主の言葉をしっかりと聞いていない、不従順であるということになりましょう。主の言葉は、私たちの刺々しく堅い心を柔らかく優しい心に変えてくださる力です。主の言葉に聞き従う者として、いつもやさしい言葉と思いやりのある行動をとり続けたいですね。そのために、共に祈りませんか。共に神様に、主イエス様を通して祈りましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎