がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

責任

2011年04月01日 | エッセー
検察は東日本大震災について、だれにも責任がないとしたそうです。これほどばかげた結論があるでしょうか。

 梅棹忠夫先生が亡くなり、東京でも展示があったので見て来ました。早春のことだったと思います。たいへんすぐれた学者で、民族学の大家で「文明の生態史観」や「知的生産の技術」などベストセラーライターでもありますが、若い頃は動物学者でした。内容もさることながら、わかりやすい文章が魅力的でした。この人の超人的なのは、失明してからも、たくさんの本を書いたことです。それも内容の濃いものを量産しつづけました。
 戦後、みんながうつむき、自信をなくし、伝統的日本を恥じていたとき、ひとり梅棹は明るい日本の将来を夢見ていたそうです。事実日本はそのようになり、梅棹は大学、研究という枠を超えて、マスコミにも政治経済にも軽々とスラロームして、実に見事な一生を送りました。
 その梅棹は司馬遼太郎とも親交がありました。司馬を追悼した本がたくさん出ましたが、そのなかに梅棹へのインタビューがあります。

 お二人がおっしゃっていた、日本人が失った志とはどういうものでしょうか。
梅棹:カッコのええ言葉でいえば、理想主義ということでしょう。自分を超えた、民族としての、あるいは人間としての共通の理想みたいなもの、これがあったと思うんですよ。明治の日本には明らかにそういうものがあった。それが個人化した。個人の利殖、栄達が人生の目標になってきた。それはたしかに大事ですが、そうでないものが日本にはあったはずなんです。私個人としても悲観的に傾いている。二十一世紀の中頃には日本はだめになるやろなあと。

 私はこの梅棹のことばの中の「私個人としても」という一言に注目します。周りのみんなが悲嘆にくれているときでも明るい笑顔で「日本は大丈夫やで」と言い続けた梅棹が「その私もさすがに」という意味で言ったように思えます。この人は論理の塊のようで、直感力もすごい人でした。大学者である梅棹のこのことばは、悲しいけども当たるような気がする。明治の政治家であれば、世界に迷惑をかければ頭を下げて詫びたであろうし、技術者であれば、自分のミスで事故が起きれば私がまちがっていましたと詫びたと思います。東京に大きな地震が来ることを懸念して防災の講演をしていた助教授を、社会不安をあおるからとして押さえつけた教授が、実際に関東大震災が起きたあと、自責のあまり、精神を病み、急逝したそうです。一人一人が自分の人生を社会との関連で考え、社会共通の理想に貢献しようとしたからだと思います。そのかけらすらない、私利保身に生きる輩が社会を動かし、都合が悪くなれば自分には責任はないという。本人が保身のためにそういうのも気に入らないが、法の番人である検察がこれでは、存在意味がありません。
 こんな社会に明るい未来などあるはずがない。司馬にも、梅棹にも、会わせる顔がない。

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