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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

テサロニケ人への第一の手紙2章13節~16節

2011-01-16 22:39:27 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年10月20日
先週とは打って変わって肌寒いこの頃ですが、いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守られるようにお祈りしています。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙2章13節~16節を学びます。この手紙には神様への感謝が3回記されていて、今回の13節は1章2~5節に次ぐ神様への2回目の感謝となります。また、今回の箇所は、2章12節までのテーマ(テサロニケにおける使徒の働きとその性質について)から2章17節から始まる新しいテーマ(迫害者たちによってテサロニケから追い出された後にパウロたちがどのような行動に移ったか)への移行するつなぎとなっている箇所です。私たちの生活でも様々な場面へ移行する事柄があると思います。職場や所属が新しく変わったり、環境が変わる時にひどく不安になったり、今までの出来事や人間関係に対して不満を漏らしたりすることがあるでしょうか。使徒パウロはテーマを良い体験から悪い体験へと移行してゆくのですが、その中でもパウロは神様に感謝するのです。
使徒パウロは自分たちがテサロニケで福音の種まきを続けたことは決して無駄ではなかったと云いましたが、私たちが一生懸命に取り組んでいることが周囲の人々に理解されなかったり、その反対に非難されたりと理不尽なことをされたり云われたりすると私たちの心は折れてしまいます。しかし、パウロの心は折れませんでした。折れるどころか、ますます神様から注がれる恵みを数えて、主に信頼してゆく中で心と信仰が強くなってゆくのです。私たちの心と信仰を強める方法、それは「すべては神様から与えられている」と主の恵みに「感謝」してゆくことだと教えられます。どんな状況の中にあっても、特に試練や迫害の中にいる時にこそ主の伴いを信じ、主が与えたもうすべてを恵みと感謝することからまず始める、そこにキリスト者の真の強さがあるのだと導かれます。
2章で使徒パウロが神様に感謝したことは第一回目の感謝と重なる部分も多いのですが、テサロニケの諸教会の兄弟姉妹たちがまず「キリストに倣い」、次に「使徒に倣い」、そして今は「ユダヤにあるキリスト・イエスにある神の諸教会に倣っている」者とされていることを神様に感謝しています。これはどういうことかと申しますと、テサロニケの人々がキリストにある信仰を受け取り、兄弟姉妹たちが共に主イエス様にあって「信仰の働き」と、「愛の労苦」と、「主イエス・キリストに対する望みの忍耐」(1:2)をしつつ生きていることをパウロは感謝したのです。クリスチャンとして現代に生かされている私たちは、主イエス・キリストに日々従い、また倣う者として生き、そしてその中でキリストに似る者として変えられてゆく必要性があることが判ります。つまり、「信仰によって働き」、「愛をもって労苦し」、そして主イエスにある「望みをもって忍耐」しつつ生きてゆくことが私たちに主から求められているということでありましょう。
キリスト・イエスに似る者とされてゆく方法、それは使徒や牧師によって説かれる聖書の言葉を人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れてゆくことだと使徒パウロは13節で云います。キリストに似る者として私たちが形づくられてゆくためには、使徒や牧師の口を通して語られる宣教、説教を人の言葉としてではなく、「神の言」として受け入れて聴従してゆく必要があると教えられます。これは言い訳ではありませんが、牧師は人です。人は不完全ですから、その人だけを見ていては躓くでありましょう。ですから牧師をステレオの「スピーカー」、つまり神の言がでる「箱」と考えるのです。スピーカーは聖霊の電流が流れて始めて音を出すのです。
テサロニケ教会の兄弟姉妹たちはユダヤ人たちから迫害されるだけでなく、同胞のテサロニケ人たちからも迫害を受け、その苦しみに耐えていました。パウロたちを通して受け取ったイエス・キリストの恵み、神の愛である福音を大切にし、神様から与えられた信仰を守り続けたのです。そのことをパウロは神様に感謝したのです。私たちも試練に遭います。しかし、試練そのものに心奪われるのではなく、その中にある主の伴いと主の恵みに心を向け、主に信頼しつつ感謝してゆきましょう。主に従う者を神様は祝福し、主を欺く者に主の怒りは至るのです。信じましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙2章1節~12節

2011-01-16 22:36:27 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年10月13日

夏に舞い戻ったかのような暑い日が続きましたが、いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守られるようにお祈りしています。
チリ北部コピアポ近郊のサンホセ鉱山に閉じ込められた作業員33人の救出活動は、日本時間の13日午後に始まりました。これまでに6人が地底から生還し、地上で待ちわびた家族らとの約70日ぶりの再会を果たしています。感謝です。

今回は、テサロニケ人への第一の手紙2章1節~12節を学びます。
使徒パウロは第二回伝道旅行の際にマケドニヤに渡り、テサロニケで3週間ほどの宣教活動をします。そのことは使徒行伝17章1節から記され、一年程前に学びましたが、パウロたちは「聖書に基づいて」、キリストの受難と復活を説明し、イエスこそがキリスト/メシヤであることを論証します。その結果、大勢の人々がキリストの福音を聞き、納得したユダヤ人や信心深いギリシャ人、また女性たちがイエスを救い主キリストと信じてクリスチャンとされてゆきます。そのようにテサロニケにおいて多くの実が結ばれたのですが、他方でキリストの福音に猛反発するユダヤ人たちが出現し、彼らの嫉妬から暴動が起こされ、町全体に混乱が生じたので、福音宣教は中断され、パウロたちはベレヤ地方へ非難してゆきます。
パウロは、この2章の最初の部分で、当時の福音宣教の動機や活動の概略を記します。1節で「わたしたちがあなたがたの所に入って行ったことは、無駄ではなかった」と云います。続く2節で「それどころか、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語った」と云います。テサロニケとその前のピリピの宣教活動において、多くの苦しみと辱めを受け続けたけれども、神様から大いなる力と勇気が与えられて福音を大胆に語ることができ、ピリピとテサロニケにおいて多くが主イエスの救いの恵みに与る事ができた。自分たちの労苦は無駄ではなかったと神様に感謝します。
私たちもそれぞれに多くの労苦があります。自分を犠牲にしてでも親や子どものために一生懸命になることがあります。頑張って子育てや親の介護をします。家族を愛します。しかしそれでも、私たちの頑張りが顧みられないことがあり、反対に理解されなくて非難されたり、当たり前かの様な振る舞いや言葉を聞くとガックと肩を落とし、心が折れそうになります。それでも私たちの祈りと愛をもってなすことは無駄にはならずに、神様から新たなる力と勇気が朝毎に与えられてゆくのです。すべてを益としてくださる神様をいつも信頼し、神様に愛と忍耐と力を求めてゆきましょう。その時に神様は愛の力を豊かに注いで下さいます。

パウロは3節で「わたしたちの宣教は迷いや汚れた心から出たものではなく、騙しごとではない」と云います。私たちが神様に仕え、人に仕える時、特に家族や友人のために働く時、なにか魂胆があるでしょうか。自分だけの利益を求めてするでしょうか。いいえ、そのようなことはなく、相手のことを最優先に最大限に考えて仕えようとします。パウロも宣教をした時、いつも福音を聞く人々のことを愛し、祈りと信仰をもって語って行ったのです。「善かれ」と思ってやったことでも相手には「迷惑」と思われてしまうことも時にはあるでしょう。しかし、パウロは「わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語る」と4節で云います。私たちは人に喜ばれるために物事するのではなく、つねに「神様に喜ばれるため」に仕えてゆきたいと願います。家族や隣人のために働くことは主のために働くこと、そのことを心に刻み続けたいと願います。

福音宣教は「迷いや汚れた心からでたものではない」、また「へつらいの言葉でもなく、口実を設けて利をむさぼる行為でもない」と5節で云います。「キリストの使徒たちとしてもっと重んじられることもできたが、人からは栄誉を求めなかった」と6節で云います。一人でも多くの人が救われて、天国に喜びの賛美が響き渡り、神様の御名が誉め讃えられることだけを求めたいですね。
パウロは7-8節で「神の福音ばかりではなく、自分の命までも与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛した」とテサロニケの兄弟姉妹たちに伝えます。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とのイエス様の御声が心に響きます。主はこの言葉の前にこう言われました(ヨハネ15:12)、「わたしの戒めはこれである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。
10-12節で、パウロたちがテサロニケにおいて全力で取り組んだことが記されています。すなわち、テサロニケのキリスト者たちの前で「信心深く、正しく、責められるところがないように生活した」のは、テサロニケの兄弟姉妹たちが「御国とその栄光とに召してくださった神の御心にかなって歩くようにと勧め、励まし、また諭す」ためでした。私たちにできることは限られていますが、まず主イエスを信じ、神様の御前に正しく生かされ、人からも責められない信仰生活を送りましょう。主にあっていつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する生活が家族や隣人への最も効果的な証となるでしょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙1章

2011-01-16 22:32:43 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年10月6日

天候が不順ですが、いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守られるようにお祈りしています。
10月に入り、10年度の後期に入りました。クリスマスへ向けての準備と新年度への準備を始めてゆかねばなりません。
お祈りとご協力をお願い致します。

チリ落盤事故の救出作業はピッチがあがり、2週間以内に救出できる見通しと報道されていました。当初の予想よりも早まる救出が主の働きと感謝します。

日本では、阪神タイガースのマートン選手がイチロー選手の日本プロ野球シーズン最多安打記録を塗り替えました。彼はクリスチャンで、ヒーローインタビューのお立ち台からも神様の力の素晴らしさを証する選手です。今後の活躍に期待したいですし、トレイ・ヒルマン監督に続く主の証し人として用いられることを祈ります。

さて、今度の週末は3連休ということで遠出される方も多いと思います。お休みされる方はぜひご連絡くださいね。お祈りします。我が家では、アメリカの弟が約7年ぶりに帰国するので、再会が楽しみです。彼は10日の礼拝に出席する予定でいます。

今夜の祈祷会から、テサロニケ人への第一の手紙を学び始めます。今回は1章を学びます。パウロは第二回伝道旅行の際にマケドニヤに渡り、まずピリピで宣教をし、次にテサロニケで宣教をしました。パウロたちの伝道を通して多くのテサロニケの人々がキリストの福音を信じるようになりましたが、ユダヤ人たちのねたみを買い、暴動が起こったためにベレヤへ退きます。その後、テサロニケの兄弟姉妹のことが気にかかり、テモテを派遣するのですが、テサロニケから戻ったテモテの報告は喜ばしいものではありませんでした。ですから、パウロは彼らの信仰をまず励まし、テモテから報告されたテサロニケ教会の様々な課題に対する指導と解決を与えるために手紙を書きました。
いつものように教会の兄弟姉妹へ挨拶をした後、パウロは神への祈りの中でテサロニケの主にある兄弟姉妹たちを覚え、次のように感謝していると云います。「あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、私たちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、父なる神の御前に絶えず思い起こしている」と。パウロは手紙の冒頭からテサロニケ教会の課題に触れ、頭ごなしに叱咤することはありません。まず、いつものように祈りと喜びと感謝から入ります。主イエス・キリストに在って、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝する信仰の姿勢が表れており、私たちが見習うべき点であると思います。すべての事に対して、まず祈りと感謝を持ってゆくことを心がけ、主に助けと励ましを祈りましょう。すべては主から与えられています。

パウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹の「信仰の働き」と「愛の労苦」を主に感謝すると云っています。信仰の働きとは、信仰に根ざした働き、主イエスの僕としての働きということです。愛の労苦とは、主イエス様に対する愛に根ざした主と隣人に対する労苦という意味に捉えることができます。この信仰の働きと愛の労苦をテサロニケ教会の兄弟姉妹が共に担っている証を耳にし、主イエスに対する希望を持ちつつ主の再臨に備えている信仰生活の様子を知り、主に感謝の祈りをしているのです。この手紙はキリストの再臨を強調し、主が再び来られる時に主の御前に聖く、責められるところがなく、神様喜ばれる信仰生活をしようと励まします。3節をとおして、テサロニケ教会の兄弟姉妹が、第一コリントにもある主イエス・キリストにある「信仰と希望と愛」をもって歩んでいたことが判ります。 4節で、パウロはテサロニケ教会の兄弟姉妹は「神に愛され、選ばれている」と云います。イスラエルの民だけが神に愛され、民として選ばれているのではなく、異邦人であるテサロニケ人も救い主イエス・キリストを通して神様に愛され、神の民として選ばれている民であると確信し、神に感謝するのです。今日を生かされている私たちも同様です。私たちもイエス様を通して神様に愛され、神のために働く者として選び出されたのです。これは光栄なことであり、感謝すべき神様からの恵みです。
5節で、テサロニケ教会に福音が伝えられ、人々がイエス・キリストを救い主と信じた時、そこには4つの真実があったとパウロは云います。それらは「福音のことば」、「神の力」、「聖霊の働き」、「パウロたち宣教者の福音に対する確信」です。大久保教会が成長し、豊かに実を結ぶためには、イエス・キリストの福音、神の力、聖霊の導き、私たち教会員の堅い信仰の4つの要素が不可欠だと教えてくれます。この4つが見事に合わされる時、患難・試練にある者たちが次々と救われ、キリストに倣う者・似る者とされ、神に対する信仰が世界中に伝えられてゆきます。また、事実テサロニケで起こったように、偶像を崇拝していた者が主イエスに出会って信じた結果、真の神に礼拝をささげ、神と隣人に仕える者へと変えられてゆき、主に希望を抱く者の証が世界中へのべ伝えられているとパウロは云います。同じ様なことが大久保教会にも起こると信じ、福音に聞き、神の力に頼み、聖霊の導きに従い、祈りと信仰をもって歩んでゆきましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


テトスへの手紙3章12節から15節

2011-01-16 22:29:52 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年9月29日
いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会はテトスへの手紙3章12節から15節を学びます。

クレテ島の諸教会がキリストのからだとして形づくられてゆくために奮闘している愛弟子テトスへの手紙を閉じるにあたり、使徒パウロは最後に個人的な指示と挨拶を送ります。「テトスに代わるアルテマスかテキコをそちらに送るから、どちらかが到着したらあなたはニコポリへ急いで来なさい。」と指示するのです。ニコポリはギリシャの西海岸中央にある町です。「ニコポリで冬を越すからあなたも来なさい。そこで落ち合おう」と言うのです。パウロはローマでの軟禁が解かれ、自由の身であった事が判ります。ただその後に再度捕まって殉教したと考えられています。

それでは、パウロは何のためにテトスをニコポリへ招いたのでしょうか。その理由は聖書に記されていませんが、冬を越す数ヶ月を共に過ごし、共に祈り、テトスを励まし、教え、新しい使命を与えて伝道へと就かせようとしたのかもしれません。テトスへの手紙の後に記された2テモテ4:10に「テトスはダルマテヤに言った」とあるからです。ダルマテヤとは現在のアルバニアとモンテネグロの境の町です。パウロは、クレテ島の諸教会で頑張っていたテトスを励まし、新しい力を充電させるためにニコポリへ招いたのでしょう。私たちも一週一週を歩むためには励ましと御力の充電が必要です。教会の兄弟姉妹たちと冬を一緒に越すぐらいの交わりと御言葉による充電時間が欲しいのは山々です。祈祷会や聖書の学び会、教会学校にも出席できれば幸いですが、せめて主の日は神様の招きに応えて教会に集められ、信仰の充電がしたいと願います。主の日を守り、御言に聞くことを大切にしましょう。
13節から、テトスのもとへ手紙を届けたのはローマの法律家ゼナスと使徒行伝18章でも登場したエジプト・アレクサンドリア出身のアポロであったことが判ります。伝道旅行の途中に彼らはクレテ島のテトスの所に寄り、パウロから託された手紙を手渡したようです。ゼナスとアポロは伝道旅行に行くのだから良くしてやり、旅行に必要なものを用意して持たせてやりなさいとテトスに命じます。私たちも旅人をもてなすことは主から命じられていますが、特に伝道をしている者たちに心を配り、不自由のないようにすることが主に仕える者への愛であると教えられます。

14節で「わたしたちの仲間も、差し迫った必要に備えて、努めて良い業を励み、実を結ばぬ者とならないように、心がけるべきである」とパウロは言っています。先週学んだ8節には「『神を信じている者たちが、努めて良い業を励むことを心がけるようになるため』に主イエスの言葉を大胆に語りなさい。『これは良いことであって、人々の益となる』」と同じようにあります。日々の生活は、日用の糧を得るための働きでもありますが、主の栄光のために良い業をなし、主のために良い実を結ぶためにあることを覚え、励みたいと思います。どのように神を愛し、隣人を愛することができるかをいつも考え、祈り、その時が来たら実践できるようにしたいと思います。礼拝をささげることと神様の愛と恵みのうちに生かされていることを出会ってゆく隣人に分かち合ってゆきたいですね。

15節に「わたしたちを愛している信徒たちに、よろしく」とありますが、パウロは「私たちを愛さない者たち」、つまり偽教師や異端者、それらの影響を受けてしまっている者たちのことも頭にあったようです。主の従う時、理解されない、愛されないこともあるのです。悲しいことですが、主イエス様と神様が愛して下さっている真実と主にある兄弟姉妹が与えられていることを感謝しましょう。

「恵みが、あなたがた一同と共にあるように」という締めくくりの言葉は、テトスとクレテ島の諸教会の兄弟姉妹たち、また大久保教会の兄弟姉妹たちのための使徒パウロの祈りの言葉です。私たち一人ひとりがいつも神様の恵みの中に生かされている神の愛を感じ、感謝と喜びのうちに歩む事ができるようにとの祈りなのです。私たちの人生の一コマ一コマに主の伴いと恵みがいつもあることを覚え、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝して歩んでゆきましょう。主に感謝します。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


テトスへの手紙3章9節から11節

2011-01-16 22:27:26 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年9月22日
昨日、今日と真夏日が戻ってきました。明日と明後日は打って変わって雨模様のようですね。いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあるようにお祈りしています。

今夜の祈祷会はテトスへの手紙3章9節から11節を学びます。8節でイエス・キリストの福音は「この言葉は確実である」とのべ、この福音にクレテ島のクリスチャンたちが踏みとどまり、養われ、成長し、豊かに実を結ぶこと、つまり「努めて善い業を励むように心がけることを勧めなさい。その業が主と教会と隣人の益となるから」とパウロはテトスに命じました。キリスト・イエスの福音に生きることが善い業をなし、実を結ぶモーティベーションであると言わんばかりです。私たちをクリスチャンとならしめる力は、神様の愛と憐れみ、主イエス様の十字架の贖いと復活の力です。「健全な教え」に聞き従う時に、私たちは神様の御心にかなった者へと造り変えられてゆきます。「主を喜ぶことは私たちの力です」とネヘミヤ8:10にあるとおり、神様の愛に生かされている真実を喜び、感謝してクリスチャンとして歩み続けてゆきたいと思います。私たちは一人では弱い存在ですから、互いに励まし合い、祈り合い、支え合う主にある兄弟姉妹が必要なのです。
健全な教えを伝えるために生き、人々の益となりなさいとテトスを励ました後、「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを避けなさい。それらは無益かつ、空虚なことである」とパウロは9節でテトスに命じます。「健全な教えは有益である」が、「間違った教えは無益かつ、空虚である」と言うのです。偽教師は異端者であり、彼らの教えることはすべて益とはならず、むしろ有害であると言っているようです。1章10~16節でも同じ様なことを使徒パウロはテトスに命じましたが、1章では偽教師たちと向き合い、彼らの間違いを諭しなさいと命じたのです。しかし、3章ではそのような偽教師との関わりはいっさい持つな、彼らから離れ、近づいてきても言葉も交わすな、交わりを避けよ、彼らとの時間は無駄な事だと言うのです。米国カリフォルニア州では「スリーストライク法」という法律がり、性犯罪や麻薬犯罪で3回目に逮捕された時は「無期懲役」となる法律があります。パウロは、「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい」と命じます。「間違った教えを説く人でも神様に愛され、神様は救おうとされるのではないか、悔い改めるまで辛抱強く向き合うべきではないか」と心優しい人は考えるでしょう。2テモテ2:24-26では使徒パウロ自身も反対する者に対しては同様な柔和さを常に持つべきと考えていたようです。しかし、ここでパウロが取り上げている問題は、「クレテ島の諸教会を分裂させ破壊する者たちへの対処法」です。そのような人たちと関っていたら、教会は大きなダメージを受け、教会は病気になって「実を結ばなくなる」のです。ですから、パウロは強い言葉でそのような者たちを「異端者」と呼びます。この言葉はギリシャ語の言語では「不和にする、争いの種になる人」という意味です。
私たちはキリストにあって初めて一つのからだ・教会となり得ます。キリストによらずして、キリストにつながることなしに一つとなることはできないのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じる信仰による一致が大切です。「不和」は、教会に困惑とストレスと怒りと傷を与えますから、不和の原因をもたらす者を遠ざけるのです。イエス様もマタイ18:15~17で言っておられます。
パウロは11節で「たしかに、こういう人(異端者)たちは、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯している」と云います。このような扇動的な争いの好きな人たちは「変わらない」というのです。私たちは、主イエスの言葉によって日々変えられてゆく必要がります。変化が成長の証なのです。神様によって変えられること、変化を恐れる必要はないのです。それは「恵み」なのです。「変わらない人」は、主の御手に委ねるほかにすべはないのです。
キリストにあって一つとなることの他にもう一つ教会に大切なことは「目的・使命」にあって一つとなることです。「議論・論争に時間やエネルギーを費やすのではなく、礼拝をささげることと福音を伝えることに時間とエネルギーをもっと費やしなさい。それが人々の益となるのです」とパウロは言うのです。私たちの時間や知恵や体力を議論などの無駄なことに費やすのではなく、福音を伝えるという有益なことに使いなさいと命じているのです。神様からいただいている時間や知恵や健康、体力を私たちは何のために用いているでしょうか。「自分勝手に無駄な事に使っていないか」と問われているようですし、悔い改めへと導かれます。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎