大久保教会の兄弟姉妹へ 2010年10月20日
先週とは打って変わって肌寒いこの頃ですが、いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守られるようにお祈りしています。
今夜は、テサロニケ人への第一の手紙2章13節~16節を学びます。この手紙には神様への感謝が3回記されていて、今回の13節は1章2~5節に次ぐ神様への2回目の感謝となります。また、今回の箇所は、2章12節までのテーマ(テサロニケにおける使徒の働きとその性質について)から2章17節から始まる新しいテーマ(迫害者たちによってテサロニケから追い出された後にパウロたちがどのような行動に移ったか)への移行するつなぎとなっている箇所です。私たちの生活でも様々な場面へ移行する事柄があると思います。職場や所属が新しく変わったり、環境が変わる時にひどく不安になったり、今までの出来事や人間関係に対して不満を漏らしたりすることがあるでしょうか。使徒パウロはテーマを良い体験から悪い体験へと移行してゆくのですが、その中でもパウロは神様に感謝するのです。
使徒パウロは自分たちがテサロニケで福音の種まきを続けたことは決して無駄ではなかったと云いましたが、私たちが一生懸命に取り組んでいることが周囲の人々に理解されなかったり、その反対に非難されたりと理不尽なことをされたり云われたりすると私たちの心は折れてしまいます。しかし、パウロの心は折れませんでした。折れるどころか、ますます神様から注がれる恵みを数えて、主に信頼してゆく中で心と信仰が強くなってゆくのです。私たちの心と信仰を強める方法、それは「すべては神様から与えられている」と主の恵みに「感謝」してゆくことだと教えられます。どんな状況の中にあっても、特に試練や迫害の中にいる時にこそ主の伴いを信じ、主が与えたもうすべてを恵みと感謝することからまず始める、そこにキリスト者の真の強さがあるのだと導かれます。
2章で使徒パウロが神様に感謝したことは第一回目の感謝と重なる部分も多いのですが、テサロニケの諸教会の兄弟姉妹たちがまず「キリストに倣い」、次に「使徒に倣い」、そして今は「ユダヤにあるキリスト・イエスにある神の諸教会に倣っている」者とされていることを神様に感謝しています。これはどういうことかと申しますと、テサロニケの人々がキリストにある信仰を受け取り、兄弟姉妹たちが共に主イエス様にあって「信仰の働き」と、「愛の労苦」と、「主イエス・キリストに対する望みの忍耐」(1:2)をしつつ生きていることをパウロは感謝したのです。クリスチャンとして現代に生かされている私たちは、主イエス・キリストに日々従い、また倣う者として生き、そしてその中でキリストに似る者として変えられてゆく必要性があることが判ります。つまり、「信仰によって働き」、「愛をもって労苦し」、そして主イエスにある「望みをもって忍耐」しつつ生きてゆくことが私たちに主から求められているということでありましょう。
キリスト・イエスに似る者とされてゆく方法、それは使徒や牧師によって説かれる聖書の言葉を人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れてゆくことだと使徒パウロは13節で云います。キリストに似る者として私たちが形づくられてゆくためには、使徒や牧師の口を通して語られる宣教、説教を人の言葉としてではなく、「神の言」として受け入れて聴従してゆく必要があると教えられます。これは言い訳ではありませんが、牧師は人です。人は不完全ですから、その人だけを見ていては躓くでありましょう。ですから牧師をステレオの「スピーカー」、つまり神の言がでる「箱」と考えるのです。スピーカーは聖霊の電流が流れて始めて音を出すのです。
テサロニケ教会の兄弟姉妹たちはユダヤ人たちから迫害されるだけでなく、同胞のテサロニケ人たちからも迫害を受け、その苦しみに耐えていました。パウロたちを通して受け取ったイエス・キリストの恵み、神の愛である福音を大切にし、神様から与えられた信仰を守り続けたのです。そのことをパウロは神様に感謝したのです。私たちも試練に遭います。しかし、試練そのものに心奪われるのではなく、その中にある主の伴いと主の恵みに心を向け、主に信頼しつつ感謝してゆきましょう。主に従う者を神様は祝福し、主を欺く者に主の怒りは至るのです。信じましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎
先週とは打って変わって肌寒いこの頃ですが、いかがお過ごしですか。主の恵みと平安とが豊かにあり、健康が守られるようにお祈りしています。
今夜は、テサロニケ人への第一の手紙2章13節~16節を学びます。この手紙には神様への感謝が3回記されていて、今回の13節は1章2~5節に次ぐ神様への2回目の感謝となります。また、今回の箇所は、2章12節までのテーマ(テサロニケにおける使徒の働きとその性質について)から2章17節から始まる新しいテーマ(迫害者たちによってテサロニケから追い出された後にパウロたちがどのような行動に移ったか)への移行するつなぎとなっている箇所です。私たちの生活でも様々な場面へ移行する事柄があると思います。職場や所属が新しく変わったり、環境が変わる時にひどく不安になったり、今までの出来事や人間関係に対して不満を漏らしたりすることがあるでしょうか。使徒パウロはテーマを良い体験から悪い体験へと移行してゆくのですが、その中でもパウロは神様に感謝するのです。
使徒パウロは自分たちがテサロニケで福音の種まきを続けたことは決して無駄ではなかったと云いましたが、私たちが一生懸命に取り組んでいることが周囲の人々に理解されなかったり、その反対に非難されたりと理不尽なことをされたり云われたりすると私たちの心は折れてしまいます。しかし、パウロの心は折れませんでした。折れるどころか、ますます神様から注がれる恵みを数えて、主に信頼してゆく中で心と信仰が強くなってゆくのです。私たちの心と信仰を強める方法、それは「すべては神様から与えられている」と主の恵みに「感謝」してゆくことだと教えられます。どんな状況の中にあっても、特に試練や迫害の中にいる時にこそ主の伴いを信じ、主が与えたもうすべてを恵みと感謝することからまず始める、そこにキリスト者の真の強さがあるのだと導かれます。
2章で使徒パウロが神様に感謝したことは第一回目の感謝と重なる部分も多いのですが、テサロニケの諸教会の兄弟姉妹たちがまず「キリストに倣い」、次に「使徒に倣い」、そして今は「ユダヤにあるキリスト・イエスにある神の諸教会に倣っている」者とされていることを神様に感謝しています。これはどういうことかと申しますと、テサロニケの人々がキリストにある信仰を受け取り、兄弟姉妹たちが共に主イエス様にあって「信仰の働き」と、「愛の労苦」と、「主イエス・キリストに対する望みの忍耐」(1:2)をしつつ生きていることをパウロは感謝したのです。クリスチャンとして現代に生かされている私たちは、主イエス・キリストに日々従い、また倣う者として生き、そしてその中でキリストに似る者として変えられてゆく必要性があることが判ります。つまり、「信仰によって働き」、「愛をもって労苦し」、そして主イエスにある「望みをもって忍耐」しつつ生きてゆくことが私たちに主から求められているということでありましょう。
キリスト・イエスに似る者とされてゆく方法、それは使徒や牧師によって説かれる聖書の言葉を人間の言葉としてではなく、神の言として受け入れてゆくことだと使徒パウロは13節で云います。キリストに似る者として私たちが形づくられてゆくためには、使徒や牧師の口を通して語られる宣教、説教を人の言葉としてではなく、「神の言」として受け入れて聴従してゆく必要があると教えられます。これは言い訳ではありませんが、牧師は人です。人は不完全ですから、その人だけを見ていては躓くでありましょう。ですから牧師をステレオの「スピーカー」、つまり神の言がでる「箱」と考えるのです。スピーカーは聖霊の電流が流れて始めて音を出すのです。
テサロニケ教会の兄弟姉妹たちはユダヤ人たちから迫害されるだけでなく、同胞のテサロニケ人たちからも迫害を受け、その苦しみに耐えていました。パウロたちを通して受け取ったイエス・キリストの恵み、神の愛である福音を大切にし、神様から与えられた信仰を守り続けたのです。そのことをパウロは神様に感謝したのです。私たちも試練に遭います。しかし、試練そのものに心奪われるのではなく、その中にある主の伴いと主の恵みに心を向け、主に信頼しつつ感謝してゆきましょう。主に従う者を神様は祝福し、主を欺く者に主の怒りは至るのです。信じましょう。
週の後半の日々も主の導きとお守りがあるようにお祈り致します。
主に在りて
大久保教会牧師 河野信一郎