がんばれナラの木

震災にあわれた東北地方の皆様を力づけたくて
The Oak Treeを地方ことばに訳すことを始めました

もうひとつの津波

2011年04月02日 | エッセー
もうひとつの津波 2011.8.6

スリランカの子供たちからかわいい手紙を受け取って、改めて思い出した。2004年の12月にスマトラ沖地震が起きて、スリランカの東部と南部が大きな被害を受けた。
 当時私は東京大学大学院で大学院生を指導しており、そのなかに2人のスリランカからの留学生がいた。またスペインから留学していたアイムサ君がスリランカでアジアゾウの研究をしていた。私も何度かスリランカを訪問し、人々のやさしい態度や無邪気な子供たちに親近感をもっていた。そうしたときに起きた悲劇であったから、留学生たちと支援活動を始めた。というより、アイムサ君は津波があったとき、現地にいて、その惨状を目の当たりにし、救援隊を組織して支援活動をすでにして帰国したのであった。


津波に遭い、呆然と立ち尽くす人々 2004.12 撮影アイムサ


たったひとつの「笑顔」 2004.12 撮影アイムサ

 なにをどう始めればよいのか皆目わからないが、ともかく苦しんでいる人、とくに子供たちがいるのをなんとかしたいという思いで、お金と物資を集めて送ることは私たちでもできることだった。それで私は知己があまり多いとはいえないし、失礼ながらお金持ちはまったくいないのだが、事情を説明するeメールを送ることにした。
 お金のことを書くのは少しはばかられるが、私は20、30万円を集めて送れば私のできることとしては十分だろうと思っていた。ところが、その額には数日で達し、友達がその友達に声をかけて輪が広がり、当初予測していた額の10倍以上が集まった。集まってしまったという感じだった。多くの人が気持ちよく送金してくださったばかりでなく、逆に「機会を与えてもらってありがとう」と逆にお礼を言う人さえいた。「あの人には足を向けて寝られない」というが、そういう気持ちだった。
 スリランカの二人は懸命に動いてくれて、多くの物資を確保して母国に送った。私は予想以上に集まったお金の使い方を二人に相談し、津波で孤児になった子供たち20人ほどを選んで息の長い教育支援をするための基金を立ち上げることにした。もともと経済的に余裕のない家庭が多く、働き手を失ったら、学校に行くこともできなくなる子が多いということだったので、成績のよい子供19人を選んで、その子が高校を卒業するまで支援することにした。
 4月になって、私は時間をとって現地を訪問することにした。文具やお菓子をおみやげにしてスリランカの南のハンバラントータという港町を訪れた。


津波で破壊された家 2005,4 ハンバラントータにて

そこからさらに移動した小さな町の小学校で歓迎会があるということだった。学校に着くと、スリランカでは国中がそうなのだが、純白の制服を着た生徒たちが私を待っているようだった。二人の少女に木の葉を重ねたものを渡されたが、それは特別の敬意を表現するものだということだった。会場に入るとたくさんの子供とそのお母さんたちがいて、黒板には「A friend in need is a friend indeed」ということばが飾ってあった。高学年の生徒がお礼のあいさつをしてくれて、私も発言を求められた。私はちょうどひと月前に父親を失ったところだったということもあり、幼い子供たちを見ながら、この子たちが不安の中で懸命に生きていることを思って、少しウルウル状態だった。挨拶の言葉を話しながら、協力してくださった知人のこと、この子たちの心情、私たちは当然のことをしただけなのに、そのお礼としてこんなにたくさんの人が集まってくれていることなどが思われて、こみ上げるものを抑えられなくなりそうだった。それでも、なんとか、「私たちは皆さんががんばって勉強できるよう支援しますから、安心して勉学に励んでください」と言葉を締めくくった。


プレゼントを受け取る少年 2005.4


大きな沙羅双樹の下で個時たちと記念撮影 2005.4

 そのあと、会場に来れなかった何人かの子供の家を訪問したが、いくつかの家庭は本当に貧しそうだった。家に何もない。土壁の家に食器はあるが、テーブルさえない家もあった。だが、子供たちの表情は明るく、目は輝いていた。4年生くらいの男の子は、外国から来た訪問者を前に緊張したおももちだったが、「僕は一生懸命勉強して、妹たちのためにこの家を支えます。」と言った。私は明治時代の日本の若者はこういう顔をしていたのだろうなと思った。日本の男には習慣がないので私にはできないが、許されるのであれば抱きしめてあげたいという衝動があった。
 その後、子供たちから絵を添えた手紙が届いた。私がシカの研究者だということを聞いたのか、シカや動物を描いたものが多かった。
 あれから7年ほどが経つ。子供たちもずいぶん成長したことだろう。おかげで支援は継続できている。そうした矢先に今度は日本が津波を受けることになった。
 「ナラの木」の紹介という、自分でもまったく想定していない形の支援を始めることになった。スリランカのときとはまったく違うことをしている気持ちだったので、自分の中ではあまりつながっていなかったが、スリランカの子供たちから手紙をもらって、いすれも津波をきっかけに動き出したことだったのだと改めて思った。
 


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2 コメント

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継続していること (どんぽのばぶ)
2017-08-25 06:16:56
この記事を今日(2017/8/25)たまたま読んでいます。支援を始められて、その後の経過や現状なども是非ご紹介ください。
私は2011年の6月からこつこつ支援活動をし続けていますが原発事故に巻き込まれた多くの子どもたち、とりわけ福島の子どもたちの現在やこの先5年後、10年後の彼らの現状など見守り続けていこうと思って行動しています。
息長く支援を続けることの大切さすばらしさを発信し続けている人と出会えるのは貴重です。
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その後のこと (高槻成紀)
2017-10-20 06:27:36
支援している子どもの何人かは大学に入りました。来年は現地に行って会おうと思います。
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