がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

目次

2022年12月31日 | 目次
目次

はじめに


The Oak Tree (原作) 
「ナラの木」高槻訳
「ナラの木」こども用
「ナラの木」地方訳
  盛岡ことばの「ナラの木」を聞く こちら 素晴らしいです。ぜひ聞いて見てください。
これまで届いたところ(地図)
 東北地方
 関東・中部地方
 近畿・中四国・九州地方
 海外


ナラの木


絵本 ナラの木(鈴木直)
お話 強いナラの木(高槻成紀)
 大きなナラの木(高槻成紀)

 「ナラの木のうた:震災の復興を願って」高槻成紀 
6年目(2017年3月11日)
こちら
どういうことでしょう 2018.6.7 こちら
8年目 2019.3.11 こちら
森の祈り C. W. ニコル作、高槻成紀訳 2020.9.14
今日の歩み
仲間の声

  スリランカの子供たちからの手紙 2011.7.26
  スリランカの子供たちからの手紙 2011.10.8
  詩 さくら ウダヤニ・ヴェラシンハ 
  ゾウの詩 ウダヤニ・ヴェラシンハ

エッセー

放送
  知花くららのPrecious Life(東京FM)
  私も一言!(NHK第一)
 
ギャラリー
資料





森の祈り

2020年09月14日 | 目次
2020年4月3日、私は不思議な夢をみました。夢の中で私は学生に戻っていました。実は私は東北大学でラグビーをしていました。田口先生という素晴らしい人格の人が監督で、お医者さんでした。グランドにいる私に監督が
「パンとはこうやって蹴るんだ」
といってゴールポストに向かって高いキックをしました。その時、監督がニコルさんになっていたのです。どちらも大柄でお腹が出ていたので、重なったのかもしれません。純粋で植物や子供が好きなところも似ています。何れにしても、私はニコルさんが大きく蹴ったラグビーボールに行方を目で追いかけていました。
 カミさんと車で移動しながらその夢の話をしました。

 驚いたことに、その日にニコルさんが永眠したことを知りました。カミさんは驚いてニコルさんの魂が来たのだと言いましたが、私は科学者ですから、夢枕は信じるわけにはいきません。全くの偶然が起きたとしか言いようがありませんが、しかし不思議なことではあります。

 そのニコルさんは優しい人だから、動物研究者の私に向かってはなるべく動物の話をするようにしてくれました。でも私は特定の動物も好きではありますが、それ以上に動物と植物が繋がって生きていることにそれ以上に心を惹かれてきました。ニコルさんは2019年の6月に「森の祈り」という詩を書いていました。その詩には「ナラの木」に通じるものがあります。詩のはじめは根で始まります。それでわかったのは、ニコルさんも動物は好きだが、一番惹かれていたのは樹木であり、森であったということです。

 その詩を訳してみました。

森の祈り

我一本(ひともと)の樹になりたし
暗き土中に 広く 深く根を張り
土に抱かれ この星を抱く樹に

我一本の幹になりたし
歳月と星霜を年輪とし
高き 直(す)ぐき 強き木柱(きばしら)に

我一本の枝になりたし
光を求め 風に揺れ
天に祈りを捧ぐ枝に

我一片(ひとひら)の葉になりたし
春より秋には 瑞々しく 青く
緑陰を与え 涼やかに息づき 陽光と戯れ
やがて枯葉となりて舞ひ落ちむ
森の土へと還らむために

我なりたし どんぐりに
木の実に ベリーに 果実に
されば生けるものに糧(かて)を分かち 
種子を拡げむ

ああ 我らひとつの森にならむ
おのおのの強さと 違ひを貴(たっと)び
砂漠に緑を戻し 
我らが尊きこの星を潤(うるほ)さむ

我らに樹を植えさしめよ
この大地に そして 我らが心に



2019年6月 C. W. ニコル
(訳:高槻成紀)


Let me be a tree
With roots spread wide
And deep in the darkness
Held unto Earth
Holding earth

Let me be a trunk
Tall, straight and strong
A timber pillar
Ringed in years and seasons

Let me be a branch
Reaching for the light
Swaying in the wind
Praying to the heavens

Let me be a leaf
Fresh and green
Giving shade and cooling breath
Shimmering in sunlight
From spring to autumn
Then dancing down in delicate death
To rejoin the forest floor

Let me be an acorn
A nut, a berry, a fruit
Sharing food and spreading seeds

Let us be a forest
Embrace our strengths and differences
Turn back the desert
Nurture our precious planet

Let us plant trees
In the ground
And in our hearts

C. W. Nicol
June 2019





アーカイブ 2013(2)

2011年02月19日 | 目次
12月20日 今朝の新聞をみると「政府、復興加速へ方針転換」(朝日新聞)とあります。なんだか意味がよくわかりませんが、内容を見ると復帰がむずかしいと判断されたが、それを発表すると原発再稼働との整合性がないから、あいまいにしているというようなことのようです。あれから1000日が経ちました。私自身恥じるところがありますが、やはり時間が人の心理に与える影響はある。被災者支援の気持ちがあるかないかといえば、誰でも「ある」とはいうものの、2年前と同じ力を維持しているかと問われて「はい」と言える人がどれだけいるでしょう。
 人の感情は時とともに静まるものです。そうでなければ人は苦しくて生きていけないから、そういう性質があることは救いでもあります。そうであればこそ、息子を戦死させた母親が戦後を生きてゆくことができたのだと思います。私たちは東電の不誠実さや犯罪性にあれほど義憤を感じていたのに、時間とともにそれが緩和され、鈍化してゆく事実を認めないわけにはいきません。これはよくないことです。
 そして思うのは為政者はその人の心理を確かに知っていて、利用するということです。よくないことは事実だ、でもそのうち民は忘れてゆくものだ。原爆を否定していた日本人がいつのまにか原発大国に住んでいるという大矛盾はその好例です。福島での悲劇―阿武隈の麗しい里山に人が住めなくなったという、ありえない理不尽―を、どこか知らない土地で、ずっと昔に起きたことでもあるかのように風化させることだってありえるし、事実、今回の政策の方針転換も、その国民の心理の変化を待っていたと思えるし、マスコミの扱いも小さいといわなくてはなりません。
 福島の皆さんの悲しみを本当の意味で共有することはできませんが、そのことを思いやること、それをしなくなる自分を恥ずかしく感じる心だけは失いたくないと思います。

11月25日 小笠原に新しい島ができるかもしれないと報じられました。そのことについて我が国の官房長官は笑いながら「領海が広がってよろこんでいる」という意味の発言をしていました。一国の政治家の思わぬ発言から、その人の政治感覚がも漏れ伝わることがあります。領土問題が懸案であることタイミングにそういうことを思うという部分があるかもしれないが、あまりにも問題の所在の捉え方が違う。このことは領海が500m広がる吉報などではなく、日本の地下で大きな地殻変動が起きていることの明白なメッセージです。台風の雨程度で汚染水が漏れると右往左往しているが、大きな地震があれば大量の高濃度汚染水が流れ出ることを抑制ことはまったくできません。そういう日が近づいている、関東平野に大地震が起きる可能性が相当大きくなっていることの予兆ではないかととらえるのが、ごく常識的な政治バランスであるはずです。官房長官というのはスポークスマンです。どの国でもテレビでの暴露性の大きさを考えて説得力のある人材を選んでいます。菅氏の容貌や物言いについての評価はいろいろでしょうが、私の印象では、スポークスマンとしてはもう少し明るく主張の明快な人材を期待したい。少なくとも政治家としてバランスある発言ができる人のほうが、このテレビの影響力が大きい時代には「国益」につながると思います。

11月24日 お詫びとお知らせ 私の不注意で8月に峰不二子さんによる「ナラの木」の長崎ことば訳が届いてたことに気づかないでいました。申し訳ありませんでした。

11月24日 私の研究室ではいま福島のイノシシが何を食べているかを分析しています。私の気持ちの中には、この分析を通じて、野生動物になりかわって、フクシマ原発問題は日本社会が被害者ではなく、加害者なのだということを伝えたいという気持ちがあります。そのことの認識と反省なしに日本の未来はないと思うからです。もっと読む

11月4日 昨夜はテレビに釘付け、最後のシーンでは涙が出そうになりました。
 時間は昭和44年に遡りました。もっと読む


10月30日 あれだけ暑かった夏が過ぎ、肌寒いと感じることもある季節になりました。まことに我が国は季節の明瞭な国です。そして雨のよく降る国です。今年はとくに伊豆大島が大被害を受け、犠牲者も出てしまいました。規模の程度は違っても各地でたいへんなことが起きました。過去数年を遡って被害地を地図上の落とせば、列島すべてが被災地で被われるはずです。東日本大震災は1000年に一度のレベルだったかもしれませんが、台風は毎年のことです。その常襲的な台風に対してさえ、福島第一原発は対応できていません。そして金魚すくいでもするような子供だましな工事をしては、汚染水が漏れてしまったなどと言っています。グランドデザインも科学的な予測もなく、場当たりな対応をするばかりです。もっと読む
 


10月26日 「動物を守りたい君へ」が岩波ジュニア新書から出版され、少しずつ読後感想も届くようになりました。その中で「ナラの木」は紹介できないことになったのですが、私がこの詩にであったときのこと、何かに打たれたように日本語にできた不思議な体験、それがこのブログを通じて広がったことなどを紹介し、詩の概要、地方訳のすばらしさなどを記述することはできました。本全体のメッセージは動物の命をどう考えるべきか、生き物のつながりのすばらしさ、そして私たちは自然に対して謙虚に生きなければならないということです。そのことを伝えるために東日本大震災のことも書きました。




10月16日 大きな台風が来ました。福島原発に大雨が降って、汚染水の問題があるようです。実に心もとないことで、とても「管理下にある」などといえるものではありません。たまたま基準値以下だから排出したなどといっているが、では基準値以上だったらどうしたのか。そもそも線量は誰が測定したのか。私は基準値以下ということ自体をまったく信じていません。
 こんな子供だましのようなことでは大量の高濃度汚染水が太平洋を汚染するのは時間の問題だと思います。日本列島は本当に災害列島です。それは人間が立ち向かって押さえ込むことなどとてもできるものではありません。災害があることを前提に、危険を回避しながら生きてゆくしかないのです。ただちに廃炉です。再稼働などありえないことです。


10月10日 目次に紹介した岩波ジュニア新書ですが、10月に入ってからホールマーク社から掲載を許可しないという連絡があり、残念ながら訳は紹介できないことになりました。がっかりしましたが、相手のあることでしかたがありません。一度は許可が出ていたので、ちょっとがっかりしています。版権などでややこしいことがあるのだと思います。「ナラの木」に教えてもらった不屈の精神で受け止めることにします。それでもこの詩との出会い、方言のこと、詩のもつ魂のことなどは紹介しました。これにともない、目次に書いた内容を改めました。

9月15日 懸念していることのひとつが現実に起きているようです。台風18号により、福島原発の汚染水タンクから汚染水が漏洩しているらしいです。この程度の台風は今後7年間、何度もあるはずです。数十年に一度といっているのは京都あたりのことで、福島は風雨が弱いほうのはずです。それで汚染水が漏れるのだから、今後、台風が直撃することはいくらでもあるでしょう。地震と台風が同時に襲うことだってあるでしょう。今からでもよい、オリンピックは返上したほうがよい。東京が自慢する貯金は福島のために使ったほうがよい。

9月14日 岩波書店から「チェルノブイリ被害の全貌」が出版されていたことを迂闊にも最近になって知りました。それを読んで戦慄を覚えました。20年経っても健康被害は収まるどころか増え続けていて、とくに子供が苦しんでいるそうです。旧ソ連の当局はこの事故の恐ろしさを知ったがゆえに、情報を機密にすべく厳命を出し、医学データの改ざんがおこなわれました。そのこんなん亜状況に立ち向かい、信頼できるデータを読み取り、集大成した報告書が公表され、訳されたのです。それによると、事故前にほとんどの子供が健康だったのに、今では健康な子供は20%もいないのだそうです。とくに甲状腺がんが増え、先天性奇形率も数倍に増えています。罪のない子供たちを一基の発電所事故が不幸に陥れたのです。日本という社会はその惨事を知りながら原発依存を強めてきてしまったのです。フクシマの事故はチェルノブイリと同じレベル7であり、日本の子供のほうが安全だという根拠は何もないのです。もっと読む

私はレベル7と聞いたときには説明があって認識もしたのだろうが、その後忘れていたのか、原発事故のレベルは10まであって、その7番目くらいに思っていた。ところがレベル7は最も高いレベルで「深刻」とされていることを改めて知った。これ以上の危険はないということだ。


9月14日 「東電にはまかせておけない」として汚染水対策に政府が乗り出したことを、私は肯定的にとらえていました。それほどの大事だと考えるからです。それほど東電はひどい企業だと思っていたからです。ところがここに来ておかしなねじれが見えて来ました。オリンピック誘致のプレゼンで国の責任者たる首相が「安全です、完全にコントロール下にあります」と断言したのに対して、あの東電が「汚染水の流出は抑えられない」と言っているのです。それで私は思いました。まだ東電のほうが誠実なのではないかと。あれほどひどい会社でも、認めたくはないが、放射能汚染水というおそるべき悪魔の物質を垂れ流すことを覆い隠すことはできないと判断して、ここは正直に認めたほうがよいと言っているのです。このことの意味することは、阿部首相はそれよりもひどい嘘つきだということです。私は思いました、「東電にまかせておけない」ということの意味は、「東電の嘘のつきかたは十分ではない。嘘はこうつくものだ」という意味なのではないか、と。

9月11日 検察は東日本大震災について、だれにも責任がないとしたそうです。これほどばかげた結論があるでしょうか。もっと読む

9月8日 テレビをつけるとオリンピック招致が東京に決まったといい、大喜びする人の映像が紹介されていました。

 私はまったくうれしくない。よせばいいのにと思う。思いはたくさんあるが、少しだけ書いておきたい。もっと読む

8月30日 心からうらやましいと思った。ふたつのことである。もっと読む

8月24日 8月24日の朝日新聞朝刊の「プロメテウスの罠』シリーズに私の取材記事が載りました。東日本の方は読まれたかもしれません。私のいいたいことは次のようなことでした。もっと読む

8月23日 モンゴルに行っていたため、しばらくご無沙汰していました。朗報があります。岩波ジュニア新書で「動物を守りたい君へ」という本を出すことが決まりました。出版は春に決まっていたのですが、「ナラの木」の詩を紹介したかったので、その許可を取るまでは公表を控えていました。モンゴルに行っているあいだに許可が得られたという連絡がありました。この本はこれからの日本の子供たちが生きていく上で、動物との距離がますます遠ざかるという状況のなかで、いかに動物との関係を築くべきかを考えてもらうことを目的としました。動物といっても私が専門とする野生動物だけではなく、ペットや家畜も含まれますが、それらについてもさまざまな問題があります。そういうことを紹介しながら、自然界では生き物がつながっているということをわかってもらいたいということを書きました。最後のほうで東日本大震災に触れて、これがいかに深刻な惨事であったか、そして動物を自然を放射能汚染するということがいかにおそろしいことであるかを書きました。それは大きくいえば日本人と自然との関係を問い直すことにもつながります。
 このブログとの関連でいえば、震災のことを記述するなかで「ナラの木」との出会い、その展開についても紹介しました。地方訳としては盛岡版(岡澤訳)を紹介しました。
 これによって若い世代に「ナラの木」を読んでもらえることになるので、うれしく思います。
 「ナラの木」を紹介する本は2011年の秋くらいから考えており、少しあたってもみたのですが、要するに同じ詩が並んでいるだけでは売れる本にならないということで、出版には漕ぎつけませんでした。私の中では今でも本にしたいという気持ちはあり、この詩のこと、ナラの木の生物学的な特徴のこと、方言のすばらしさなどをもりこんだ本を作る夢は持ち続けたいと思っています。それはかなわないことかもしれませんが、今回、こういう形で公開できることになり、少し溜飲を下げた思いです。
 出版は順調に行けば10月の予定です。


8月12日 汚染水について思うことがあります。
 政府が東電に見切りをつけて、汚染水が流れ出ないための対策をする、ということは税金を使うということだという報道がされました。このブログの訪問者の皆さんは、東電をあからさまに憎む私が「とんでもない」と言うと思われるでしょうが、そうではありません。それは次のような理由からです。もっと読む


8月10日 昨日の朝日新聞の一面に「原発事故、全員不起訴へ」という見出しで、東電首脳、管元首相、原子力安全委員などに対して検察が動いていたことが報じられた。このことについては、私は「東電は業務上過失致死罪だ」とずっと言って来たことで、検察が動いていたこと自体はよかったというか、社会の健全性という意味で安心した部分があります。ただ私の中では、東電首脳と管首相は全然別のものとしてあったので、意外感がありました。管首相は逃げ出そうとしていた東電を罵倒したという話でしたから、むしろ対立した存在と思っていました。記事の主旨はあの震災は予測不能であり、したがって起訴はできないということでした。これは反論はむずかしいように思います。ジャレド・ダイアモンドが、「文明崩壊」の中で、かつて崩壊した社会について、人の記憶は数十年しか伝わらず、とくに文字のなかった社会ではそうであったために、崩壊が落ちたといっています。百年以上前の出来事は伝わりにくく、たとえば大きいスケールで乾燥していても数十年雨が多ければ、「ここは雨が多い」と思ってしまい、乾燥しても「これは珍しいこと」と考えてしまうというのです。そうであれば千年に一度という地震が予測できないのは無理はないと思います。しかし、それは地震の素人についてであって、専門家である安全委員はどうなのか。それも「無理はない」のであれば、そもそも専門委員会とは何のためにあるのか。委員長である班目さんという人の発言はいかにもいいかげんでした。検察は犯罪をとりしまるのが仕事だから、犯罪とはいえないのかもしれないが、科学者としての倫理観や矜持という点ではいかがなものか。いずれにしても、これで東電は「あれは予測できなかったのだから、自分たちが悪かったのではないことが、公的に示された」と開き直ることは確実です。

8月8日 7月25日に汚染水のことを書きましたが、その後、この問題がいよいよ深刻になってきました。いいたいことはたくさんあるのですが、爆発前の地下水を「基準」以下であれば放水するように検討するというニュースを聞き、これは絶対にしてはいけないと思いました。これは日本の内部事情ではありません。日本が地球に対しておこなった深刻な加害です。国内法や国内基準で決めてよいことではありません。地球の基準にてらして、迷惑なことであれば決してしてはいけないことです。
 当時の首相であった野田氏が「終息宣言」をしたときにも思ったことですが、あれは何だったのでしょうか。私に言わせれば、自分の家が火事になっているのに、周囲の家に詫びることもなく、根拠もなく家族に「大丈夫だ」といっている愚か者です。しかも火事なら時間とともに終息しますが、原発事故の放射能汚染物質は決して消えることはないのです。いまなすべきことは、世界に詫びること、処理を東電という無能で不実な組織にまかせず、我が国の総力をあげて海を汚染しないようにすることです。