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大久保バプテスト教会 聖書の学び

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聖書の学びを御一緒に

テサロニケ人への第一の手紙4章13節~18節

2011-01-16 22:51:40 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年12月8日
今日は一段と寒く感じましたが、いかがお過ごしでしょうか
。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにありますようにお
祈りしています。
*アドベント第二週目を過ごしています。


今夜は、テサロニケ人への第一の手紙4章13節~18節を
学びます。ここは、「眠っている人たち、つまり先に亡くなっ
たクリスチャンの兄弟姉妹たち」について使徒パウロが記す箇
所です。クリスチャンたちが亡くなった原因が何であったのか
、病気であったのか、迫害によるものなのかは記されていませ
んが、残された者たちにとって愛する者の死は大きな痛みと悲
しみを与えました。その悲しみと憂いが大きすぎて、希望を持
てなくなってしまった人も教会の中にいたのでしょう。彼らを
慰め、励ますためにパウロは手紙に記します。
パウロは、テサロニケのクリスチャンたちに「眠っている人
びとについては、無知でいてもらいたくない。また望みを持た
ない人びとのように悲しんでほしくない」と云います。「先に
亡くなったクリスチャンたちは死んだのではなく、眠っている
のだ」と云います。イエス様もご自身の親しい友が死んだ時、
「ラザロは死んだのではなく眠っている」とヨハネ11:11
で云われましたし、ヤイロの娘の時も「子は死んだのではない
、眠っているのだ」とマルコ5:39で云われました。
主イエス・キリストは、私たちの罪を贖い、私たちを永遠に
生かすためにカルバリの丘の十字架に架かって死んで下さり、
三日後に神様はイエス様を永遠に生きる者の初穂として死の淵
から甦らせました。この復活し、今も生きたもう救い主イエス
・キリストを信じる者たちは、その信仰によって義とされ、永
遠の命が約束され、その約束が生きる希望として与えられてい
ます。パウロが「無知でいてもらいたくない」と云ったのは、
神の子イエス・キリストには先に死んだ者たちを甦らせ、永遠
の命を継がせる「力」のあるお方である事を信じ続けてほしい
ということと、その主イエスは必ず再臨され、その時にキリス
トを信じて従って来た者たちは主イエスと会い、そして先に眠
った者たちと今を生かされている者たちが地上から引き上げら
れ、主の執り成しによって再会ができ、そして御国において永
遠に主を共に誉め讃える者とされると恵みでした。
教会の中にグノーシス派の異端が入り込み「肉体の甦りはな
い」とか、「グノーシス派の教えを信じない者には霊的甦りも
ない」などと間違った教えの影響が少なからずあったのであり
ましょう。パウロはそういうテサロニケ教会の兄弟姉妹の不安
を取り除き、主にある希望を持ち続けるようにと励ましたので
すが、14節で「わたしたちは主の言葉によって言う」と云っ
ています。つまり、パウロ自身の言葉にではなく、主イエスの
言葉に人びとを不安から解放し、希望を持ち続けさせる力があ
ると言うのです。
神様は私たちに「無知でいてもらいたくない」と今回云われ
ます。何に対してでしょうか? それは神の愛の力、福音の力
、強いて云えば主イエスの十字架と復活の力に対してでありま
す。御使ガブリエルはマリヤに「神には、何でもできないこと
はありません」と宣言しました。混沌とした時代に、暗闇の中
にイエス・キリストという世の光を与えて下さいました。聖霊
によってマリヤは身ごもりました。神様にできないことは何一
つありません。
「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通
る方が、もっとやさしい」と云われたイエス様に対し、人びと
は「それでは、誰が救われることができるのですか」と尋ねま
すが、イエス様は「人にはできない事も、神にはできる」と救
いは神様から、神様の力によるもの、神様の恵みであると云わ
れました。神様にはできないことはありません。
死人を復活させる力のある方は神様だけです。私たちに朽ち
ない命を与える力と愛を持たれたお方は父なる神、御子なるイ
エス、そして御霊なのです。この三位一体の神を私たちは信じ
、私たちの罪を贖い、永遠の命を約束し、唯一与えうる力のあ
るお方を私たちは信じ、神・救い主と告白し、このお方の声に
いつも聞き従ってゆく、それが大久保教会という群れです。そ
のことをいつも大切にしましょう。
私たちがクリスチャンとしてこの時代に生きてゆく上で、信
仰と希望と愛という大きな力を与えてくださる救い主イエス様
のご降誕を大久保教会に共に集って心からお祝い致しましょう

それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


テサロニケ人への第一の手紙4章9節~12節

2011-01-16 22:50:36 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年12月1日
12月に入り、コートが欠かせなくなりました。いかがお過
ごしでしょうか。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにあ
りますようにお祈りしています。
*待降節・アドベントが始まりました。今週は、世界祈祷週
間、今日の祈りの課題は、「全世界に主の福音が伝えられます
ように」です。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙4章9節~12節を学
びます。今回の短い箇所は、2つに分けることができます。9
節から10a節は、「クリスチャンの兄弟姉妹同士が今までの
ように、またこれからもますます互いに愛し合いなさい」とい
う教会内への勧めです。10b節から12節は、クリスチャン
として教会の外でどのように生活すべきかとの勧めです。
パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちに対して、「兄弟愛に
ついては、今さら書き送る必要はない。事実、マケドニア全土
にいるすべての兄弟姉妹たちに対して、兄弟愛を実行している
」と云っています。これは凄いことだなあと私は思うのです。
教会内で兄弟姉妹同士が互いに愛し合っていた。いったいどう
やって愛し合うことができたのだろうと思うのです。
愛し合いというのはどういうことでしょうか。互いに大切に
し合い、お互いの気持ちを尊重しつつも、お互いの境界線を越
えない付き合いなのでしょうか。相手のために善かれと思って
やったことが裏目に出たり、そっとしておいたほうが良いだろ
うと声をかけないと「冷たい」と云われたり、様々なことに気
を配りすぎて疲れ果ててしまうということ、教会の中でも起こ
ることです。
互いに愛し合うって、どういうことでしょう。私は、「互い
に生かし合う」ということではないかと思うのです。主イエス
様は、私たちを生かすために十字架に架かって死んで下さいま
した。友のために命を捨てること、それ以上に大きな愛はない
と主はいわれますが、友を生かすために自分を犠牲にする。そ
れをクリスチャン同士が互いにし合うことによって、互いが生
かされる。これは人間の愛(エロース、フィレオー、ストルゲ
ー)では決して結べない愛です。
ですから、ここでパウロは、教会の兄弟姉妹を愛し、互いに
愛するために神の愛(アガペー)が必要というのです。パウロ
は9節で、「あなたがたは、互いに愛し合うように神に直接教
えられており」と云います。「互いに愛し合うように神に直接
教えられている」というのはどういう意味でしょうか。「神」
とは神の霊、つまりご聖霊のことです。イエス様は弟子たちに
直接そのようにお教えになりましたが、テサロニケ教会の兄弟
姉妹たちには、ご聖霊がその働きを通して教えたのです。ガラ
テヤ人への手紙5章にもあるように、御霊の実は愛とあるよう
に、ご聖霊が直接私たちに愛を与え、また愛すること、互いに
愛し合うことを教えて下さるのです。
私たちが主イエス様の弟子である証明は、私たちが互いに愛
し合うことだと主はヨハネ13:35で云われました。ヨハネ
は、私たちが神から出た者であるという証明は、主にある兄弟
姉妹同士が愛し合うことだと1ヨハネ3:10で云っています

次に、10b節から12節で、クリスチャンとして教会の外
でどのように生活すべきかを勧めています。ここでパウロは4
つのことを強く勧めています。
一つは、「ますます」互いに愛し合うことです。愛するとい
うことは、一生かかってもマスターできる業ではありません。
ご聖霊のお導きと励ましの中で、愛する者へと変えられてゆく
ことを覚え、主イエスの言葉に聞き従い、ご聖霊の導きに従っ
てまいりましょう。
二つ目は、「努めて落ち着いた生活をする」ということです
。テサロニケ教会の兄弟姉妹たちは、主イエス様の再臨を今か
、今かと待ちわびすぎて、心落ち着いた生活ができなかったの
かもしれません。それに対してパウロは注意を促します。今の
時代は、主の再臨を待ちわびるよりも、主イエス様のことを思
うよりも、日々降り掛かって来る様々な試練や試みに心がかき
乱され、クリスチャンらしからぬ不安に満ちた生活を私たちは
送っているのではないでしょうか。
三つ目は、「自分の仕事に身を入れる」ということです。私
たちクリスチャンの使命は、神様の愛、キリストの福音を証し
することです。それを無視して世の中を良くしようと政治活動
に専念したら、本末転倒です。世の中を変えるためには、神様
が出会わしてくださる一人ひとりに神様の愛を証しすることが
ベストです。
また、自分の使命をわきまえる必要があります。主と教会と
隣人に仕え、主を礼拝することをしないで、自分のために生き
ていては、それはいずれ空しいことであることに気付きます。
四つ目は、「手ずから働きなさい」ということです。教会に
おいても、社会においても、神様から委ねられた働きを人任せ
にすることなく、主から委ねられたと喜んで献身してゆくこと
が信仰の成長、成熟につながります。私たちは、神様からそれ
ぞれに特別な賜物が与えられています。それらの賜物を持ち寄
って、主のために働くときに、私たちはキリストのからだなる
教会として組み合わされてゆきます。私たちはそれぞれ、神様
から委ねられた自分のなすべきことを忠実に成してゆきましょ
う。
そうしたら、12節にあるように、「教会の人びとに対して
クリスチャンとしての品位を保ち、また誰の世話にもならずに
生活できる」ように主が祝福してくださいます。信じて、主の
言葉に聞き従い、委ねられた業に共に励みましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


テサロニケ人への第一の手紙4章1節~8節

2011-01-16 22:48:25 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年11月24日
日に日に寒さが増しておりますが、いかがお過ごしでしょう
か。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守
られるようにお祈りしています。
*来る28日の主日から待降節・アドベントが始まります。


今夜は、テサロニケ人への第一の手紙4章1節~8節を学び
ます。使徒パウロは、テサロニケの教会への第一の手紙を閉じ
るにあたり、4章と5章を用いて、テサロニケのクリスチャン
たちが主イエス様を信じて従う者として倫理的にどのように歩
み、神を喜ばすべきかを記し、勧めています。
4章1節から3節には、その勧めの主題が記されていますが
、それは「神の御心は、あなたがたが清くなること」とパウロ
は云います。「どのように歩いて神を喜ばすべきかを私(パウ
ロ)たちから学んだように、また、今も歩いているように、ま
すます神を喜ばすように歩み続けなさい」と兄弟姉妹たちを励
まします。パウロは、テサロニケの兄弟姉妹たちが主の御前で
忠実に歩み続けることを切に願います。何故ならば、コリント
教会の場合もそうですが、罪からの解放と性的な解放がごちゃ
混ぜになり、すでに信じて救われたのだからとふしだらな事が
別に責められないで行われていたからです。
パウロは、そういうが懸念される中で「清くなる」とは第一
に、「不品行を慎むこと」と云います。これは「性的不品行を
避ける」ということです。今の時代では、援助交際や売春や不
倫を指すのでありましょう。男女の関係にも、たとえ夫婦関係
であっても、夫に対し、また妻に対する神様の御心があること
を私たちは決して忘れてはならない、男女の間柄において互い
に尊重する責任が私たちにはあります。
第二に「各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保つこと
」、また第三に「神を知らない異邦人のように情欲を欲しいま
まにしないこと」と云いますが、これは第一の「不品行を慎む
」ことをもっと詳しく述べてものであるのか、それとも新しい
勧めであるのか判断に苦しみますが、主を第一とする生活にお
いて、心も身体も清く保ち、自分の情欲や身体のためだけに用
いないように、主の御用のために用いる事を勧めた言葉に聞こ
えます。第一の勧めが男女間の関係を清く保つようにという勧
めであるならば、第二と第三の勧めは自分の心と身体を清く保
つ事を勧めた言葉であると思います。
さて、パウロは第四に、「このようなことで兄弟を踏みつけ
たり、騙したりしないこと」と云います。これは男女関係では
なく、自分の兄弟姉妹の関係において神の御前に清く歩むこと
を勧めていることであると思います。親の老後や介護の件で兄
弟中が悪くなることがあります。また、親が残した遺産を相続
する時に兄弟関係を壊滅状態に至らせることがあります。嫁姑
問題で兄弟関係が悪くなることもあります。お互いに大変辛く
悲しいことです。神様が悲しまれることでもあります。ですか
ら、兄弟関係においてもお互いに清くフェアであることが神様
の御心であります。相手を「踏みつけたり、騙したり」と私た
ちが加害者にならぬようにとの言葉であるようにも聞こえます
。私たちの国籍は天にあり、宝は天にあることを信じ、この地
上のものに捕われ、固執しないようにお互いに気をつけましょ
う。天に宝を積むようにこの地上で忠実に働く者に神様は豊か
に報いて下さるのです。
救い主イエス・キリストを通して神が私たちを救って下さり
、主に仕える者として召してくださったのは、私たちが「汚れ
たことをするためではなく、清くなるためである」とパウロは
7節で云います。永遠の命が与えられて、神のご臨在の中で永
遠に生かされるためには、汚れたままでは御国には入れて頂け
ないのです。
パウロは、今回のテサロニケの兄弟姉妹たちに対する勧めは
「警告」であると云います。厳しい言葉です。しかし、私たち
が主の御前に清く歩み、神の喜ばれる道を歩むためには、優し
く柔らかい言葉だけでなく、厳しい堅い言葉が必要なのです。
耳当たりの良い言葉だけではクリスチャンとしての成長はない
のです。8節でパウロは、「これらの警告を拒む者は、人を拒
むのではなく、聖霊をあなたがたの心に賜る神を拒むのである
」と云います。いつも悔い改めた心をもって、謙って主の御言
葉に聴き従う者とされてゆきたいと願います。
「聖霊をあなたがたの心に賜る」とありますように、私たち
が清くなるために神様はご聖霊を私たちにくださり、神の霊で
あるご聖霊が私たちの心をその宮、住まいとしてくださって私
たちを励まし、心を清いものに造り変えようとしていることを
再び覚え、ご聖霊の力強きお導きのもとに主の御心にかなった
日々の生活を歩ませていただきましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


テサロニケ人への第一の手紙3章9節~13節

2011-01-16 22:46:52 | 聖書
大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年11月17日
月曜から冬の気候になっています。その後、いかがお過ごし
でしょうか。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにあり、
健康が守られるようにお祈りしています。

今夜は、テサロニケ人への第一の手紙3章9節~13節を学
びます。使徒パウロはこの手紙の1:2-5と2:13で2度
にわたって神様にテサロニケの兄弟姉妹たちを覚えて感謝して
いますが、今回の9節に最後の三度目の感謝が記されています
。パウロは、「ほんとうに、わたしたちの神の御前で、あなた
がたのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささ
げたらよいだろうか」と感謝します。感謝しても感謝しきれな
いほどのパウロの喜びがここに表されています。神様が自分と
テサロニケの兄弟姉妹と出会わせ、また主にある交わりをさせ
て下さった神様の愛と恵みを心から感謝しています。神様から
頂戴する大きな恵みにどのように御応えしていったら良いのだ
ろうか、主の恵みに対して充分にお返しはできない、どうした
ら主の恵みに応答できるのだろうとテサロニケの兄弟姉妹と祈
りを共に合わせようとしているように伝わってきます。私たち
は数えきれない程の恵みを主から受けて生かされていますが、
その恵みに返礼できる力は私たちにはありません。ただ、主か
ら受ける恵みを喜び、感謝し、主に信頼して生きてゆく事が求
められていることだと示されます。主への感謝を共にささげる
時と場が主日礼拝です。主の日を大切にし、主に礼拝をおささ
げ致しましょう。
10節でパウロは「わたしたちは、あなたがたの顔を見、あ
なたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに
願っている」と神様への願いを記します。この願いにはパウロ
たちの誠実さが表れています。まず、「日夜しきりに」とあり
ますが、これは「絶え間なく」という意味よりも、「祈りの機
会がある毎」に同労者と共に祈っているという意味です。私た
ちも聖霊によって祈ることへと導かれた時は、それが帰宅中の
電車の中であっても、仕事中であっても、短く主に祈り、主の
伴いと励まし、導きを求めることを躊躇しないようにしたいで
すね。
パウロが願った2つとは、1)テサロニケの兄弟姉妹の顔を
見たいことと、2)再会して兄弟姉妹の信仰の足りない部分を
補いたいということでした。パウロとテサロニケの兄弟姉妹た
ちは、お互いに再会したいと共有の願いがあり、再会すること
を心待ちにしていました。どうしても再会したかったのです。
パウロは再会した時に「兄弟姉妹の信仰の足りない部分を補
いたい」と言っていますが、このコメントに対してパウロを不
信に思う必要はありません。私たちはとかく「信仰の足りない
」という部分に目が行ってしまって、「パウロは上から目線で
ものを言っている」と感じやすいですが、そうでは決してあり
ません。兄弟姉妹たちの信仰が弱いとか、至らないとか、信心
深くないといっているのではなく、クリスチャンとしてこれか
らもまだまだ成長し、成熟することができるのだから、主に喜
ばれる者として成長し続け、主に従う者として強くなることを
助けたいと言っているのです。私たち大久保教会も成長の過程
にある教会であり、クリスチャンである私たちも主に喜ばれ、
主のために仕える者として成長する過程にあります。大久保教
会というキリストのからだが立て上げられ続けてゆくためには
、内側の信仰の一致と外側からの協力が不可欠です。私たちの
教会が整えられ、より一層成長し、主の喜ばれる礼拝をささげ
、多くの実を結ぶためには、外部からの手助けが必要になって
来る時もあるのです。大久保教会は今、そのような岐路に立た
されていると私は牧師として強く感じているのです。どうぞ私
たちの教会が主の愛と恵みの力とによって、御心のうちに整え
られて行くようにお祈りください。
11節から13節で、パウロは神様へお祈りし、3つのこと
を願ったことが記されています。「どうか、主がテサロニケへ
の道を開いて下さるように」、「どうか、テサロニケ教会の兄
弟姉妹の相互の愛を主が豊かに増し加えて下さるように」、そ
して主イエス様が再臨される時、「どうか、テサロニケ教会の
兄弟姉妹たちが神の御前に心強く、清く、責められるところの
ない忠実な僕としてくださるように」と祈ります。大久保教会
の祈りは、「どうか主が大久保教会の進むべき道を開いて下さ
るように」、「どうか私たちの相互の愛を主が豊かに増して下
さるように」、そして「どうか私たちが主の忠実な僕となり、
主に委ねられた使命に生き、豊かに聖霊の9つの実を結ぶ事が
できるように」、共にお祈り頂けますでしょうか。心を一つに
祈りましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎

テサロニケ人への第一の手紙3章1節~8節

2011-01-16 22:42:51 | 聖書

大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年11月3日
今日は文化の日のお休みでしたが、いかがお過ごしでしょう
か。皆さんの上に、主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守
られるようにお祈りしています。


今夜は、テサロニケ人への第一の手紙3章1節~8節を学び
ます。テサロニケに残してきた現地のクリスチャンたちが迫害
され、信仰が脅かされていないかと心配であった使徒パウロが
テモテをテサロニケへ派遣したことが記されていますが、その
テモテがテサロニケから戻ってきて現地の様子を報告してくれ
た後に、この手紙はパウロの大きな喜びと主への感謝をもって
記されていることを覚えたいです。
さて、テモテはパウロの愛弟子ですが、パウロはテモテを「
私たちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者」とテサ
ロニケの兄弟姉妹に紹介しています。この言葉にパウロのテモ
テに対する信任の厚さが表されています。私たち大久保教会の
兄弟姉妹も、主イエス様によって救われ、福音を伝える同労者
として立てられ、派遣されている存在であることをいつも心に
覚えたいと思います。福音宣教は、パウロやテモテ、有名伝道
者や宣教師などの特定の人だけに委ねられている働きではなく
、ごく普通の私たちが、私たちと生活を共にしているごく普通
の隣人に神様の愛、キリストの福音を証しするために生かされ
ている働きである事を覚え、そのように働く時、社会と地域が
聖霊と神の愛の力で変えられてゆくことを信じましょう。
パウロにとって大切な愛弟子を迫害者の多いテサロニケに遣
わすということは、それ程までにパウロはテサロニケの兄弟姉
妹たちを大切に思っていたということの証明です。大切な人の
ために私たちの大切なものを神に祈りつつ、主に委ねつつささ
げてゆくことが愛するということで、主イエス様はヨハネ15
:13で「人がその友のために自分の命を捨てること、これよ
りも大きな愛はない」と云われ、その直前の12節で「わたし
の戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合いなさい」とお命じになられました
。私たち大久保教会は、この新宿・大久保の地に立てられ、遣
わされている教会としてこの地域の人々の救いのために何をさ
さげることができるでしょうか。ご一緒に御言葉に聴き、共に
祈り、そして示される主の言葉に信仰をもって共に従いましょ
う。
さて、パウロが危惧したことは、5節にあるように、テサロ
ニケのクリスチャンの信仰を「試みる者たち」が兄弟姉妹たち
を試み、その心に信仰がくじけてしまい、パウロたちの福音の
業が無駄にならないかということでした。そこで、テモテに委
ねられた使命は、テサロニケ教会の兄弟姉妹たちの「信仰を強
め、患難の中にあって、動揺する者が一人もないように励ます
」ことでした。
テモテはその使命を忠実に遂行し、現地で兄弟姉妹たちの信
仰を強め、励ました後、パウロのもとに帰って来て、テサロニ
ケの兄弟姉妹たちが信仰をしっかり守り続けていると報告をし
ました。パウロもそれを聞いて喜び、主に感謝しましたが、テ
サロニケ教会での手紙の中で「私たちは患難に会うように定め
られているのである」と云うのです。このパウロ言葉は、テサ
ロニケの兄弟姉妹たちの信仰をむしろ弱め、動揺させ、失望さ
せてしまうような逆効果な言葉に聞こえます。なぜパウロはこ
のように云ったのでしょうか。
パウロは「患難はこれからも続くでしょう。何故なら主がそ
のように計画されているからです。それは患難を通して私たち
の信仰を益々強めるためです。主の僕として造り変えるためで
す。しかし患難の中にあっても必ず主が共にいて下さるから頑
張りなさい」との励ましであると思うのです。私たちの人生も
試練や患難がこれからもあるでしょう。しかし、私たちが覚え
なければならない事は、すべての出来事・事柄には主の御旨と
ご計画の中にあり、主の目的があるということです。
患難にあい、自分ではどうすることもできなくなってしまっ
た時に、近くに伴ってくださる主イエス様の存在を認めます。
自分の力に自信を持っている間、あるいは主以外に頼っている
間は、主の臨在と愛に気付かずに生きてしまうからでしょう。
しかし、パウロたちが不在でもテサロニケの兄弟姉妹たちは
主イエス様のご臨在、神の豊かな愛とお守りを感じ、主への愛
と信頼の中で信仰を守って歩んでいること、また彼らがパウロ
をその働きと健康をいつも覚えて祈ってくれ、再会を待ちわび
ているとテモテから報告を受けたパウロは大いに喜び、安心し
ます。パウロたちも患難の中に置かれていましたから、その報
告はパウロの大きな慰めになったと7節で云って、テサロニケ
の兄弟姉妹たちに感謝しています。
8節で「あなたがたが主にあって堅く立ってくれているなら
、私たちはいま生きることになる」とパウロは云っています。
私たちにも試練の中で心折れそうになる時があります。しかし
、主イエス様を救い主と信じて、信仰に踏みとどまるならば、
私たち一人ひとりの存在が誰かの慰め、励ましになると云われ
て励まされているのです。これは何と幸いなことでしょうか。
これだけでも私たちが生かされている意味と価値が、私たちの
命と信仰にあります。喜び、祈り、感謝して生きましょう。
それではまた。週の後半の日々も主の導きとお守りがあるよ
うにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎


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