がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

8年目 2019.3.11

2019年03月11日 | エッセー
あの日から8年が経った。
昨日、NHKで「震災8年の真実」という特別番組をしていた。すばらしいというより - いやすばらしいという評価は違いないのだが - 重すぎて、番組の評価よりも内容そのものに衝撃を受けてしまった。
 先祖伝来の土地に新しい立派な家を建てた我々世代の人が子供たちは帰ってこないと知りながら、かと言ってその家を処分することに決心がつかないでいたが、期限を迫られてオーケーを出した。決心はしたもののいざ重機で家が無残に壊されるのを見て
「気持ちが悪いから」と言ってその場を立ち去った。
気持ちが悪いというのはおそらくその人の心をうまく表現できなかったと思われた。私などにはわからない、先祖代々の土地への思い。そこに若い頃から働いて立派な家を建てて、ついの棲家と決めて、穏やかに暮らそうとしていたはずだ。その家が、大工さんが瓦を下ろし、板を外すというものではない、ショベルカーのような重機で文字通り「破壊」されるのだ。その理不尽さに、その人の心の中に激しい動きがあったに違いないが、それを口に出せば「気持ちが悪い」としか言いようがなかったのであろう。
 家が大きく損なわれたが、仮設住宅よりはよいと思い、応急手当てをして暮らしていたが、痛みがひどくなったので仮設住宅に申し込もうとしたら、役所からは「家がある人は入れません」と心無い断り方をされた。あるいはアパート式の建物に一人暮らしの住人がいたが、死後かなり経ってから遺体が発見された。孤独死であった。住民は同じような例が他にもあるのではないかと心配し、住民の確認をしようと役所に問い合わせたら「個人情報は提供できません」と断られた。一体、行政は住民の良い生活のために仕事をしているという感覚があるのだろうか。
 一人暮らしさの虚しさにアルコール依存になった人が「死んでしまえば何も考えなくていいからその方が楽なんでないかなあ」と力なく語った。

 これらの人は何も悪いことをしていない。ただまじめに働き、平和に暮らし、穏やかな老後を楽しもうと思っていただけだ。人を傷つければ傷害という犯罪となって償いを求められる。当然のことだ。だが、原発事故によっておびただしい無実の人が人生を破壊されたのに、事故を起こした会社も原発を進めてきた国も罰されることはない。それはどう考えてもおかしいだろう。
 これだけの仕打ちを受けた人々は、しかし、その思いを怒りには向けない。ただ自分の心に押し込んで、苦しみ、悲しみ、泣くことさえしない。それは人として立派なことなのかもしれない。権力に抗うことの虚しさを知っているのか、それはしてはいけないことと思っているのか、そのエネルギーを持てないでいるのか。

 大越キャスターの優れた取材と編集による作品は、私の心の深いところにどす黒い液体のようなものを流し込んだ。その作品は、私に言葉や詩が被災者の力になるものではないことも思い知しらせ、現実はそれほどに過酷なものであることを教えてくれた。

 不思議なことに、このサイトには今でも100人ほどの人が訪問している。コメントは何もない。その意味ははかりかねるが、しかし、この詩が力を持っていることは間違いないようにも思う。これを読んで被災から立ち上がるよう頑張ってくださいとは言うまいと思う。それを期待するのは傲慢でもあるだろう。そうではなく、純粋に作品として、人のプライド、力を信じる者への力を与えるものとして読んでもらえばよい。その中に被災した人がいることもあるかもしれない。そう思った。

2019.3.11